四章:美味しいモノ

かくれんぼがお好き

 自らの槍を磨きあげながら疾駆しっくするキングに手を引かれ、デリは過ぎゆく色の洪水から脱出した。風景が建物の形を取り戻し、無音の世界にあられもない笑い声が侵入してきた。


「アッハハハハハハ!! キング! またやってんの!?」


 女性の声だが嫌悪が感じられない。

 なぜ? と、羞恥と切なる願いで気絶しそうなデリの疑問に応えるように、別の女性の声が耳に飛び込んできた。


「キャハハハ! キング! 相手がいないの!? 安くしてあげてもいいわよ!?」


 安くって――あ。

 諸悪人の路地か、とデリが納得するのとほとんど同時、キングが足を止めた。


「お、お、お、おふっ……」


 さらなる爆笑。さすがにシゴキながらはまずいでしょ、と嗜める声まで聞こえた。


「ぬ……ぐ……デリ……おい、デリ」

「えっ、あ、はい!?」


 話しかけられたこと、応じようとした自分、それに声が出たことに驚きながらデリはキングの顔を見上げた。彼は左手でデリの手をしっかり握りしめたまま、右の手でずりおちかけていたビキニパンツを引き上げた。

 パツン! とゴムが小気味よく鳴った。


「デリ……太陽が黄色いんだ……あの路地に入って、最初の角を、左に……」


 そう言ってキングが伸ばす白濁した粘液まみれの右手に、言いようのないけがらわしさを感取かんしゅしつつも、デリは意図を察して走り出す。

 太陽はいつだって黄色い気もするけれど、魔法の源泉が術者の主観的世界で性的な欲望がうんぬんと言うなら、あえて太陽の黄色みに言及しなければならない理由はひとつしかない。


 きっと、キングさんは走る体力が残ってないんだ。


 そう決めつけ、デリは路地に立つ街娼たちに手を振られながら懸命に走った。これ以上の巻き添えを出す前に、せめてキングを安全なところに運び、それから生贄になろう。そう決めた。

