スーキーはいつだってこう3
ふたたびデリが意識を取り戻したとき、彼は店内最奥のテーブル席に並ぶ椅子の上に寝ていた。
時計を見ると、すでに日の出は迎えているらしく、壁際の席で寝こける相変わらず腰にタオル一枚のキングと、入り口近くのテーブル席で寝ているシュメールと、カウンターの隅の席に姿勢正しく座ったまま寝ているらしいマスター以外に、客の気配がなくなっていた。
「……僕、どうしたんだっけ……?」
躰を起こした拍子に毛布がずり落ち、頭に刺すような痛みが走った。躰に残るひどい倦怠感はシュメールに魔法を使われたときとよく似ている。
なんとなく、客に酒を勧められて、舐めたような記憶がある。
『昔は十二にもなれば家をおん出されて一端の男として生きたもんだよ』
そんな言葉をはっきり覚えている。せっかく住まわせてもらってるんだからコックとして働かないと、とか。そんなことも言われたような。
ポテトを欲していた男にはちゃんと揚げたてを渡した気がするのだが、なぜかカウンターに萎びたポテトの皿があった。
「……なんで……?」
揚げたポテトはすべて油紙で作った包に入れ、持ち帰らせたはず。ほとんど叩き出されるようにして男は店から出ていき、それから――それからどうしたのだろう。
頭痛に眉を寄せつつ椅子から降り、デリは毛布の処遇について考えた。
普通に考えればマスターの肩もしくは膝か、シュメールの背中にかけるべきだ。
しかし、マスターの不動の構えは毛布一枚の重さで起こしてしまいそうだし、シュメールの背中には誰のものともしれない上着がかけられている。
となれば、とデリは壁際のキングに目を向けた。
意外なほど寝息は静かで、端正な顔立ちも相まり、見ようによっては中世の彫刻のようでもある――が、片膝を立ているせいで就寝中のウツボも丸出しだ。
しょうがない人だなぁ、とデリは小さなため息をつき、キングのキングを毛布で隠してしまうことにした。
薄暗い店内。足元に目を凝らし、そっと毛布を広げたとき、自分がため息をついたことを思い出す。見えなくなっただけで本当はまだそこらにいるかもしれない妖精。
……まさかね、と苦笑した、まさにそのとき、外から低く唸るような音が聞こえてきた。規則的でバタバタした音は徐々に大きくなり、店のすぐ近くで甲高い金擦れの音を立てた。その音は、最近になってよく聞くようになった音だった。
「……自動車?」
「――だな。諸悪人の路地は車の乗り入れ禁止だってのに」
「うわ!?」
寝ていると思っていたキングの声に、デリは思わず頓狂な声をあげた。
「シッ、静かに」
キングは躰を起こしながら、デリを傍にしゃがませた。
「……まずいのが……きた……」
自動車の音か、デリの声か、いつの間にやら起きていたマスターは静かに立ち上がり、カウンターの端っこを慎重に跳ね上げた。テーブル席で寝ていたシュメールも背中にかかっていた上着をのけて椅子を立つ。
カウンターに回り込んだマスターは、キングと、シュメールと、デリに目配せし、
……シィーーー……
と、息を潜めた。
マスターのいう『まずいの』が、歌をうたいながら近づいてくる。
「わたーしぃーのー、かわーいぃーいぃーーー、しょう、ね、ぇぇぇぇんはぁー♪」
朝靄すら引っ込みそうな調子っぱずれの歌声。
スーキーだ。
店の空気が張り詰めた。
どうしてここが? 決まっている。昨日、部下二人は店の中までやってきた。戻ってくるのは必然だ。仲間がいる夜は避け、朝になってやってきた。
デリはマスターに顔を向け、グミさんは、と唇を動かした。
マスターは天井を指差し、次に店の入口を指差し、首を左右に振った。
「薬が切れてりゃ、もう降りてきてるってか」
キングが、デリの耳元を掠めるように囁いた。声に緊張が滲んでいる。
本物の魔法使いに、マスターのかくれんぼは通用するのか?
