二章:ファジーセット

ファジーセット

 デリはグミに手を引かれ、裏へと連れ出された。油が浮いて虹色に光る水たまりを蹴っ飛ばし、ネズミとゴキブリが彷徨うろつきまわる暗闇を抜け、路地へと抜けてまた裏道へ。

 灰色の空は今にもまた泣き出しそうで、冷え込んだ空気が臭う蒸気に形を与える。


 グミの長い足は回転するのも早く、デリは何度か転びそうになった。つど引き上げてくれるのだが、そのせいか引っ張られる右手が汗ばんできていた。

 デリは、なんとなくそれが恥ずかしかった。


 いっときの難を逃れるまで気づいていなかったが、グミは丈の短いノースリーブのシャツにネクタイ、ホットパンツという露出の多さで、デリの知る世界とはまるで違っていた。もちろん、路地の雰囲気とは合致するのだが、逆にデリは浮きすぎ目立ちすぎと思われた。

 そんなこともあって、いったいいつまで走り続けるのだろうと、デリは尋ねた。


「あ、あの! あの、ちょっと、いいですか?」


 グミの足が止まった。ほとんど同時にデリは腰を折り、左手を膝についた。

 今にも息が切れそうだった。逃げているときに子供の足に合わせろなんて無理な話だ。抱えてくれというつもりもない。子供だけど、もうそんな子供じゃない。けれど――。


「んー……デリくん。キミ、ちょいと運動不足じゃないかい?」


 グミはぷらぷらとデリの手を揺らして顔を上げさせ、ほんのりと色づいた頬をつまんだ。祖父にもしょっちゅうやられていたが、もうそんな年じゃないとつい思う。


「あの、ちょ、や、やめてください……!」デリは少しむくれてむずがった。「えと、どこまで行くんですか? まだ歩くんですか?」

「んー、もうちょい、かな」


 グミはやめさせようとするデリの手をかいくぐり、頬をもう一回つまんで軽く引っ張った。


「頑張ろう。あそこなら絶対、安全だからさ」

「絶対?」


 そんなものあるのかと思う。けれど、グミは力強く頷いた。


「もちろん。知ってるかい? 力ある者には裏がある。権力者ほど変態的でやましい連中はいないからね――ウチの店みたいな入り口と違って、奥に触れるのは容易じゃないよ」


 灰色の街が放つ陽気さは、足を進めるごとに息苦しいくらいに色濃くなっていく。

 勝手知ったる我が家のように『誰が使ってるかよく知らない』建物を抜け、角をふたつ曲がって、また建物に入って、足が止まった。細く長い廊下の半分を、黒板風の看板が塞いでいた。


『この世のどこにも居場所がない? ウチ以外にって話? ファジーセット』


 チョークで書かれた美しい装飾体に、デリは思わず笑みを零した。


「ふぁじー、セット、ってなんですか?」

「しらなーい。曖昧な連中とか、なんかそんな意味だった気がする。洒落てるよね」


 グミはぼやっとした回答をして扉を押した。

 アパートメントの二部屋分。広くはないが狭くもない。丸テーブルの席がいくつかに、磨き抜かれたL字型のカウンター。そこにバーテンダーあるいは店員と思われる人影。奥には料理がなされた痕跡のないキッチンがある。まだ外が明るいからか、客はテーブル席で向かい合う二人だけ――なのだが。