 指示されるまま路地裏を走り、建物に入り、見覚えのある扉で足を止める。ファジーセットの看板は出ていなかった。

 あとはキングを押し込むだけ。

 しかし、それができない。

 走るのは苦手だ。息はとっくに上がり押し込む余力などない。

 お世話になりましたと言って去れ。わかっていても声にできない。

 キングがフラフラと前に出、右手でドアノブを押し込んだ。


「よく頑張った、デリ。俺はもう大丈夫だ」


 屍者のような土気色の肌。痩せこけた頬。なぜか振り向く顔は晴れやかだ。デリはぐんと強く手を引かれ、店に転がり込まされた。

 カウンターの奥で、メイド姿のマスターが小首を傾げ、ポツリポツリと言った。


「……いらっしゃいませ……じゃない……おかえりなさい……?」

「えと……ただいま、帰りました……」


 律儀に挨拶を交わしている場合ではないのだが、口はお行儀よく動いた。


「……いい子……」


 マスターは無表情なまま柔らかな気配を漂わせ、瞬時にそれを冷たくしてキングを見やる。


「……きたない……見苦しい……不健全……」

「おいおいおいおい、ひでぇ言い様だ。俺はデリを守るために――ブッ!」


 バフッとキングの顔面にタオルが投げつけられた。


「……トイレは奥……処理したら……それ……腰にまく……」


 キングは叱られた子供のようにうなだれ、重そうに腰をあげた。

 その寂しげな尻を見送り、デリは立ち上がった。


「あの、僕、行かないといけなくて」


 皆にしたのと同じようにペコリと頭を下げたが、しかし、


「……ダメ……」


 呟かれた拒否に、デリは思わず顔を上げる。マスターは普段と変わらぬ調子でカウンターの端っこを跳ね上げデリの前まで来、手櫛てぐしで髪の毛をいた。


「……すぐ……見つかっちゃいそう……だから……ダメ……」

「でも、あの」


 デリは髪の毛を梳かれるくすぐったさに首をすぼめた。


「すぐに追手が来ちゃうと思うんです。みなさんに迷惑が――」

「大丈夫」


 いつになく早口で言い、マスターはデリの肩を掴むとくるりと反転させて、背後から抱え込むように腕を回した。


「え、あの、え、と……」


 デリは胸元に回された手の冷たさと、後ろ頭に触れる柔らかな感触にどぎまぎしながら、マスターの顔を見上げた。


「あの、僕……その……」

「……おさまりがいい……」


 この体勢が、ということ? と頭の中でクエスチョンマークが踊った。

 マスターはデリを抱えたまま躰の正面を扉に向ける。


「……デリが帰ってくるの……わかってた……グミたちも……もうすぐ……」

「分かってた?」

「……かくれんぼは……得意……だから……見つけるのも……得意……」


 それってどういう、と尋ね返そうとしたとき、

 ズバン! と扉が開かれ、シュメールがグミに肩を貸して飛び込んできた。


「あぁぁぁぁぁ手についた! なんかついた! キング! 手を拭いてから触りなさいよ!」

「まぁまぁ、状況が状況。仕方ないさ」


 右の手首を握りてのひらを汚す白濁液に悶絶するシュメールと、さっそく手近な椅子にどっかり腰を下ろすグミ。顔色が悪い。見れば、左の脇腹から夥しい鮮血が溢れ出ていた。


「ぐ、グミさん!?」


 血に反応して飛び出そうとするデリだったが、マスターが躰を離さない。


「ちょ、あの! マスター! グミさんが――」

「わかってる」


 マスターはいつもより少しだけ早口に尋ねた。


「――グミ――」

「いやー、ヤッバイわ」


 グミはいつもどおりの人懐っこい笑みを浮かべ、真っ赤に濡れた左手をかかげた。


「スーキー、ヤバイ。ちょー強い。この三年でどんだけキッツい調教されたんだか知らないけど《業》の百貨店状態。蹴ろうが殴ろうが悦ぶばっかで話になんないわ」

「――そうじゃなくて――」

「あ、うん。何人か追っかけてきてる。まぁスーキーじゃないから大丈夫だと思う」


 ニッと笑ってみせるグミだが、額に浮いた汗の玉は隠しようがない。


「あの、僕――ムグッ!?」


 デリはもがきながら口を開いたが、マスターがすぐに塞いだ。


「――大丈夫――隠れるのは――得意――」


 マスターの言葉に、グミが大きく息を吸い込み口を閉ざした。汚れた右手の所在に困っていたシュメールも、仕方ないとばかりに口を閉じる。


「ああ、くそっ! 替えのパンツがねぇ! おおぃ、デリィ? お前の尻ポケットにシュメールの――」


 とトイレから出てきたキングはグミをひと目見て


「うぉ!? グミ!? どうしたんだその、おぅぇぇぇ! グロ!! 血ぃヤバすぎだろ! グロ!」


 と叫び散らした。

 だが、誰も喋らないことに、マスターがデリの口を塞いで黙っていることに気付き、両手で口を隠してゆっくり腰を落とす。


 ……シィー………………


 マスターの囁くような吐息が、すべての音を断ち切った。

 筋肉の軋みすら聞こえてきそうな無音の世界。ふー、ふー、と繰り返す鼻息が暴力的な騒音に聞こえ、デリは少しでも音を殺そうと呼吸を浅くする。頭のすぐ後ろ、柔らかなマスターの胸の奥でごく微かに心臓が鳴っていた。

