ソドムの市場

 背後で悪態が聞こえ、悲鳴があがり、痛そうな音が響いた。思わず首を振ると、青年が道に投げされていた。鼻から血が出ていた。殴られたのだ。

 目があった瞬間、青年が叫んだ。


「デリ! 逃げろ! 逃げろ! 止まるな!」


 腰の警棒を抜こうとしていた。デリは小さく頷き駆け出した。

 背後で響く鋭い打音。悲鳴。なにを騒いでるの! と叱りつけるスーキーの声。

 ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい!

 デリは半泣きで大通りに飛び出した。一頭立ての辻馬車ハンサムキャブが行き交い、近年すこしずつ数を増やしつつある黒い自動車が道路脇で人を降ろしていた。たしか、タクシーと呼ばれている機械仕掛けの馬車ハックニーキャリッジだ。祖父が家の前で乗り込むのを見たことがある。


「タクシー!」


 デリは朧気な記憶を頼りに声を張り、客が降りたばかりの自動車に飛び込んだ。


「おっと。どうしたい、坊や。そんな急いで」


 あご髭を蓄えた太り気味の中年男がハンドルを握っていた。すぐにデリは紙幣を突き出す。


「出して! 早く出して下さい!」

「出すって坊や――」

「その車! 待て!」


 運転手の声と追ってきたブラザー・アルファの声が重なった。もうすぐそこまで来ていた。


「おじさんお願い! 追われてるんです! 早く出して下さい!」

「わ、分かった!」


 朝靄あさもやで湿った石畳とタイヤが擦れ、いなないた。ぐん、とシートに押し込まれるような加速を身に受けるのと、バン! とドアが叩かれたのは、ほとんど同時だった。


「うわ! くそ! なんだあいつら!?」


 運転手は悪態をつき、首を振った。


「なにがあったんだ坊や! どこに連れていけばいい? 親戚の家――いや、警察か!?」

「警察はダメ!」


 名刺のことがある。嘘だと思いたいが、もし本当なら捕まりに行くようなものだ。

 ――なにより、祖父の言いつけがあった。

 デリは手紙をポケットに押し込み本を開いた。パラパラと頁をめくりメモを出す。


「ここ! ここに行って下さい!」

「どこだって?」


 運転手は後ろ手にメモを受取り、胡乱うろんげに眉を寄せた。


「……本気かい?」

「本気です! お願い! お金が足りないなら必ず払いますから!」

「――いや。金の問題じゃないんだが……しかたねぇ。坊や、いいか? 連れてくけど、おじさんが乗せてったって誰にも言うんじゃねぇぞ?」


 運転手の言い含めるような言葉に、デリは首を縦に振った。


「お願いします! 絶対、誰にも言いません!」

「よぅし。じゃあ外から見えないように頭を下げてくれ」

「え? あの……」

「任せろ。絶対、連れてってやるから」


 自信たっぷりに光る白い歯。

 その様子にかえって不安を覚えつつ、デリは後部シートに横になった。

 窓から見える空は、街の家並みと同じく灰色だった。

 当面の危機は乗り越えたはずなのに、ちっとも気持ちが落ち着かない。郵便屋の青年は大丈夫だろうか。お祖父ちゃんの家は。お祖父ちゃんは――。


 目に涙がたまりはじめ、やがて決壊した。

 デリは声を殺し、呻くように泣いた。運転手が気を使ってなにか声をかけてくれていたが、耳に入ってこなかった。

 ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……。

 デリはしでかした全てのいけないことを謝りながら、小さな背中を丸めた。


 いったい、どれほどの間そうしていただろうか。

 涙が溢れてこなくなったとき、車外の気配が変わっているのに気づいた。車は相変わらず静かに進み、空も変わらず灰色のまま。なのに、空気が違うと感じる。

 それは背の高い建物にくくりつけられた色とりどりの看板のせいかもしれないし、あるいはときおり窓の外に写る通行人の服装のせいかもしれない。


 洒落ている、とでもいえばいいのだろうか。デリの住んでいた地域の人々と違い、堅苦しくなく、生き生きとしているようにも見えた。


「――こら。坊や、頭を上げちゃダメだって言ったろう?」

「え、あ、ごめんなさい」


 デリが慌てて頭を下げようとすると、運転手は吹き出すように笑った。


「いや、もう一番アブないところは抜けたから大丈夫だけどな」


 手元のメモをちらりと覗き、バックミラー越しにデリを見た。


「――けど驚いたぜ。泣き出しちまうしさ」

「あの……ごめんなさい」

「いや、謝るこたぁないさ。考えてみりゃ《諸悪人の路地》に帰る子たちにゃよくあることだからなぁ。あれだろ? 悪い客にあたったんだろ? あの辺の奴らはそうなんだ。お高くとまって、とんでもない変態ばっかりでよ」

