シリアナの女王
ブラザー・アルファとブラザー・ブラザーはデリの服から手を離し、素早くカウンターへ向き直る。同時。
女が、手にしていた筒を投げた。
ぶよぶよした肌色の筒が、内側に注ぎ込まれた
次の瞬間、デリは信じられない光景を目にした。
カウンターの向こうに座っていたはずの女性の躰が、漆黒の残像を残しながら滑るように移動し、空中にあった筒に右手の指を突っ込んで
瞬くよりも早く、カウンターとデリの間にある空白を半分以上も渡ったのだ。
呆けるデリの目の前で、女が右手を振るった。指先を離れたぶよぶよした筒が勢いよく床に叩きつけられ、ビシャン! と粘液を吐き出しながら高く弾んだ。気づけば女の腕は、長手袋をしたかのように、二の腕ちかくまで真っ黒に染まっていた。
長く、長く引き伸ばされた時間。
ようやくデリの
ブラザー・アルファとブラザー・ブラザーが、でろり、と舌を垂らした。入れ墨が入っていた。中心に目のような紋様を加えた
「ハハッ!」
女が、実に
「さぁ! 新しい世界に行ってみようかぁぁぁぁぁぁ!?」
ずぶり、と布を引き裂き肉を貫くかのような、世にも恐ろしい音が聞こえた。
「をっごっ、ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああああああ!?」
遅れて響き渡る男二人の野太い絶叫。だが悲鳴にしては奇妙な色が混ざっていた。デリは背中でそれを聞きつつ、カウンターまで這いずる。立板に背中を打ち付けるようにして振り向くと、
「ひっ――」
目の当たりにした惨劇に声を
女が、ブラザー・アルファとブラザー・ブラザーの尻に手を突っ込んでいる――ように見えた。より正確には、手というよりも、手首を突っ込んでいた――ように見えた。物理的には不可能だ。だがしかし、体勢と双方の位置関係から論理的に推論すればそうなっているはずだった。
「アハハハハハッ! ホラホラホラァ! さっきの威勢はどうしたぁ!?」
浅黒い頬を上気させ、女が腕を動かした。そのたびに、男二人が狂おしそうに身を
「ホラ! ホラホラ! もう手首が入ったぞぉ!? なんか言えよオラぁ!」
ずん、と女の腕が肘ちかくまで男二人の躰に埋没した――ようにデリには見えた。
女が笑いながら腕を
男たちは、女の黒い長手袋に覆われたような腕に躰の内側を
その情景は、絵面は、デリの知り得る言葉では評しきれない。
ただ、分かるのは、
なにか、なにかとてつもなく、悍ましいものを見せられている!
デリは本能的な恐怖から両目をぎゅっと瞑り、頭を抱え込むようにして両耳を塞いだ。しかし男たちの絶叫は、嬌声と化しつつある野太い声は、彼の白く小さな手をすり抜けて鼓膜を震わす。
「ハハハハハッ! 情けない声じゃないか! もう肘まで入った! 次はどうする!? 口まで貫いてやろうか!? アハハハハハハハッ!!」
興奮しきった女の狂暴な笑い声までもが、デリの恐れ
かつて書物の中にみた地獄なる世界が本当にあるならば、今まさにここにある、とデリは思った。
女とブラザーたちの奇妙で奇怪で絶望的な歓喜の歌はしばらく続き、そして、
「ホラホラホラホラホラ!
女の狂喜にじむ咆哮に、唸るようなくぐもった悲鳴が続き、男たちの声が止んだ。
そっと耳から手をどけると、
ふーっ、ふーっ、と鋭く荒い息遣いだけが聞こえた。
デリは恐る恐る
へっぴり腰になったブラザー・アルファと、ブラザー・ブラザーが、涙でぐしゃぐしゃになった目で虚空の一点を見つめ、両脇を窮屈そうに締め上げ、ブルブル震えていた。
「ひっ――」
デリは慌てて両目を隠した。だが、どうしても気になり、指の隙間から覗く。
女が勢いよく腕を引き抜くと、男二人が低い声で呻き、ぐりん! と白目を剥いて、やがて、ゆっくり床に突っ伏した――
尻を、天高く突き出して。
「ようこそ、私の王国――
突き出された痙攣する尻二つと、ぷるぷる震えるデリを見比べ、女は薄く笑った。
「このシチュエーション、やられっぷり――ずいぶん重たい
女は満足げに息をつき、両腕を鋭く振った。腕を覆う黒が消え失せた。
「――さぁて、少年。やり直そうか」
ゴツン、ゴツン、と重い靴音を立てながら悠然とデリに歩み寄り、今はすっかり健康的な褐色の肌に戻った右腕を伸ばす。
「私の名前は、グミ。少年がお探しの、シリアナの女王さ」
差し出された手を見て、助けてもらっておいてなんだが、デリは思った。
――いやだな。ばっちそうだな。
「失礼な。ばっちかないやい」
グミはデリの思考を見透かすように砕けた調子で言い、額の汗を手の甲で拭ってみせた。そして、目をまん丸くするデリの手を掴み、反動をつけて引き起こした。なんとなく手を洗いたくなった。
気づいているのかいないのか、グミはぺろりと舌先で唇を湿らす。
「とりあえず今は逃げようか。犬っころ共の飼い主が追っかけてきたら大変だ」
「あ、あの、僕――」
「ああ、そうだ。少年の名前を聞いてなかったね」
グミは店の裏口に向かおうとする足を止め、おどけるように
「あなたのお名前、なんてーの?」
「デ、デリです……」
「デデリくん?」
グミは小首を傾げた。デリは慌てて訂正する、
「違います! デリです! デリ――」
祖父の言いつけが脳裏に過ぎった。
『いいかい? 知らない人にフルネームを名乗ってはいけないよ?』
なぜなのか、どうしてなのかは分からない。けれど、祖父の言いつけを守らなかったせいでスーキーたちに追われ、言いつけを守ったらシリアナの女王が助けてくれた。なら、守らない理由がない。
名乗りの途中で口を噤んだデリに、グミは嬉しそうに頬を緩めた。
「コーウェンの言いつけかな? いい子だ。よく守ったね」
グミの手が、デリの猫っ毛をくしゃっと撫でた。
なんでか、その感触が懐かしく、デリは少し泣きそうになった。
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