 少しずつ、少しずつ、無音の深みに沈んでいく。

 バタバタと店の外を走り回る足音が聞こえた。


「ダメだ! 見失った! そこの通りに入るまでは見たんだが――」


 追手の、ブラザーたちの声だ。デリの躰が強張る。だが、落ち着いて、と髪を撫でるマスターの手の感触に、少し緊張が解けた。

 足音は店の外周を走り回り、声を張り上げ、また走り、店のドアの前で止まった。


「おい! こっちだ! 血の痕がある!」


 じっと黙りこんでいたグミがしまったとばかりに顔をしかめた。シュメールの舌打ちが聞こえてきそうだった。マスターのデリの口を塞ぐ手にわずかに力が入った。

 バン! と店のドアが開き、大きな足音が飛び込んできた。デリの内側で爆発的に緊張が膨らむ。しかし侵入者の姿はない。足音だけだ。

 足音はグミとシュメールの間を駆け抜け、デリの目の前で止まった。

 まるで幽霊だ。

 足音と、呼吸と、声と、存在の確からしさだけはそのままに姿だけが消えている。

 ドッ、ドッ、とデリの心臓は躰が揺れそうなほど強く鳴っていた。一方で、背中に感じるマスターの鼓動は乱れない。その落ち着き払った心音に引っ張られ、デリも平静を取り戻す。


「いないぞ!? 本当にここか!?」

「お前だって見ただろ? 血痕があった」

「ああ、見た。見たよ。クソッ! スーキーになにをさせられるか……クソッ!」


 目の前で地団駄を踏む幽霊の、本来なら頭がある位置で、苛立つ男の声がした。

 身が張り裂けそうな恐怖と、なにがあろうと大丈夫だと確信させる安堵感。これはきっと魔法なのだとデリは思う。

 かくれんぼは得意。かくれんぼは好き。

 マスターの魔法とは、店と中にいる人の姿を隠すのだ。

 こちらに相手の姿が見えないように、向こうにはこちらが見えない。店の外にある血痕は見つけられても、店にいる人には気付けない。目の前を探し回る幽霊に、デリは少し楽しくなってきた。同時に。


 あれ? 魔法ってことは……マスターは……。


 隠れているいま、性的な興奮をおぼえている?

 デリが口を塞ぐ手に自分の手を重ねながら見上げると、気付いたマスターが艷やかな微笑を浮かべた。

 カッ、とデリの躰が熱を帯びた。

 いつも無色でいるマスターの色彩豊かな微笑に、予想は確信へと変わる。頬が熱い。きっと顔は真っ赤になっているだろう。声は出せない。息も小さく。見つかれば絶体絶命だというのに、そんなことを気にする自分が恥ずかしかった。

 指一本動かせぬまま、自分を包む両腕に内心で悶えるデリ。

 すぐ脇を幽霊が通り抜け、扉に向かい、悪態をついた。


「くっそ! 手になんかついたぞ!?」

「なんだって? 俺が開けたときはなんにも――」

「――グァッ! くせぇ!! くそ! なんだってんだよ、この路地は!」


 幽霊が必死に手を振る音がし、キングが、グミが、シュメールが、笑いをこらえるような変な顔をしていた。無論、デリにはなにが面白いのかさっぱりわからない。


「ぷぶっ」


 グミが小さく吹いた。痛みもあってこらえきれなかったのだろう。

 幽霊が息を呑む気配を漂わせ、店に緊張が走った。


「今の、聞いたか?」

「なにを? もう行こう。遅くなったら遅くなったでスーキーにどやされるぞ」

「――クソッ。この手、スーキーにナメさせるか?」

「本気で言ってるなら病気だ。ブラザー・エディションがどうなったか忘れたか?」

「その呼び方やめろ。あの女に仕返ししたくないのか? あんなことやらされて」

「やらされたから言ってる。豚よりは犬のほうがマシだ」

「蝿よりは豚、蛆よりは蝿か……アルファとブラザーはどうなったんだろうな」

「生きてりゃ俺たちよりは上等かもな」


 幽霊たちは揃ってため息をつき、やがてどちらともなく


「行くか」


 と言った。

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