献杯
次に目を
いつの間に、誰がそうしたのだろうと、デリは不思議に思いながら躰を起こす。
枕元に、明るいオレンジ色の
『寝顔の素敵な王子様。お目覚めになられましたら階下にお越し下さい』
息を飲むほど美しい
けれど、グミとのやりとりからしてシュメールが入ってきたとは思い難い。マスターなら淑やかなメイド服を着ていたのもあってサマになるかもしれない。
平たいペン先を走らせるマスターを想像し、デリはほっこりしながらベッドを降りた。見れば、部屋も目につくところは片付いていた。
準備を終えて厨房につながる扉を開けると、店のささやかな喧騒が聞こえてきた。
テーブルもカウンターもあらかた埋まり、立ち呑みのグループもある。こうなるとマスターも忙しそうなものだが、カウンターに立つ彼女は昼間と同じように落ち着き払っていた。むしろ、客がマスターに合わせて注文しているようにも思える。
「えと、マスター」
デリは遠慮がちに声をかけた。
「あの、掃除、ありがとうございました」
「……起きたのね……」
こちらに振り向いたマスターは、注いでいる途中だったドライ・ジンの酒瓶と
いいのかな? と当惑するデリに、マスターは淡々と言った。
「……いいの……グミと……二人が……外に出ちゃって……寂しかった……だけだから……」
「でも助かりました。僕じゃ、ちょっと片付けにくかったから……ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げると、マスターはデリの髪を
「……寝癖……」
マスターは呟くように言って、無色透明の微笑を浮かべた。
「……かくれんぼ……私も好き……見つけてもらえないと……寂しいけど……」
かくれんぼ? と目を瞬くデリ。すぐに頭からリネンをかぶったことを思い出す。慌ててあれは違くてと言おうとしたが、うまい言い訳が出てこなかった。
マスターは相変わらず無表情のまま、デリのリボンタイに触れた。
「……珍しい……結び方……リボン……みたい……かわいい……」
「これですか? お祖父ちゃんが、新しい王様――テディ? も子供のころに同じ結び方をしてて、新しい時代はお洒落の時代だからって、そんなふうに言ってました」
「……そう…………グミは……一番奥……ずっと待ってた……行って……あげて……?」
「え、あれ? えと……はい。ありがとうございました」
デリはもう一度ぺこりと頭を下げ、褒めて(?)もらったタイを撫でつつ、マスターは不思議なリズムで話す寂しがり屋さんと記憶する。
酒の計量を再開するマスターを横目にカウンターをくぐり、人の増えた店内を見回す。奥の一段高いテーブルで、椅子の上であぐらを組んだグミが手を振っていた。
「ありがとうございます。さっき、待っててくれたって聞きました」
「んー? ああ、マスター? 言うほど待ってないから大丈夫よ」
グミはエールの瓶に口をつけた。すでに三本の空き瓶があった。
「――それで、と。デリくんの今後なんだけど、私が用意してあげられそうな道は三種類。
ひとつ。デリくんを町の外に逃がす。これが一番簡単。
ふたつ。このまま匿う。相手によるけどなんとかなる。ひとつめへの移行も簡単。
で、みっつめ。追手をみーんな、ぶっ潰す。正直いってクソムズ案件。
――まぁ、どのパターンでいくにしても、まずはコーウェンを見つけて、次に相手が誰か見極めてからじゃないとどうにも――」
「――あの、それ、なんですけど」
デリはグミの話を遮った。
「お祖父ちゃんが帰ってこなかった日から、三日経って、ウチに来た人が、僕に名刺をくれたんです」
デリは自分の身に起きたことを、できるだけ他人事のように話した。そうしなければ今にも声を失ってしまいそうだった。呼吸を整えながら上着のポケットを探り、アイツの名刺をグミに差し出す。
「――あのねデリくん。キミにゃまだ分からないかもしれないけど名刺なんて――」
憐れむように言いつつ名刺を受け取ったグミは、それを見た途端、顔色を変えた。
「……デリくん。こいつを君に渡したのは、全身黒ずくめの、若い女だったかい?」
「はい」
「こう襟がひだみたいになってる婆臭いコートに、頭の悪そうなピンヒール?」
「はい」
「長い黒髪で、色白の、陰気臭いツラした、クソみたいに嫌味な性格の、話を聞かない女」
「そうです」
デリは、グミの言葉に導かれ、あの女への怒りが膨らんでいくのを感じた。しかし、決して表には出さなぬよう慎重に言葉を選ぶ。
「あの
言ってデリはテーブルの木目を見つめる。なにかに意識を向けていなければ、今にも叫びだしてしまいそうだった。
グミは苦痛に耐えるように目を瞑り、顎をあげて片手で顔を覆い、
「……痛ったー……」
ついには音にした。グミの椅子の背もたれが軋んだ。しばらく同じ姿勢で固まっていたグミは、やがてあぐらを崩して片膝を立て、名刺を睨む。
「……スーキー……」
グミは胸の奥からその名を絞り出すように言い、大きく息を吸い込んだ。
「スゥゥゥゥゥゥゥキィィィィィィィィ!!」
突然の咆哮に、デリは弾かれたように顔をあげた。店で交わされていた会話が全て止まり視線がテーブルに集中する。カウンターの奥でマスターだけが靴音を立てていた。
「……グミの……席に……」
マスターは僅かに冷えた声で言い、カウンターに酒の瓶を置いた。酒瓶は客から客へと手を渡り、テーブルの中央に届いた。中身が半分ほどに減ったドライ・ジンだ。続いて、ぶ厚く無骨なショットグラスがふたつ。
「デリは口をつけだるだけでいいからね」
グミは敬称をつけずに少年の名を呼び、薄く注いだグラスを突き出した。次いで、自身のグラスにはなみなみと注ぎ、顔の前に掲げる。
デリが見様見真似でグラスを掲げると、グミは弔いの言葉を唱えるように言った。
「我ら
「コーウェンに」
店中の客が唱和し、一斉にグラスを掲げた。
そして、一息に呷った。
舐めるだけでいいと言われていたが、デリは儀式的な気配を肌で感じ、目を瞑って酒を流し込んだ。熱い液体が喉を焼きながら胃に落ちる。腹の底に火が点いたような気分だった。咳き込みそうになるのをこらえるだけで顔が曲がった。
皆、似たような表情をしていた。
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