橙色紙片

「これだ! これだよ! この味だ! ああ! 故郷だ! 俺の故郷の味だ!」


 男は狂喜に濡れた声を上げながらポテトをつまんだ。一本から二本、二本から三本――数本まとめて口に入れ、むしゃりむしゃりと咀嚼しながら左手で新たにつまむ。


「ひょれ! ひょれ!」


 食べかすを散らしながら言った。


「こいつだよ! 間違いない! 故郷で俺が食ってたのはこれなんだよ! ああ、すごい! すごいぞ!?」


 酔っているにしても大げさな反応に、店の誰もが呆気にとられた。

 ただデリだけは、男の狂態ともいえる喜びように、言い表しがたい興奮をおぼえていた。


 やった。やった! 僕のつくった料理は美味しい? たまらない? もっとどうぞ? もっともっとどうぞ? いっぱいいっぱい食べて、悦ぶ顔を見せて?


 ドクドクと快感が迸る。自分の手料理で誰かが悦ぶ。これより愉しいことはない。祖父は滅多に悦ぶ顔を見せてくれなかった。口では美味しいと言っても、内側から吹き上がるマグマのような感情を、全身全霊で押さえ込んでいた。

 でも、本当は、こうなるんだね……。

 と恍惚に浸るデリを胡乱げに見つつ、グミは横から手を伸ばし一本つまんだ。


「そんなに? たかがポテトで?」


 サク、と前歯がポテトを断ち切った瞬間、


「――ンゥゥゥッ、アッッッッッアァッ!?」


 グミの瞳孔がぐんと大きく広がった。


「ちょ! グミ?」


 よほど珍しいのか、驚いたシュメールが口に運びかけたグラスを置いた。

 グミは両腕で自らの肩を鷲掴み、あ、あ、とか細く喘ぎ、小刻みに躰を震わせながら、濡れた瞳をデリに向ける。


「デリっ、こ、これぇ……いったひぃ……」


 唇の端から涎の筋を垂らしながら、グミは舌っ足らずな甘い声を出した。

 デリはゾクソクするような興奮をおぼえながら小さな胸を張った。


「フライド・ポテト……バスティーユの夜明け風、です!」

「なに? なんなの? その、変な名前――!」


 グミは抗議とも非難ともつかない言葉を並べながら男の皿に手を伸ばす――が、自らの左手で、ポテトをつままんとする右の手首を押さえ込んだ。さながら、毒蛇の頭を押さえるように。


「バスティーユって……それ……」


 シュメールが険しい顔をし、グミとポテトの皿を見比べた。


「まさか、あのバスティーユ? 人類史に残る最低の変態がいた、あの監獄?」

「え、変態、ですか? えっと……バスティーユがどこか知らないですけど――」


 デリは変態という単語にいささか動揺した。

 その間にも、男はポテトを貪るように食べ続け、とうとう皿を空っぽにした。


「美味い! 美味いぞ! 最高だ! デリって言ったか坊や! もう一皿! もう一皿でいいから作ってくれ!」


 男の血走った眼に迫られ、デリは一時、我を忘れて内心で、やった! と叫んだ。

 勝った。完勝だ。もしかしたら、祖父が姿を消して以来、あの人がオートミールを食べたとき以来かも――そう、あの人、

 スーキーが。

 デリは凍りついた。上がったり、下がったり、荒波に揉まれる小舟のように感情が揺れ、要望に応えようとする躰と、主の異常を察知した精神が、乖離していく。

 固まるデリの隙をつくように、グミが息も絶え絶えに言った。


「ねぇ、デリ? これ、どうやって作ったの? 誰かに習ったの?」

「これは……お祖父ちゃんの、本棚で、見つけた、レシピで……」


 訥々とつとつと説明をする間にも、男の早く早くとせがむ声が耳に飛び込んできて、男が自らの手料理で悶える様をみたいという抗いがたい誘惑にかられる。

 デリは片手で両目を覆って誘惑から視線を切り、やっとの思いで説明を続けた。


「医学書か、なにかの、とっても難しい本で、でも一頁だけ違ってて……」

「その頁、縁が橙色に塗られてなかった?」

「そう、そうです! その頁だけ端っこが橙色になってて、まったく違う本からもってきたみたいな感じで――!」


 そこまで話したところで、もう分かったとばかりにグミが片手をあげた。


「橙色紙片……ああ、コーウェン……なんてものを見つけたんだ……」


 グミは眠たげな目をデリに向け、ドライ・ジンのグラスを掴んだ。


「デリ、それ、もう作っちゃ……ダ……」


 ガダン! とグミがカウンターに突っ伏した。手を離れたグラスがカウンターから転がり落ち、床で弾けるように割れた。デリは慌てて身を乗り出す。


「グミさん!? どうしたんですか!? 橙色紙片って!? グミさん!?」

「……しまった……」


 マスターがぽつりと言った。


「……薬……タイミング……間違えた……」


 デリとシュメールは揃ってマスターに顔を向けた。

 マスターはいつもと変わらぬ無表情を保ったまま、しかし多少の気まずそうな気配を漂わせ、ポテトを寄越せと騒ぐ男の隣を指差す。

 眼鏡をかけた初老の男が、帽子を持ち上げ会釈した。


「呼ばれた医者だよ。どうせ女王のことだから言っても聞かんだろうと睡眠薬を持ってきたんだが……まさかドライ・ジンに仕込むとは思っとらんかった。まぁ、死にはせんだろうから安心したまえ。……起こせもしないがね」


 人騒がせな、とデリは安堵の息をつく。

 シュメールや隣の医者がたしなめるのも聞かず、男がポテトポテトと騒いでいた。


「……デリ……作ってあげて……」

「え、でも、グミさんが……」

「……大丈夫……グミは……私が……運ぶから……」

「じゃ、じゃあ、お任せして、僕は――」


 料理に取り掛かります、と続けようとしたとき、また抗いがたい誘惑が、情念にも似た強烈な歓喜となって躰に走った。

 さぁ、やろう。すぐ行こう。我は味覚の支配者ルーラー、この男を歓喜の果へと――。


「……デリ……」

「はい!?」


 低い、はっきりと感情の乗ったマスターの声に、デリの脳裏で響く声が薄れる。

 マスターは、じっとデリの瞳を覗きこみ、言いつけるように囁いた。


「……作ったら……持ち帰らせること……約束……破ったら……怒る……」

「あ、えと……はい……」

「大丈夫、私が見ておくわ」


 やりとりを聞いていたのか、シュメールが言った。

 マスターは小さく頷くとカウンターの端っこを跳ね上げてグミの背後に回り込み、まるで小麦粉の袋を持ち上げるようなやり方で躰を担いだ。


 デリはマスターと医者が奥に引っ込んでいくのを見送り、男のオーダーに応えるべく厨房に立った。再び肚の底から熱っぽい感情が湧き上がってきた。しかし、シュメールが目を光らせてくれているからか、ほどよい緊張を強いられていて、強烈な悦びも我を失うほどではなかった――


 ――はずなのだが、デリの記憶はそこで途切れる。

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