いっぱい食べて、温かくして、ぎゅっとされたら寝る。

 マスターは名を呼ばれた猫のように興味なさげに振り向き、顔色ひとつ変えずに答えた。


「……やだ……」


 え。拒否? と困惑するデリ。だからキッチンが綺麗なままだったのだろうか。

 グミは子供のように前後に躰を揺らしながら言った。


「いいじゃーん! 食べたらすぐ引っ込むからさー。デリもお腹ぺこぺこだってよー!?」

「えっ、あの――」


 慌てるデリに対してグミは、口裏合わせて、と唇だけを動かした。

 どうしよう、とデリはグミとマスターの間で視線を往復させる。無表情ながら憮然とした気配を漂わせるマスターと、退屈にあえぐいたずらっ子のような態度を堅持するグミ。できればお礼をかねて手料理を振る舞いたいが、ローマで過ごすならばローマ人のように振る舞えとも言うし。ローマがどんなところなのかは知らないけれど。

 ここはグミに従おう、とデリは申し訳なく思いながらもマスターに頼んだ。


「あの……お願いしても、いいですか……?」

「……わかった……文句……言ったら……怒る……」


 いま、はっきり、怒ると口にした。カウンターの奥に引っ込むマスターの背中に戦々恐々としながらグミに顔を向けると、女王は気持ちよさそうに目を瞑り船を漕ぐかのごとく躰を揺らしていた。


 バカン!


 と金属質な音が響いた。デリは思わず首をすぼめる。

 ガチャン! ドカン! バキン! と、苛立ちをぶつけるような金擦れの音が店の角という角を叩いて回り、客たちの恨めしげな視線が飛んできた。

 デリが居心地の悪さに縮こまること十数分、独特な匂いが漂ってきた。できたのだろうか。 


 ――でも、なにが? 


 チーズ? ハーブ? お酒じゃないよね?

 店の天井に籠もる紫煙と、強い酒の匂いと、あとなにかが混ざりあい、独特と表現せざるをえない香りだ。

 白いふたつの皿を胸の高さに掲げ持ち、極めて遺憾であると言わんばかりの気配を漂わせ、マスターがキッチンから出てきた。客たちの固唾を飲む気配。誰かがカウンターテーブルを跳ね上げた。近寄ってくる圧力。なにが面白いのかグミはくつくつ笑い続けていた。

 ぱわぁん! と割れるかどうかギリギリの音を鳴らして乱暴に皿が置かれた。


「……できた……きのこと……ちーず……くりーむぱすた……」


 ……どれのこと? と思わずたずねそうになった。

 黒い塊。それが第一印象だ。すぐにそれが火山灰のごとく降った黒胡椒であると気づき、下には固まりかけのマグマめいたチーズがあると見抜く。くたびれたキノコはさながら逃げ遅れた犠牲者のようで、主成分のスパゲッティときたら創造主の御業に平伏している。


 ――これは料理ではない。


 憤怒だ。


 デリは戦慄した。いっぽうグミは気にする様子もなく皿に突っ込まれていたフォークを取り、さりさりと黒胡椒を雪崩なだれさせながらロングパスタを巻いた。白黒模様の塊を口いっぱいに頬張り、実に楽しげに眉を寄せながら一言。


「いやぁ、さすが。マスターの『くたくたキノコとドロドロチーズの伸びすぎパスタ黒胡椒まみれ』は最高だね。家に帰ってきたって気分になるよ」


 マスター周辺の気温が十度は下がった。店の客が凍え、デリは――ちょっとイラっときた。

 作ってもらっておいて文句を言うなんて!