 デリは悲鳴をこらえなくてはいけなかった。


「いよぅ! グミ! 珍しいな、こんな早くから」


 と手をあげた若い男が、全裸にビキニパンツという姿だったのだ。対照的に、


「久しぶりね、グミ」


 背もたれを軋ませた女性は、清楚な青いロングドレスを着ていた。なぜ昼間にドレスで、なぜ屋内でつば広の帽子をかぶっているのかはわからない。


「なーにが久しぶりかい」


 グミは固まるデリを引っ張り、テーブルに近づく。


「キングはともかくシュメールは一昨日もウチの店に来たじゃん」

「そうだったかしら?」


 とぼけたふうに言って、シュメールは細いおとがいに指を添えた。


「そうだよ。散々ペニバン並べて、いいのがないって帰ってった。忘れてないよね?」

「グミが覚えてくれてるなら私が覚えておかなくたっていいじゃない」


 シュメールが全身で醸しだす色艶に目を瞬きながら、視界の端に写る全裸プラスパンツ男を意識の外に押しやるべく、デリはペニバンってなんだろうと思った。


「ところでグミ、そっちのちびっ子紳士はなんだ? 隠し子か?」


 今この世で最も意識に上げたくない男が言った。

 グミは片手を腰に、呆れたように首を傾げる。


「私がそんなトシに見えてるなら飲み過ぎ。お家に帰る時間だよ」


 言って、デリの手を引っ張った。


「この子はコーウェンの…………」

「……コーウェンの?」


 グミが言いよどむのを見て、キングとシュメールが声を揃えた。

 三人の視線が、一斉にデリへ向く。


「へっ? えっ、あっ、デ、デリです! お祖父ちゃんの孫です!」


 しどもどろのデリに、一同沈黙。ややあって、ぷっ、とシュメールが吹き出した。


「まぁコーウェン様がお祖父ちゃんなら、デデリくんは孫でしょうね」

「デデリたぁまたケッタイな名前だな」

「えっ、あっ、違くて! デリです! デリ――」


 またしてもフルネームを名乗りそうになり、デリは慌てて口を押さえた。

 待っていたと言わんばかりに三人が笑った。どうやらからかわれていたらしい。どこかで話が通じていたのか、単に仲がいいからか、おちょくり方も似ている。


「ごめんなさいね、デリ」


 シュメールが鼻をひくひく動かした。


「――あら。あなた、とってもいい匂いがするわね?」


 シュメールは人差し指を立て、こっちに来て、と動かした。

 どうしよう、とデリは傍らのグミを見上げてみたが、小さく肩を竦めただけだった。なんとなく緊張しながら近づくとシュメールが首を伸ばし顔を近づけた。もう少しで鼻先が触れてしまいそうで、デリはぎゅっと目をつむった。

 すん、すん、と目の前で鼻を鳴らす音がした。


「温めたミルクに、シナモン、蜂蜜、それに一滴のブランデー」


 並べられた単語に驚き、デリは目を見開――こうとしたが、瞼が動かなかった。異常に気づき、デリは躰を動かそうとする。動かない。首も、腕も、足も、びくともしない。

 すん、すん、と鼻を鳴らす音が聞こえる。


「それから……? 湿った革、生乾きの犬、乾いて三日経った小便――タクシーかしらね。他には――あぁ、グミの匂い。グミの汗と、こっちはデリのね」


 すん、すん、すぅ、はぁ、すぅ、すぅ、はぁ。


 激しくなる息遣い。逃れようにも躰が全く動かない。なぜか、まったく。


 すうぅぅ、はぁぁぁぁぁ、すぅぅぅぅぅ……


 息遣いが肌を撫でる。髪に触れる。まるで大きな蜈蚣が這い回っているかのような不快。鼓動は早まり、胸がつまり、早く終わってと、誰か助けてと、声にできない悲鳴をあげる。


「シュメール! やりすぎ」


 パカン、という軽い音とともに、意識が遠のきそうな圧迫感が失せた。ようやく開いた瞼の向こうにいたのは、不満げに帽子の角度を直すシュメールと、苦笑するパンイチ男と、


「大丈夫? 悪いね、シュメールは重度の匂いフェチなんだ」


 と申し訳なさそうなグミ。


「匂いフェチ……?」


 立っているのも辛い倦怠感に耐えながら、デリはやっとの思いで口を開いた。


「ええ。そう」


 シュメールは肌に浮いた汗にハンカチを当てながら言った。


「ごめんなさい。あんまりいい匂いだから、ついムラムラしちゃって――魔法になっちゃった」

「魔法……?」


 大人のおもちゃ屋でグミが見せた、アレ? 祖父を死なせたというスーキーが言っていた? 祖父自身も使い手だったという、なにか?


「魔法使いでいたいなら、欲望のただなかでも理性を忘れないこと。忘れた?」


 グミはすまし顔をしているシュメールの帽子のつばをグイッと下げた。


「もう! だから謝ったじゃない!」


 シュメールは帽子を直しながら鼻を動かした。


「なにをそんなにイライラしてるの? 生理はもう三日は前に終わってるみたいだけど?」

「嗅ぎ取るな。嗅ぎ取ってもわざわざそれを口に出すな。気持ち悪いなぁ、もう」


 グミは心底嫌そうに言い、すぐにデリへ向き直る。


「変態どもは放っといて今日の寝床を確保しようか」

「えと……はい」


 デリは力なく頷いた。酷く疲れていた。許されるなら今すぐ横になりたいほどに。グミに手を引かれるままにカウンターに向かう。


「――デリ! デリ!」


 背後の声に疲れた顔を向けると、パンイチ男が両手両足を広げて待っていた。

 もはや悲鳴を上げる元気も反応してやる気力もなかった。むしろ疲れ果てて感情が鈍麻しているのか、いいからだをしてますね、の一言くらいかけてやれそうだった。

 デリの反応が不満だったのか、男は口の両端を重苦しく下げた。


「ええと、笑えねぇ? ……まぁ、なんだ。なにがあったかしらねぇけどよ、元気だせな? 俺はキング。フラッシャーってあだ名で呼んでくれてもいい。よろしくな、デリ」


 格好以外はまともなのかな、とデリは小さく会釈した。


「あい。そんじゃデリくんはこっちね」


 グミはひょいっとデリを持ち上げ、人形のようにカウンターの席に置いた。

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