魔法とは

 ややあって、店にいくらか大人しくなった喧騒が戻った。


「――ありがとう」


 グミが言った。


「それに、ごめんね、デリ。やるしかないわ」


 デリは目尻に溜まった涙を拭い、唾を飲んだ。


「……スーキーって人ですか?」

「そう。まさかこの国に来てるとは思わなかった。なにか理由があるんだろうけどあいつはヤバイ。半分――や、ひとつと半分は狂った猟犬だよ。あいつは昔、私が《サークル》にいたころの姉弟子でね。まさか私を追ってきたってわけじゃないんだろうけど――」

「サークル……?」


「コーウェンからなにも聞かされてない? サークルってのは《魔法使い》たちの集まりだよ。魔法使いを増やして、世界を力で作り変えるためのね」

「スーキーは、お祖父ちゃんも魔法使いだって……」

「そうだよ。まぁコーウェンは私よりずっと先輩で、私がサークルに連れ込まれたときにはもういなかったけどね。サークルを抜けて進むべき道がわからなくなってた私に、本当の魔法の使い方を教えてくれたのがコーウェンだった」

「本当の魔法……? 魔法の使い方はサークルで習うんじゃないんですか?」


 それとも、魔法を使えるからサークルに入るのだろうか。連れ込まれたという否定的な表現からして、その可能性も十分にありそうに思えた。

 だが、グミは肯定とも否定とも取れない曖昧な笑みを浮かべた。


「当たらずとも遠からず、かな。まぁでも、コーウェンが教えてくれなかったんならデリが知る必要は――」


 グミはデリの目を見て言い直した。


「そんなことない、かな?」

「知りたいです。知らないといけないんです」


 生まれたときから父母はなく、与えられ、守られてきた。

 ただ庇護されるばかりで、なにから守られているのか知らずに生きてきた。

 しかし、守ってくれていた祖父は、もういない。

 グミは下唇を軽く噛み、グラスに酒を注いで呷った。


「――よし!」


 パン! と両手で頬を打ち、初めて会ったときと同じ人懐っこそうな笑みを浮かべた。


「どうも辛気臭いのは苦手でね。なんせ魔法使いってのは享楽的な生き物だから」

「僕も、暗い雰囲気は好きじゃないです。特に、食卓を囲むときは」

「このテーブルが食卓ぅ? ……まぁいっか。教えてあげよう。魔法とは、なにか」


 グミは椅子の上で胡座あぐらを組み直し、テーブルに片肘をついた。


「魔法とは、術者の主観的世界によって、他の世界を侵食するすべである」

「……しゅかんてき、世界?」


 聞き慣れない言葉だった。


「そう。主観的世界。つまり、私の目で見た世界や、デリの目で見た世界のこと。反対に自分以外の目で見た世界は、客観的世界って呼ばれてる」

「自分以外の目……」


 デリが言葉を噛み砕くのを待ち、グミはテーブルの瓶を指差した。


「さて、デリ。これはなに?」

「……酒瓶、ですよね?」

「そう。それがデリの主観的世界。同時に私にとって客観的世界でもある。ただし、私の主観的世界ではドライ・ジンの瓶という」

「ドライ・ジンくらい知ってます。悪いお酒だってお祖父ちゃんが言ってました」


 デリが唇を尖らせると、グミは吹き出すように小さく笑った。


「コーウェンがそう言ったって? 本当に? なら、ちょうどいいから、ひとつ初歩的な魔法を見せようか。デリ、瓶をよく見ててね」

「……?」


 なにが起こるのだろう、とデリは少し前のめりになって瓶を見つめた。グミの指先が瓶の口に触れ、ゆっくりと下がり、ちょうど瓶にのこる酒の水面で止まった。


「このドライ・ジンは『ビーフィーター』と言って、私とコーウェンでここまで飲んだ酒瓶さ」

「……え?」


 瓶になにかが起きるものと思い込んでいたデリは、グミの言葉に一拍遅れて顔をあげた。


「……お祖父ちゃんと、グミさんで飲んだんですか?」

「私に『さん』はいらないよ」


 グミは苦笑した。


「ともかく、これでデリに魔法がかかった」

「え?」

「デリにとって、ただの酒の瓶で、ドライ・ジンの瓶で、悪い酒の瓶でしかなかった瓶が、私がかけた魔法の力で、お祖父ちゃんと私で飲んだらしいビーフィーターの瓶になったのさ」