「えっ? あの、ちょ、ちょっと待って下さい」


 運転手の言葉を飲み込めず、デリは両手で顔を覆った。

 悪い客って、なに? ヘンタイ? 知らない単語。でもそれより、


「……《諸悪人の路地》って、なんですか? メモにはたしかパブ通りって――」

「んぉ? なんだ坊や、始めたばっかかい? それで合ってるよ。あんまカッコいい名前じゃないし、外でアソコの話をすると白い目で見られるからな。外では《諸悪人の路地》って呼ぶんだよ」


 運転手はハンドルを大きく切って、肩を揺らした。


「――まぁ、坊やみたいな子を買う客なんて無垢な方がいいとか言い腐るんだろうから、知らないって設定でもいいわな」


 買うとか無垢とか、なに?

 デリはまた顔を覆い、小さくため息をついた。すると、いるともしれぬ妖精が耳聡く聞きつけたのか、車が止まった。

 ドアの向こうに怪しげな通りが伸びていた。車中で見た風景をいっそう濃くしたような、綺羅びやかで、艶やかで、悪く言えば猥雑わいざつな光景だ。


「悪いんだが、通りに車を入れるのはご法度になってるんだ。ここで降りてくれ」

「えっと、あの――」

「ん? ああ、メモがないと困るもんな」


 運転手は身を乗り出し、メモと紙幣を重ねて出した。


「札が大きいから釣りが出せないし、ついていってやれないからな。今回だけ特別だ。メモの店は、通りに入って二つ目の十字路を左にいって、すぐのとこだよ――住所通りならな」


 デリはおずおずとメモと紙幣を受け取り、ペコリと頭を下げた。


「あの、ありがとうございました」

「な~に、いいってことさ。持ちつ持たれつだ。良かったら坊やの店の名前を――」

「店?」


 かくん、と小首をかしげるデリに、運転手は言葉を濁すように唸った。


「いや、うん。忘れてくれ。俺はほら、この路地の味方だからよ」

「えと……はい! 本当にありがとうございました!」


 もうひとつ頭を下げて、デリは路地に降り立った。

 空気が湿り気を帯びていた。しかも少し生臭い。魚市場の臭気とはまた違う、独特の粘っこさがある。水たまりの残る石畳が、古びた油のように靴底に絡んだ。


 タクシーを見送り路地に入ってすぐ、自分が場違いな空間にいると気付いた。

 店なのか家なのか、建物の入り口に立つ男女は例外なく派手派手しい服を纏い、おっかなびっくり進むデリに品定めするような視線を送る。中には下着にしか見えない服装の女性もおり、目のやり場に困って下を向いた。


 クスクスと笑う声、囁くような言葉遣い、全てが自分に向けられている。

 居心地の悪さに耐えながら十字路をひとつ通り過ぎ、ふたつ目を左に。笑う声が一段と大きくなった気がした。だが、正面に人影は見えなかった。

 ほっとして顔を上げたデリは、目に飛び込んできた看板に、ぽかん、と口を開けた。


「マーケット・オブ・ソドム……大人の……おもちゃ屋……? 愛の店……?」


 なんのことか分からない。おもちゃ屋はともかく、大人の、とは。愛の店とは。愛を売り買いするとは何事か。乱れ飛ぶハートマークに、なにか別の意味があるのだろうか。


 ポン、とデリは顔を赤くし、慌てて下を向いた。

 看板の端に猥褻わいせつな赤い線画が――ポーズを決める下着姿の女性が描かれていた。いったい何を売っている店なのだろう。なぜ祖父はここに来るよう言ったのだろうか。

 デリはぎゅっと目を瞑って疑問を振り払い、ドアを引いた。


 開かなかった。


 まさかお休み!? と慌てて顔を上げると、『優しく押して』と書いてあった。

 なんとも形容しがたいモヤモヤに形の良い眉を歪めながら扉を押すと、

 カラーン、カラーン、と正午を知らせる教会の鐘のような清廉な音が鳴った。驚き、即座に目をやったデリは、ゆっくりと店内に向き直り、


「ひ、ひぇ!?」


 扉でしたたかに背を打った。


「……ち、ちんちん……!?」


 入ってすぐのところに、デリの背丈に迫りそうなほど大きく、太く、たくましい男性器の置物が鎮座していた。

 その有無を言わせぬ迫力に圧倒され、デリはすぐにでも帰りたくなった。

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