芋。それはソウルフード。

 男は満足そうに紙巻煙草を咥え、マッチを擦った。


「まぁあいつらが業を満たして呪いを解くには一生かけても足らないかも……ってなところで聞こうか。どういうことだ?」


 男はぷっと煙を吐き、カウンターに並ぶ空き皿を見た。


「マスターが五人分も作るとか、明日は空からカエルが降るのか?」

「……私じゃない……デリ……」


 マスターは男の言葉に首をふるふると振り、デリの肩を引き寄せた。

 グミが息を整えつつフォークで皿を一度叩いた。


「子供だと思って甘く見ないほうがいいよ。なかなかのもんだった」

「なかなかぁ?」


 キングが言った。


「この国の味じゃねぇけど絶品だよ」


 そうね、とさらにシュメールが続ける。


「この国は料理って言葉の意味が違うんだって、ずっと思ってたもの。外で食べてほっとするなんて、本当に久しぶり」

「……キノコ……食べられた……いい子……」


 相手を考えれば最高級に思える賛辞を並べ立てられ、デリは照れながら目線を下げた。いつの間にやら横髪の三編みにオレンジ色のリボンが結ばれているのに気づき、そっと解いた。少しだけマスターが不満そうな目をした気がした。


「なるほどねぇ。とうとうファジーセットにもコックが来たか」男は鼻で息をつきつつ、灰を落とした。「なら、どうだろう、ひとつ頼まれてくれないか、えーと……」

「あ、デリです」


 一瞬、またどもりそうになったがなんとか一息で言った。

 男は首を縦に振りつつ、タバコをふかす。


「実はな……俺は色々とやらかしちまって故郷に帰れないんだが……なんとかして、あっちのポテトを食べたいんだよ」

「……ポテト、ですか?」


 かくんと小首を傾げるデリに、男はマスターの顔色を窺いながら続ける。


「ほら、こっちのポテトは例の――フィッシュ・アンド・チップスってやつだろ? あのポテトがなんかこう、そのまま食べるとボソッとしてるし、得体のしれないソースをかけるとべしゃっとするし、だいたいポテトが食いたいだけなんだから、魚が邪魔なんだよ、俺にはさ」

「えと……それならチップスだけ頼めばいいんじゃないですか?」


 デリの当然の指摘に、男は低く唸った。


「分かってる。分かってるんだよ。だけどこう、俺が食いたいのは、なんだ、フレンチ・フライってやつなんだ。もうカリッカリでサクッサクのやつ。ところがこっちのときたら――」


 続く男の愚痴にも耳を傾けながら、デリは頭の中でレシピブックを広げる。

 チップス――ようはジャガイモの揚げ物には、無数のバリエーションがある。

 まず芋の選別に始まり、薄くスライスするのか、乱切りにするのか、棒状にするのか、形状だけでも千差万別。揚げ方にしたって本の数どころか人の数だけあると言っても言いすぎにはならない。


 しかし、フレンチ・フライと呼んだことからして、男はそのポテトが生まれた土地の出身ではないとうかがえ、かつ、ソースやチーズがいらないとなると――、

 デリは無数のレシピから特別なひとつを見つけ、あ、と声をあげた。


「できるかもしれません。さっきレシピに載ってたジャガイモありましたから」

「ほんとか!?」


 男が勢いよく腰を上げ、デリは思わず仰け反り踏み台から足を外しかけた。その背中をマスターが支え、……気をつけて……と、優しく下ろす。

 デリはお礼を言いつつ、まったく表情を変えないマスターを見上げた。


「あの、僕がつくってあげても、いいですか?」


 頼むとばかりに低頭する男とデリの間で、マスターの視線が往復する。キィと扉が軋んで新たな客が顔を見せた。ひとつ、ゆっくり瞬き、電話を見つめ、そして、


「……許可……デリが料理すると……客が……増える……医者も……呼べる……」


 お客様、お医者様じゃないのかよ、とキングが呟き、シュメールに肩を小突かれた。グミが肩を竦めて、破顔した男は期待の眼差しをデリに向ける。


「任せてください! 絶対、美味しいポテトを作りますから!」


 デリは自信たっぷりに袖をまくりあげた。

 これと決めたのは、秘密のレシピだ。

 より正確には、秘密にしなければいけないレシピである。

 以前、書斎の本棚を漁っていたとき、偶然に見つけた奇妙なレシピ。古い医学書の写本だったのだが、その頁だけ料理のレシピになっていて、丁寧な色付きの絵が添えられていた。古語も含めた古めかしい言い回し、レシピの名前も奇妙奇天烈。図鑑や事典なら作者の名前は末尾に記されるが、その頁は頭に名前がついていた。