「……え?」


 いったいなにを言っているのだろうか、とデリは眉を寄せる。


「あの、それ、ただの言葉遊びですよね?」


 軽んじられているように思えた。子供だから煙に巻いて逃げてしまおうとしていると。

 グミはゆっくりと首を縦に振り、柔らかな声で続ける。


「そう思うのも分かるけどね。でも、初歩的な魔法さ。もちろん、客観的世界がもってる侵食する力を利用してるだけで、魔法使いがつかう本当の魔法とはちょっと違う。でも、たしかに私の主観的世界でデリの主観的世界を侵食してみせたでしょ?」

「えっと……え?」


 デリは頭の中でグミの言葉を整理した。

 魔法とは、術者の主観的世界で、他の世界を侵食することをいう。

 つまり、他人の認識を改変すれば、魔法を使ったことになる。前提を受け入れれば、そのとおりだと思う。しかし、やはり言葉遊びに思えてならない。


「まぁ、デリが不満に思うのもわかるよ。デリが見たいのはこういうんでしょ?」


 言って、グミはテーブルの隅をトントンと人差し指で叩き、指先を押し付ける。指の指し示す先に、美しい木目を彩る節目があった。テーブルになる前、枝が生えていた痕跡だ。


「よく見て。ここに、小さな穴が開いてる」


 言われたとおりに目を凝らすと、節目の中心に針穴のような黒点があった。節穴だ。デリがそう認識した途端、グミの指先が節穴を塞いだ。


「客観的世界は常に私らの世界を侵食してる。私はその力を使って、デリの世界を侵食したってわけ。だけど、今から見せるホンモノの魔法は、主観的世界で客観的世界を侵食する」


 グミの指が、指先から黒く染まり始めた。黒はみるみるうちに這い上がり、二の腕をすっぽりと包む。黒く染まった指先が節穴をぐりぐりとこねだす。


「客観的世界がもってる侵食する力ってのは、普通はそうはならないって思い込ませる頑強なルールの力さ。いわば常識。魔法使いは、欲望によって常識を飛び越える」


 節穴をこねるグミの指先が僅かに沈んだ。節穴が広がったのだ。指を動かすたびに、まるで生き物の肉のように節穴がうねる。


「コーウェンに導かれて知ったけど、私は穴を見たら指を突っ込みたくなるらしい。それがどんな穴でもね。指を入れて、ほじって、広げ、もっと奥まで入れたくなる」


 ずぬり、とグミの指が第二関節まで節穴に沈んだ。

 最初は点のようだった節穴が、今はもう指の太さと同径になっている。続けて中指を伸ばして穴のフチに添えた。


「底無しの欲望は魔法使いに常識を忘れさせる。客観的世界の侵食する力を押し返し、逆に主観的世界を押し付ける。擦り切れる寸前の理性でコントロールして、ね」


 ずっ、と中指が節穴に沈んだ。またぐりぐりとこねると、次は薬指が沈んだ。指が三本。最初は点でしかなかった穴に、グミの手首がねじ込まれていく。


「デリの世界――私にとっての客観的世界では、普通、こんなことはできない。だよね?」


 口中に溢れる粘つく唾を飲み込み、デリは呆然と首肯した。アイアンウッドとも呼ばれる硬い木でできたテーブルの節穴が、グミが腕を動かすたびにぐねぐねとうごめく。


「これが、魔法。私の――シリアナという名の主観的な世界の姿だよ」


 ずるん、とグミが手首を引き抜いた。ぽっかり開いた穴は一瞬だけ深淵を覗かせ、すぐに元の点に戻った。

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