三章:魔法使いと逸れ者

邪悪な蛇

 ほんの数日前までデリは寝起きのいい方だった。日が昇る前には起き、石炭焜炉コンロに火を入れ、祖父と自分の朝食を作るようにしていたからだ。

 しかし、祖父が帰ってこなかった次の日には、すでに朝が怖くなっていた。

 もし祖父がいなかったらどうしよう。もし捨てられたのだとしたらどうしよう。目覚めて躰を起こして台所に行くまで勇気がいった。

 三日目はさらに億劫になり、四日目の今日――、

 目覚めたばかりのデリは、ガラにもなく天井を見つめて瞬きを繰り返していた。


「……眠い、ことにしようかな……」


 眠る寸前まで傍にあった体温がない。おそらく隣の部屋だ。先程から物音がしている。

 デリは自分があっさり眠れたことに驚いていた。祖父が心配ではないのか。悲しまなくてはいけないのでは。いろんな人に迷惑をかけたのだから、後悔のうちにいるべきだ。

 だというのに、頭はすっきりしていた。ベッドの柔らかさのせいだろうか。


「……起きよう……」


 じっとしていても仕方がない。今日は祖父の残した手がかりを追わなくては。

 デリはベッドから降り、クローゼットを開けた。姿見に全身を写して髪を整えていく。昨日あれだけのことがあったのに肌艶はいつもと変わらない。シミも傷もない生白い額。グミの唇の感触。頬にさっと朱が差す。こんなときまで僕は、とデリは自らの堕落を恥じた。


 ベスト、上着、リボンタイを取り、先に顔を洗うべくひとつ深呼吸して居間への扉に手をかける。微かな物音。台所に立っている? できるだけ失礼のないように、せめて迷惑をかけないようにと静かにドアノブを押し下げた。途端、


 ごくん、とデリは生唾を飲み込んだ。


 グミはいた。たしかに台所に立っていた。鍋で湯を沸かしているらしく、褐色の背中の向こう側に、もうもうと湯気が膨らんでいる。

 ――そう、グミは純白のショーツ一枚で台所に立っていた。白金のような短な髪の襟足から水が一粒滴りうなじに落ちた。水玉は艷やかな背筋を伝い、大きな貝殻を思わせる肩甲骨の間で止まる。せめてエプロンを着ていて欲し――それはそれでなんだかダメな気がする。

 自らの想像に赤面する少年の気配に気づいたか、グミが振り向く――


「こ、こっち向かないでください!」


 デリは咄嗟に顔を背けた。なにしてる? 見たらどうだ? と胸の奥で邪悪な蛇が笑った。

 しばしの間の後、しぃー、とグミの沈黙を促す吐息が聞こえた。


「忘れた? 上、マスターが寝てるから大声出さないで」


 そうだった。朝は寝てるから静かに、と言われたのだった。寝るのは大事とも言っていた。

 デリは内なる欲望の蛇の頭をぺちんと叩き、顔を背けたまま小声で抗議した。


「なんで裸なんですか……!? なにか服着てください……!」

「ん? ああ。ごめんごめん。シャワー浴びててさ。いま朝食温めてるから、顔洗ってきな」

「わ、わかりました……服、ちゃんと着てくださないね……!?」

「あーい。てか、さすがにそこまで小声じゃなくても大丈夫よ?」


 デリは視線を下げ、胸のうちの荒ぶる蛇と対話しながらバスルームに向かう。蛇が、何度も顔をあげさせようとしてきた。扉をあける直前、グミのくすくす笑う声が聞こえた気がした。

 もわ、と広がる湯気。微かに残るレモンの香り。シャンプーだろうか。


 ……さっきまでグミさんが……うっ……。


 デリはとうとう内なる蛇に噛みつかれた。もじもじと膝をすり合わせ、両肩を抱き、へっぴり腰になって洗面台に立つ。鏡の中の困り顔。隠しきれない下劣な歓び。浅ましき少年。


「うぅぅぅぅぅ……」


 デリは子犬のように唸りながら顔に水を当てた。まるで氷のような冷水で自身を罰する。邪な欲望を洗い落とすつもりで、何度も何度も、無心になって水を浴び、デリは鏡を見つめ直した。


「……うん。大丈夫。大丈夫……」


 えっちなことを考えるのはダメ。えっちなことはダメ。えっちはダメ……。内心、自らに言い聞かせながら戻ったデリは、「ぴっ!」と、少女のような悲鳴をあげた。

 グミは裸のままだった。

 そして。


「いや、ごめんって。忘れてただけ。泣かないでって」


 クスクスと笑いつつの、白々しい言い方だった。絶対わざとだ。ほんじゃ何か着ましょーかね、とか言いつつ白いブラジャーをつけただけだった。絶対にわざとだ。

 デリは朝っぱらから諦めの境地に達しながら食卓についた。

 コン、と小気味よい音とともに置かれたのは、


「……えっ、なに……?」


 スライスした食パンに、細かく刻んだ野菜とハーブを混ぜ込んだチーズらしきものがへばりついている。チーズらしきものはガビガビに固まり、匂いもへったくれもない。雑然としたキッチンのせいか、野菜とハーブの欠片も実は赤カビや黒カビや緑の苔ではと思わされる。