皆の表情が固くなった。
「こぉぉぉ、うぉうぉうぉうぉぉぉぉ、ちぃぃぃーーらにぃー、おわし!」
ガン! と扉が蹴り開けられた。
「まー、あぁぁぁぁぁぁぁぁ、すかぁぁぁぁああああっっっあっっあっあ♪」
スーキーの気配が店に侵入してきた。マスターの魔法が効いているのか姿は見えない。向こうにもこちらの姿は見えていないようだ。
「ふぅん? 鍵はなし? 空き家? じゃあないわよねぇ?」
まるで亡霊。姿の見えぬスーキーの足音だけが店内をうろつく。テーブルに残る食べ残しの皿や、空き瓶や、酒の残るグラスの前にくるたびに、足音が止まった。
マスターの無表情が硬度を増し、デリの横腹を抱えるキングの手に力が入った。シュメールが振り向き、デリのせいよ、と唇を動かす。
僕の!? とデリが身を強張らせるのとほとんど同時、
「そこ!?」
ダダダダンッ! とスーキーが走った。
デリは喉が乾いていくのを感じた。
スーキーが走ったのはあさっての方向だった。声を張り上げたのはこちらの動揺を誘うため――いや、深夜、暗い廊下で声を出してみるようなもの、かもしれない。
楽観的な発想だとは思う。だが、そうとでも思わないと気が触れてしまいそうだった。
しばらく動かずにいたスーキーの足音が、その場で踵を回した。また止まり、
「……ユピィ!」
急に楽しげな外国の響きを発し、足早にカウンターに近づく。そして、
カウンターに忘れ置かれた、萎びたフレンチ・フライド・ポテトが一本、宙に浮かんだ。スーキーがつまみあげているのだ。
マスターが無表情を崩し、眉間に皺を寄せた。シュメールがつま先立ちになってスーキーの気配に歩み寄っていく。
やる気だ。
金縛りにする魔法をかけるつもりなのだ。
デリは息を詰めて勇気を見つめる。
シュメールが手を伸ばせる距離に達した。まだ仕掛けるなというようにマスターが手をかざす。
「これよ、これ! あの首吊りオナニーオヤジの喉につまってた、細切りポテト」
スーキーが手に持っているであろう宙に浮いたポテトが半分ほど消え、
プツン
と、ちぎれた。
「湿気ってなければ美味しいんでしょうけど……まぁ、いいわ。同じ味だし」
スーキーの幽霊がつまんでいたポテトを投げ捨て、んんっ! と咳払いをした。
「……見ぃぃぃぃぃぃつけたぁぁぁぁぁ……」
バン! とカウンターを叩いて身を乗りだし、スーキーがマスターと額をぶつけあいそうな距離まで迫る。瞬間、かかれとばかりにマスターが片手を払った。ほとんど同時にシュメールが突っ込み、鼻先をスーキーの髪に寄せる。だが、
スーキーは待っていたかのように振り向き、大きく口を開いた。刹那、油が混じったような粘着質な煙が吹き出し、シュメールの顔を覆った。
「――ッッッ、アッ、カッ、アッ――!?」
煙を吸い、シュメールが頭を仰け反らせながら二、三歩、後退った。酒に酔ったように躰を揺らし、転ばぬようにと足を踏ん張り、ゆっくり顎を下ろした。
蒼白の顔。ぐらぐら揺れる首。視線が虚空を彷徨い、スーキーを捉えた。途端。
プッ、と右の鼻から血を飛沫き、ぐりんと両眼がせり上がる。
シュメールは、糸の切れた人形のように膝から崩れ、仰向けに倒れた。
「――ウゥ♪」
スーキーは両手の人差し指を伸ばし、床に崩れ落ちたシュメールに差し向けた。
「シュメールちゃん、だったかしら? どうだったかしら?
シュメールの唇は酸欠の魚のように開閉し、躰は電気を打たれたように痙攣している。
スーキーは満足げに舌なめずりし、腰を折って話を続けた。
「まだ耳は聞こえてるかしら? だったら聞いて? 私の母国に『さかしま』という本があるの。まるで貴女のために書かれたような
痙攣を続けるシュメールが失禁し、水音を立てながら小水が広がり始めた。
「あらぁ、お漏らし? おクスリでぶっ飛んでおしっこって、最低で、最高ね」
スーキーはくつくつと笑いながら靴を引き、マスターへ振り向いた。
「貴女は――はじめましてよね? お名前はなんていうのかしら?」
「……キング……行って……」
淡々としたマスターの声に従い、固まっていたキングがデリの腰を抱きかかえ股間のタオルを取り払った。槍はまだ臨戦態勢に入っていないが、彼は叫んだ。
「行くぞデリ!」
「でも――」
「でもは、ねぇ!」
キングが床を蹴った。時間が飴のように引き伸ばされていく。デリの認識速度を越え、風景が水に流した絵の具のように混ざり始める。そんななか、
スーキーだけがはっきりと見えていた。
いってらっしゃい。
そう言わんばかりに手を振っていた。キングはデリを抱えたまま目にも留まらぬ速さで店の入口を抜け、店近くの道をふさぐ車を飛びこえ、通りを駆ける。デリの目に映るもの全てがただの光と化し、後方に吹っ飛び始めた。
フラッシャー――露出狂と名付けられたキングの魔法が十分な加速を終え、空間を渡る。
渡り、渡り、渡り、溶けていた色味が戻ったそこは、
「クークー♪」
スーキーは右足を大きく振りあげ、呆然とするキングの股間を蹴り上げた。
CRAAAAAAAAACCK!!
――無音の絶叫。躰が浮くほどの力で股ぐらを蹴られたキングは、デリを手放し床に突っ伏す。全身に脂汗を浮かせ、額を床に擦りつけ、無言で嘔吐し、べしゃりと動かなくなった。
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