欲せよ。さらば与えられん。

 グミの口から放たれる数々の冒涜的な言葉に目をつむり、デリはわかっていることだけを組み合わせて尋ねた。


「……その物理法則っていう常識を超えるのに――せ、せ、せいてきな、欲望がいるんですか?」


 性的という単語がとても言いづらかった。両目を覆う小さな手のひらの向こうで、グミの頷くような気配があった。


「すごいね。長足の進歩だ。デリには魔法使いの才能があるよ」

「……そんな才能いらないかもです……っていうか、常識を超えるのになんで――」


 性的な欲望という語列を口にしたくなく、デリは先を促すようにグミを見た。

 グミはそれと気づいているのか、値踏みするような視線をデリに向け、焦らすようにたっぷり間を取ってから続けた。


「欲望が強ければ強いほど、自分の中の常識を越えやすいから。最も強いのは睡眠欲で、次が食欲、そして性欲の順番だって言われてる」

「……なんでその順番なんですか?」

「単純だよ。赤ん坊は食事中に寝るし、腹が減ってちゃセックスする気にならない」

「セッ――!」


 ポン、と顔を赤くして、デリはもじもじと内股になって縮こまった。なんで平然と言えるのだろう。不思議だ。

 グミが苦笑しながら続ける。


「まぁ順序はともかく、睡眠は直前の行動を中断してでも寝たくなるし、飢餓は極限に達すれば共食いも辞さない。そんな話、聞いたことあるよね?」

「あ、あります……お祖父ちゃんが読んでた新聞にも……」


 貧困にあえぐ村で起きた惨劇。力尽きた者から順に食べられたという。老人の肉は不味く――子供の肉は柔らかく美味しかった、と。特に頬や尻や乳房は好んで食べられたとか。

 恐ろしい話だが、デリはすぐに嘘だと思った。頬肉はまだしも、乳房が美味しいなんておかしいからだ。牛や豚の肉でも脂だらけで苦労する部位なのに、人の肉で、ましてろくに調理もできない環境で。もちろん、飢えたゆえに脂肪が落ちた可能性もあるのだが――


「――デリ? 聞いてる?」

「! は、はい! 聞いてます!」


 デリは慌てて顔をあげた。思考の海にはまりかけていた。


「まぁいいけど。いいかい? 欲望ってのは河みたいなもんさ。たとえば食欲なら源泉は空腹だね。空腹の泉から常に食欲が湧いてる。最初はとてつもない大河さ。すごく単純に『食べたい』っていう。だけど、曲げ、分け、『お金を稼いでアレを買って食べよう』みたいに制御する」

「……でも、お腹が空き過ぎると、欲望が湧きすぎちゃう?」

「そう。溢れた原初の欲望が、すべての制御を飲み込んでしまう。理性なんて効かない。睡眠欲もそうだよね。我慢が利かなくなってパタリと寝ちゃう。けど、性欲だけはちょっと違う」

「どう、違うんですか?」


 ごくん、とデリは喉を鳴らした。


「睡眠欲や食欲と違って、満たさなくても死なない」


 あ、とデリは呆けてしまった。言われてみれば当たり前だ。命に関わるから欲望の制御に限界が生まれる。限界を超えるから常識もなにもかも飛び越える――

 あれ? とデリは首を傾げた。


「あの、だとしたら、性欲じゃ常識は越えられないんじゃ……」

「いんや? むしろ簡単に飛び越えられるんだよ。性欲の河だけは他の河と違って一本の真っ直ぐな河なのさ。もちろん、あれもこれもと支流をつくることもできるけど、それじゃ満ち足りない。言ってみれば――逆流してる河って感じかな」

「逆流してる、河」

「お恥ずかしながら――」


 グミはテーブルの小さな節穴に目をやった。


「私は穴を見ると指を入れてみたくなるし、こねくり回してみたくなる。正直、穴だったらなんでもいい。でも小さい方がいいし、生き物の穴の方が好きだし、反応があった方がいい。とはいえ臭いのも汚いのも嫌いだし、どうせならほじくられる方も気持ちいいと思って欲しい」


 グミは節穴を指でひと撫でし、指を擦った。


「ね? 性欲は源泉まで真っ直ぐ伸びてて、どれかひとつでも足りないと満たされない。そして恐ろしく細かい源泉を満たすには常識なんてさっさと飛び越えないと、とても足りない」

「だから、性欲……?」

「もちろん、他に比べれば理性による制御が簡単ってのもあるし、教育することもできなくはないってのが大きいけどね」

「教育って……なにするんですか?」

「デリに話すのはちょっとアレかなーってコト」


 素朴な疑問に、グミは苦みばしった顔で答えた。


「子供のうちに囲い込んで、薬やら実践やらで性癖を思い通りの形に歪めるって感じかな。ようするに、まだ変なのに染まってない子を集めて、ヘンタイっぽい人間にするわけ。まぁ言っても魔法使いレベルまでいける人間は少ないから、たいてい途中で壊れるけど」

「壊れるって――」


 デリは絶句した。グミの話通りなら、サークルというのは非道の集団だ。そんなところにいたのかと思うと、グミだけでなく祖父までも疑わしくなってくる。


「……まぁ、そんなに怖がらないでよ。私はそれが嫌で抜けたんだし、魔法に囚われて頭がオカシくなってんのはコウィン派くらいだしさ」

「――コウィン派? コウィンって、お祖父ちゃんのミドルネームと同じ……」

「え? ――あ、そっか。いちばん大事な話をしてなかったね。サークルには大きく分けて三つの派閥があって、派閥の魔法使いは特別な名をミドルネームに入れるんだ。なんていうか……呪いみたいなものだね。たとえサークルを抜けても捨てないのが普通」


 私は違うけどね、とグミはテーブルに投げ出してあったスーキーの名刺を取り、『スーキー・C・ボーン』という文字列の、Cのところを指差した。


「これがコウィンの頭文字。三大派閥じゃ一番小さいんだけど、小さいから一番狂暴。まぁ、魔法使いを象徴する帽子、杖、口のうち、口にあたる集団だから、当然っちゃ当然だけど」

「帽子に、杖に、口……」

「帽子ってのは三角帽子のことさ。魔法使いの知恵を示す。知識の集積と研究を重視する派閥で、ショイン派って呼ばれてる。で、杖は教え導く道具だから、教育を重視するカイイン派。コウィン派は呪文を唱える口を示してて――魔法の使用そのものを、すごく重視してる」

「ショイン派に、カイイン派に、コウィン……あ!」


 デリは椅子を蹴倒す勢いで立ち上がった。目を丸くするグミに身を乗り出して続ける。


「スーキーが言ってました! お祖父ちゃんはショイン派に会おうとしてたって!」

「コーウェンが?」


 グミは訝しげに眉を寄せた。


「じゃあ、魔法に関するなにか――たとえば古代の呪具とか、文献とか、とにかくなにかを渡して守ってもらおうとしてたんだね」

「それなら、お祖父ちゃんが渡そうとしてたものを見つければ――」

「――や、それはどうだろう。コーウェンがいれば取引って話になるけど、いないんならデリを守る理由もない――だいたい、サークルを頼ろうってのは諸刃の剣もいいとこさ。どの派閥も一枚岩じゃないし、元を正せば同じ集団なんだから」

「そうですか……」


 と、うなだれたデリだったが、その実、少し救われる思いがした。

 戦うしかないかもしれないとグミは言った。復讐するは我にありだ。自分の手ではどうにもならないが、神は手立てを与えてくれた――もっとも、使わされたのは天使ではなく、素性も信条も怪しげな魔法使いだったが。

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