「んぉー? 知らない? ピザトースト」


 これが? とデリは問いただしそうになった。もはや褐色の肌にブラとパンツだけという出で立ちも気にならない。なんなら、薄く切った白煉瓦れんがをピザトーストと称して嬉しそうにかぶりつく、珍妙な生き物である。

 グミは親指についたチーズの油を舐め、自慢げに言った。


「蒸すと三日前のでもこうして美味しくいただけるわけだよ。すごいっしょ? 私の発見」

「……三日前……?」


 ほんとうにカビではないのかと失礼な疑いをかけつつ、デリは自称ピザトーストに手を伸ばした。そもそも、どうやってパンを焼いたのだろうか。見渡す限りトースターらしきものはない。どこかで買ってきたピザトーストだとしたら、なぜ三日も放置されていたのか。昨日はじめて部屋に入ったときの印象からして、人以外の生き物が先にご相伴に預かっている可能性は高い。

 

 ――でも、断るのは失礼だ。


 デリは目をつぶってかぶりついた。無味。べちゃりとした食感が歯の裏にこびりついた。蒸したと言っていたが、まさかシャワーを浴びている間ずっとか。

 デリは生成過程の気になるごろりとした塊を飲み下し、なんとか口を開いた。


「あ、あの……僕、昨日ので、まだちょっとお腹いっぱいかも……」

「昨日の? あー、マスターのパスタ? あれチーズすごかったもんねぇ」


 チーズ以外もですけど、とデリは脳内でつぶやいた。

 グミは眉を微かに寄せて続ける。


「でもダメだよ? ちゃんと食べないと大っきくなれないぞぉ? それに今日はちょっとハードで夕食も食べられるか怪しいし、最悪これが最後の晩餐になるよ?」


 朝から晩餐。それも最後の。それがこれ。


「……はい」


 デリは食後に水を飲もうと決めた。たとえ腹を下したとしても水が最後の晩餐なら上等だと思った。だが、その望みもあっさり絶たれた。


「あいよぉ、私の家じゃ食後はコーヒー。砂糖はないから蜂蜜ね」


 泥炭でいたんを湯で溶いたような汁に、半ばキャンディー化した蜂蜜。仕方なく蒸すのに使ったぬるま湯で湯煎した。そうすればよかったんだーと褒められた。嬉しくなかった。

 ミルクはありますか? というデリの問いに、グミは不本意な自家製チーズならと答えた。


 今日が過酷だと言うなら、生き延びたあかつきには自分で晩餐をつくろう。


 デリは決意を固めて階下に降りた。

 昨夜の賑わいが嘘のように静まり返っていた。去り際には荒れていたキッチンも新品のように整えられ、椅子をあげた店内は埃ひとつ見当たらない。性格の良し悪しと味覚は別。掃除と調理は別の技能。わかっていても腑に落ちなかった。


「なんで二人とも食べ物にいい加減なんだろ……」


 女性はみんな料理が得意で、食べ物にこだわりがある。そう素朴に思っていた。市場で見かける買い物客の大半は女性であり、みんな手に取った品を真剣に吟味していたからだ。

 しかしどうやら、グミとマスターは違うらしい。

 ため息が出た。

 ドンドン! と店のドアがノックされ、デリは飛び上がりそうになった。妖精が聞いていたのだろうか。本当に。

 デリは出ていいものか迷った。追手の可能性もあるので声を出すのも躊躇われる。

 再びドアが叩かれ


「俺だー。キングだよー、開けてくれー」


 と、声が続いた。キング――たしか昨日の……全裸パンイチ男だ。デリは口の端が下がっていくのを感じた。疲れていたときの記憶を信じていいものかどうか。

 さらにノック。


 ……どうしよう……でも……もし外で裸だったら、風邪ひいちゃうよね……?


 たとえヘンタイ(?)でも人は人。むしろ(外見さえ除けば)一番まとも――いや、さすがに一番はマスター……? でも料理はあんなだし、グミ……もどうだろう。

 などと、デリはもやもやしながら扉に近づき、おずおず尋ねた。


「あ、あの……今日も裸ですか?」

「お! 昨日の――デリだな? 大丈夫、今日はちゃんと服着てるよ」


 そう声が返ってきた。疑わしい。グミさんも服着てくれてなかったし。


「本当に本当ですか?」

「本当だって! なんだ? グミになんかされたのか?」

「うっ……キングさぁん!」


 デリは思いが通じたような気がして半泣きになりながら扉を開け、


「うぉ!? ちょ、ちょっと待てって――!」


 今まさに服を脱ごうとしているキングの姿を目にし、抱きつくのを控えた。

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