 ユーノマュツシ・サトゥータ・ツャ。


 発音のしかたもよくわからない、とてつもなく変な名前なので、よく覚えている。名前のすぐ横に写真のように精密な肖像画があったのも印象深い。

 レシピそのものは単純で、しかし、妥協を許さぬ細かさがあった。

 使うジャガイモはラグビーボールのような楕円形で、縦三ミリ幅の細切りとする。目を細かくした小麦粉に少量の砂糖を混ぜてまぶし、最初は低温で揚げ、冷ましたら高温で二度揚げする。揚げ時間も厳密に定められており、懐中時計を注視しなければならない。


 どうして、そんなレシピを詳細に覚えているのか。

 それは、三つの理由による。

 ひとつには祖父の帰宅前にレシピを転記したからであり、ふたつにはデリにとって初めて挑戦した厳密なレシピだからであり、三つには食した祖父が信じられないほど悦んで、


「私の見ていないところでは二度と作っちゃいけないよ」


 と怒ったからだった。

 デリはサッと油を切って、適当な皿に新聞紙を敷き、ポテトをあげた。塩を振って、軽く和え、味見に一本つまみ食いする。

 ぞわっ、と全身の産毛を浅撫でされるような快感が走った。


 最後に作ってから数年が経つが、あのときと全く同じだ。歯当たり、口触り、匂い、味、すべてが一体となって食した者の躰を貪る感じ。指先が、手が、腕が、躰が、頭が、脳につながる全神経が、もう一本食べてくれと叫んでいる。油断すれば皿が空になるまで試食を繰り返してしまいそうな、支配的な味。だが、デリは耐えられる。


「これなら、絶対、大丈夫……だよね」


 台所と食卓を統べる王。食べる側でなく食べさせる側。悦ぶ側でなく悦ばせる側。

 デリの口角が妖しく吊り上がった。

 魔性を秘めたフライド・ポテトの皿を胸元にかかげ、デリはカウンターに向かう。自らの庭に現れた来訪者をもてなすために進み――呆気にとられて瞬いた。

 ポテトがあがるまでにカウンター席はすべて埋まり、テーブルも大半が人に埋もれていた。


「……え、っと……」


 立ち尽くすデリに、カウンターの中年男が片手をあげた。


「おお! 待ちわびたぞ! こっちはもうすっかり出来上がっちまったよ!」


 男は酔っぱらいの笑顔をみせ、隣に座るグミの肩を抱いた。グミは迷惑そうに手を払い、ショットグラスのドライ・ジンらしき液体を啜った。その脇でシュメールがカクテルグラスに口をつけ、テーブル席に移動したキングは素っ裸に腰タオルのまま馬鹿話に興じている。

 マスターは、先ほどと同様にシェイカーを片手で雑に振っていた。


「……デリ……客……待ってる……」

「お、お客さま! おまたせしました!」


 デリは慌てて渾身のフライドポテトが載った皿を突き出す。

 皿はマスターの手を介して宙を舞い、男の前に着地する。


「おお! これだよ! これ! 見た目はこの感じだぁ!」


 男の叫ぶような歓喜の声に、デリの中でムラムラと悦びがもたげた。だが、


「――まぁ欲を言えば新聞紙は止めて欲しかったけどな。チップスを思い出すから」


 男の言葉にデリはちょっと消沈する。皿の上に紙を敷くかどうか。敷くならどんな紙にするのか。これはどうでもよさげなようでいて、すごく重要な問題だ。

 聞き耳を立てていたシュメールが、マスターが注ぐギムレットを一口舐めて、嬉しそうに眉をしかめた。


「――料理の熱でインクが温まるのよね。わかるわ」


 なるほど、とデリは脳内レシピブックにメモを書き足す。祖父はデリが出す料理にほとんど文句をつけなかったので、新鮮な情報に聞こえた。

 そうそうと応じながら男がフライド・ポテトの山の頂から一本つまむ。途端。


「――あ、あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」


 店中に響き渡るほど大きな歓声をあげた。

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