 と内心プリプリしながらフォークを掴み、小さな口にパスタを入れる。


 ――死。


 一瞬、気が遠くなった。涙が滲んだ。くしゃみがでそうな黒胡椒の刺激を頼りに意識を現世に留めおき、繊維質性しか感じさせないキノコとチーズの絡んだ――というよりこびりついたパスタを嚥下えんげして、料理を御馳走ごちそうになったら当然のように示すべき態度を取ろうとした。


「お、お、お……」


 美味しいですよ。その一言が出てこない。それこそなにかへの冒涜ぼうとくな気がする。けれど、同じ(自称)台所の王たる自分が言わねば誰が言うのかと奮い立つ。


「美味しいですよ。とっても」


 精一杯であった。

 しかし、マスター周辺の気温は奇跡的な回復をみせた。凍えていた客たちが胸と腹の奥底から安堵の息をつく。


「……いい子……」


 囁くように、呟くように、透明な言葉で言って、マスターがデリの頭を撫でた。涙がでそうになった。いろんな意味で。


「ほんとにぃ? デリ、舌が腐ってたりしない?」


 相変わらず楽しげなグミ。デリは生まれて初めて黙れと思った。悪い言葉だ。

 そうして、カウンターに戻ったマスターが取り分けてあったパスタに手をつけ……美味しくない……と呟き店の客たちが総崩れになりかけるなか、デリは無念夢想の境地を目指して夕食を平らげ、笑い上戸の酔っぱらい化したグミと席を立った。背中に客の畏敬にも似た視線を感じながら、最果ての戦場じみたキッチンを抜け、急な階段を登る。


 なんだか、とっても疲れた。

 喉元までせり上がってきたため息に蓋をしながらリボンタイを解き、寝室に戻ると同時に上着を脱いでクローゼットにタイと一緒に吊るしてベッドに腰かけ靴紐を解いて、いざ柔らかで暖かな夢の世界の船着き場へと。


「――んー……デリはこっちね」


 グミはむにゃむにゃと眠そうな口調で言い、ぽすんとデリの躰を窓際に回した。

 窓際、朝は冷えたりするかな? と、デリは念のため羽毛布団をひっぱり上げて躰に巻きつけるようにして壁との間の緩衝材にした。本当ならミノムシ・スタイルで就寝したいところだが、グミも同衾するなら多少の妥協は必要である。

 デリは不本意ながらに得た満腹感がもたらす眠気にあくびを噛み殺しつつ言った。


「――おやすみなさい」

「あーい、おやすみー」


 ダルそうで眠そうなグミの返答。誰かと眠るのはどれくらいぶり……誰かと眠るのは!?

 カッとつぶらな両眼を見開き、デリは飛び起きた。


「グミさん!? なんで!?」

「んぁー? なんでって、ここ私の部屋で、私のベッドだけど」


 枕のすぐ横に片肘ついて涅槃の姿勢をとり、グミはさも当然とばかりに事実当然のことを言った。然り。ならばデリがなすべきは。


「えと、じゃ、じゃあ僕! ソファーに――」

「いやいや、風邪引くから」


 グミは半笑いで言い、慌ててベッドを降りようとするデリの襟首を掴んで力任せに引き倒した。


「だいじょーぶだって。なにもしやしないから」

「僕のほうが大丈夫じゃないです! っていうか、僕がなにかしたらどうするんですか!?」


 デリは錯乱していて自分がなにを口走っているのか理解していなかった。

 グミはニィッと口角をあげた。


「なにをしてくるのかなぁ~?」


 引き締まった腕をデリの首に巻き付ける。幻想的な紫の瞳が、デリの瞳に接近する。

 コツン、と額をぶつけ合わせて、グミは試すような口ぶりで言った。


「デリは私が寝入ったら、どんな悪戯しちゃう気なのかなぁ?」

「い、いたず――」


 一音ごとに頬を撫でる吐息と近すぎる眼差し。悪戯という扇情的な響きに、デリの顔はすぐに真っ赤に染まった。

 ぐぃっと、顔が近づく。デリは緊張と羞恥に目をぎゅっと瞑った。額に柔らかな感触。離れる瞬間、微かに湿った音がした。


「――おやすみ、デリ。誰かと眠れば嫌なことも忘れられるよ」

「……おやすみなさい」


 ただ額に口づけをされただけ。それだけなのに、なぜか気分が落ち着いた。

 誰かと眠れば、という言葉に引っ張られたのだろうか。

 嫌なことも忘れられるという言葉だろうか。

 あるいは、酒場でのおふざけが全て励まそうとしてのことだと思えたからか。

 いずれにしても、デリは自分を抱くグミの体温に安心して瞼を落とした。

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