柔らかなベッド、温かな匂い。
グミは寄りかかるようにして椅子に躰を預け、シックな
「
「……元々……二階は……グミの……」
マスターはガラスのような瞳をデリに向けた。
「……朝の……六時から……教会の鐘が鳴るまで……静かに……してほしい……寝るの……大事……」
途切れがちな、耳を澄まさなければ聞き取れないほど小さな声だった。
カウンターに立ってるのに話下手? とデリは不思議に思いながら頷く。
「……私は……三階……静かにね……? ……よろしく……デリ……」
マスターは初動の見えない奇妙な動きで手を伸ばした。
デリは背を目一杯伸ばして小さく冷たい手を握り、よろしくお願いしますと返した。
「おっけ。それじゃデリくんはちょっとご休憩だ」
グミはデリを椅子から下ろすと、カウンターの隅を跳ね上げ、厨房の奥へ連れ込んだ。
厨房は隅々まで綺麗に片付き、調理器具も未使用かと思えるほど磨きあげられていた。さらに進むと扉があり、階段室になっていた。よく手入れされているが年季の入った階段と、それを背にしたおそらく外に通じる扉。デリは壁に手をつき踏み板を軋ませた。一段一段が高く角度がキツい。店は一般の住居を増築、改装したもので、階段と住居はその名残だという。
二階の狭苦しい踊り場には扉がひとつと、上への階段。
「このとおり、私の家のすぐ上がマスターの家ってわけ」
「……あっちのお店に住んでるんじゃないんですね」
「あっちの二階は倉庫だよ。そのまた上は別の店が使ってるし、私はここに寝に帰ってるってわけさ。まぁ他にも寝床はあるんだけど、デリくんを匿っとくなら、とりあえず一番安全なのはここかなってね。すぐ外に逃げられるし、いつだって誰かしら仲間がいるし」
「……うわぁ……」
汚い部屋ですね、と口にしそうになった。
部屋の主を前に失礼だとは思うが控えめにいっても『雑然としている』が限界だ。
食卓兼用と思しきテーブルには謎の食べ残し。囲む椅子の背には脱ぎ散らかした衣服。ソファーやローテーブルなど一通り調度品は揃っているが、本、新聞、雑誌、コミック、飲み残しのコップ、空き瓶、あらゆるものが地層をなし、いくつかは床に散らばってもいた。
「トイレはあっちでシャワーは――って、まずは柔らかいベッドだよね」
「えっ? あの、僕はソファーで大丈夫ですから!」
たとえどんな家、人、状況であっても女性の寝室に立ち入るのは、というデリの古式ゆかしい価値観は、たったひと目で粉砕された。
「まぁ、ちょっと散らかってるけど気にしないでね」
ちょっと? と、デリは違和感に首をへし折られそうになった。
クローゼットもタンスも半開きでグチャッと押し込まれた服がはみ出ており、寝床で靴を脱ぐたびに蹴っ飛ばすのか部屋の中央に小さな山を形成していた。
「んじゃ、横になって待っててね。私は店に置いてきた連中なんとかしてくるから」
「なんとかって、まさか――」
男たちの境遇を想像して顔を青ざめるデリに、グミは苦笑した。
「怖い思いさせられたってのに優しいねぇ。お人好しは損だよ? この世界。――ま、心配しないでよ。外に放り出しとくだけさ」
「えと……それはそれで、その、大丈夫なんですか?」
「もち。《魔法使い》にはちょっと変わった習性があるからね。放り出してからの動き方で対応方法を決められるってワケさ。――まぁ、そのへんの話は後でゆっくり教えてあげるよ」
言って、ひらひら手を振りながらグミが出ていき、扉が閉まった。
……どうしよう、と部屋に残されたデリは窓際のベッドに目をやり、途方に暮れた。
祖父の家で使っていた子供用のシングルベッドなどとは比べるまでもなく大きく、本当に柔らかそうだった。ただ、ベッドを直す習慣はないらしく、シーツはくしゃくしゃに乱れ、青いリネンと羽毛布団が壁とベッドの間で山脈となっている。それに――、
「……うぅ……」
衣服については我慢できても、下着まで脱ぎっぱなしなのはどうなのか。
相手が子供だからというのもあるだろうし、元から気にしないせいなのかもしれない。だが、出ていく前に下着くらいはなんとかしてってほしかった。
「……よし!」
デリは言いつけどおり自らを紳士たらしめるべく気合を入れ、下着類を半開きのタンスに置いた。押し込む勇気はない。初めて触れた柔らかな感触に惑わされ、それが限界だった。
上着とベストを脱いで空いているハンガーに吊るし、リボンタイの蝶結びを解いてシャツのボタンをひとつ――思い切ってふたつ開け、靴を脱ぎ、失礼しますとベッドに上がる。と、
「――わ」
マットレスの弾力に声が出た。胸の奥でうずうずと子供心が膨らむ。この上でジャンプしたらどうなるんだろう。ちょっとだけなら――ダメダメダメ。
デリは頬をむにっと寄せ上げ、ベッドに躰を横たえた。
「……こんなの、誰が買ってくんだろう」
サイドテーブルに、グミの店にもあった先の丸い棒が横倒しになっていた。店にあったものに比べればマイルドな形で小さかったが、店にもあったのなら目に入れたくはない。
出しっぱなしにしないでほしいと思うのは、厚かましすぎるだろうか。
そっとしまってしまってしまおうと、デリはサイドテーブルの引き出しを開いた。
「……え」
一番上の引き出しには大量の指輪が入っていた。方眼状の仕分け箱を使い、きちんと整理されている。大きさはまちまちで、ちょっと厳しい形をした、銀あるいは白金の指輪たち。
グミがそれらの指輪に細い指を通すところを想像し、デリは鼓動が早まるのを感じた。
――な、なんで!?
理由はわからない。だが、触れなくてもわかるほど頬が熱い。なんだか妙に照れてきた。下着をタンスにおいたときよりも。おもちゃを見たときよりも。
デリの脳裏に、店で見たグミの姿が過った。
声をかけてくれたとき。変な形のぶよぶよした筒に指を突っ込んだとき。
狂暴で、美しい笑みを浮かべ、黒い疾風と化し、闇色に染まった両腕を――、
ブルッとデリは身震いし、引き出しを閉めた。二段目を開く。こちらは腕輪だ。金や銀だけでなく木や革や糸を撚り合わせたものもある。いずれもどうやって腕を通すのか不思議なくらい細く、継ぎ目も切れ目もない
ばふんっ、とベッドに戻り、たぐり寄せたリネンを頭からかぶって、固く、固く目を瞑る。
……僕、どうしちゃったんだろ。
とうとう小さなため息をつき、枕に顔をうずめた。
下でシュメールという女性が言っていた言葉を思い出した。グミの匂い。自分のでも、祖父のでもない枕の香り。どきどきするけれど、少し安心する匂いだった。
決して知ることのできない母の匂い――母にしては若すぎるから、お姉ちゃん?
あれこれ考えているうちに胸のどきどきは治まり、自然と瞼の力が抜け落ちた。
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