常識の誕生史

 フーッと細いため息を吐き、グミは額に浮いた汗玉を拭った。頬が僅かに上気していた。


「失礼」


 洒落た言い方をし、グミは酒をもう一杯飲み、パタパタと手のひらで顔を扇いだ。


「魔法ってのは欲望の発露でね。それもかなり――性的な。だから、ちょっとやってみせるだけでからだが火照っちゃうんだよ」


 やや早口なグミの発言を、デリはゆっくりと飲み下し、じわじわと顔を赤くした。


「せ、性的? 性的って……」


 あまり深く聞いてはいけなそうな単語が頭の中をグルグル回った。性的は性的だよ、とグミは少し照れた様子で言って、わざとらしく咳払いした。


「私たちの主観的世界は絶えず客観的世界の影響を受けてる。だから主観的世界の常識を持ち込もうとしても、邪魔されるってわけ」

「持たされている常識、ですか?」


 グミの放つ気怠げな雰囲気に惑わされ、デリは少し恥ずかしくなってきた。

 が、当の本人は気にする素振りすら見せず、変わらぬ調子で続けた。


「そ。持たされてる常識。そうだな……デリはなにか信じてるものある?」

「信じてるもの……? えと……あ! ため息を妖精に聞かれると悪戯されるっていう――」

「――妖精。いいね。ちょうどいい」


 グミはニッと片笑みを浮かべた。


「たとえば、『かつて、あるいは今この瞬間にも、妖精は存在している』と、言われたらどう思う?」

「そんなの――」


 デリは反射的に否定しかけたが、すぐ口を噤んだ。グミは子供だましで話しているのではない。魔法使いのことわりを伝えようとしているのだ。


「……妖精を見られないのは、客観的世界に――常識に、妖精なんていないと思わされているから?」

「正解。ここがサークルならデリは優秀な初学者だって持て囃されるね。――さて、それでは、なんで妖精はいないと思わされているのか。それは自分以外の主観的世界の集合である客観的世界にとって、妖精という常識はずれな存在が本当にいたら、まずいからなんだよ」


 デリは眉間にくにゃっと皺をつくった。

 

「えと……なんでですか? 僕は妖精がいたら面白いかもって思いますけど……」

「もう、突然カワイイこと言うなよぉ」


 グミは笑いながら言った。

 

「――でも、残念ながら妖精がいたら、せっかく長い時間をかけてみんなで作った常識的な世界が、崩れちゃうんだよ」


 グミはこめかみに人差し指を当てた。


「私の主観的世界で『妖精』と言えば、そこのドライ・ジンの瓶くらいの大きさで、人の形をしていて、背中に生えてる小さな羽で空を飛んで、悪戯をして、人の言葉を話す。デリの世界では小人かもしれないし、マスターのは自分自身だったりするかもしれない。ディティールはまちまちでも『妖精』という言葉があって、理解できるのは、実際に存在したからに他ならない。ただ、みんなの妖精をみんなが納得する形で存在させるには、世界のルールを変えなきゃいけない」

「世界のルール……」

「たとえば、かつて空中に浮かんだ物は、地面に向かって落ちなかった」

「……へ?」


 また変なことを言い出した、とデリは小さく唸った。想像するのが難しいたとえ話ばかりで頭が痛くなりそうだった。

 グミはマスターに新しいエールを頼み、それが客の手を渡ってテーブルに来る間に言った。


「いま最も力をもってる常識は、その名を物理法則という」


 したり顔で言い、グミは受け取ったエールに口をつけた。


「古代――始祖と呼ばれる魔法使いが暮らしていた世界では、時間は過去から未来へ流れていなかったし、空間は連続体ではなかった、らしいよ?」

「らしい、って……」

「私もサークルで習っただけだからね。――ともかく、古代の魔法使いは、明日のうちに寝て三日前に目覚め、前へ足を踏み下ろして遥か彼方の背後に現れたとか。ついでに、話し相手が欲しくなったら別の時間の自分と話したりしたらしい」

「そんなの、むちゃくちゃですよ」


 いままでの話ならグミに見せられた魔法のおかげで多少の信憑性しんぴょうせいがあった。信じるまではいかないまでも、理解あるいは了解の範囲内にあった。だが、今度の話ははいくらなんでも荒唐無稽こうとうむけいにすぎる。

 グミはデリの顔色を見て、ふっと鼻を鳴らした。


「私も同じ顔をしてたよ。意味わかんない、ってね。でも本当だから始末に困る」


 グミはエールを飲んで続けた。


「あるとき、古代の魔法使いは何年か前の自分に会いに行ったという。すると、何年か前の魔法使いは言った。『てめぇ、何度も何度も、もうお前と話すのは飽き飽きなんだよ』。びっくりして古代の魔法使いは言った。『おい、自分で自分に喧嘩を売るのか?』」


 昔話のような口調だった。

 何年か前の魔法使いはこう返す。


『ああ、喧嘩を売ったさ。千年後のお前を殺してやった』

『なんてことを! お前も殺してやる!』


 古代の魔法使いは何年か前の自分を殺した。

 そうしたら、殺したはずの何年か前の自分が、古代の魔法使いの背後に現れた。


『てめぇ、やりやがったようだな!? てめぇも死ね!』


 殺された古代の魔法使いは怒り心頭、何年か前の――


「――ちょ、ちょっと待ってください!」


 デリは両手を前にピンと伸ばして話を切った。


「それおかしくないですか? 昔の自分が死んじゃったら今の自分は――」

「デリ、忘れてない? 始祖が暮らした時代の話さ。時間が過去から未来へ一直線に流れていなかった頃、過去の自分と今の自分は、なんの関係もなかった」

「え? ……えっ?」


 そんなの悪夢もいいところだ。時間が連続していないなら、無限に自分が増殖してしまうことになる。いや、自分どころか一秒前の世界と一秒後の世界とが共存――違う、時間が連続していないのだから一秒前とか一秒後なんてなくって――。

 デリは頭痛と目眩めまいをおぼえた。もしかしたら、さっき飲んだ悪いお酒のせいかも。これも悪い夢なのかもと思う。

 しかし、そんなデリの儚い希望を打ち砕き、グミは楽しげに言った。


「古代の魔法使いは自分同士で戦争をして、世界を六回壊して、七回再生して、八回すべてをなかったことにして、喧嘩を始めた自分同士で言ったのさ」


『不毛だ。やめよう』

『そうしよう。不毛だ』


「魔法使いはなんでもできる世界はメチャクチャすぎて面白くないと気づいた。そこでルールを作ろうという話になって、まず、こう定めたんだ。


『木から離れた林檎りんごは地面に落ちることにしよう』


 これを《魔法使いの知恵の実》という。こうして世界は、時間に一匹の蛇のような頭と尻尾を与え、空間にくねる蛇の躰のような連続性を――つまり物理法則を得た」

「なんか僕、頭がヘンになっちゃいそうです……」


 デリはグミの話を遮り顔を覆った。


「それに、それ……聖書になぞらえた作り話ですよね? 神への冒涜です……」

「いい反応だね。それこそまさに常識の力。わけのわからない話を聞いたら、わかったことにして考えるのをやめる。それを信仰というんだよ。強いよね、信仰って」


 感心しているようでいて、呆れているようでもある、不思議な声音だった。

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