郵便屋は二度ドアノッカーを鳴らした

 スーキーがニッコリ笑って顎を振った。すぐに、

 ドカン! 

 と祖父の書斎の扉が蹴り開けられる音がした。

 デリが青い顔をして書斎に走ると、すでに破壊が始まっていた。

 等身大の人体模型『デニー』を引き倒し、本棚に収まる数々の本を引き抜いては数頁めくって後ろに放る。左手にスーキーのコートを持つブラザー・アルファの破壊はまだマシで、ブラザー・ブラザーはやりたい放題だった。


「やめ、やめて……やめてくだ――」

「貴方さっき言ったじゃない。オーケイって」


 驚き、目に涙を溜めて振り向くと、スーキーは満足そうにオートミールを食べていた。手を止めたブラザー・アルファとブラザー・ブラザーに言う。


「なにボっとしてるの? 続けなさい」

「ウィ」


 二人揃って同じ返答をし、破壊に戻った。

 どうしよう。どうしたら。

 デリはゴミ溜めと化していく祖父の書斎に膝を震わせる。そのとき、

 ゴンゴン! と鳴り響くドアノッカー。全員が一斉に振り向く。


「デリー? 俺だー。いるだろー? 手紙が来てるぞー」


 いつも家にくる配達員の声だった。たまに飴をくれる青年だ。祖父の仕事の都合か、しょっちゅう手紙のやりとりがあり、祖父に代わってデリが応対していた。

 スーキーは玄関に目をやったまま固まっている。ブラザー・アルファも、ブラザー・ブラザーも指示を待っている。ここだとばかりにデリは声を張りあげた。


「はーい! ちょっと待ってくださーい!」


 ザッ! と、スーキーたちがデリを見た。その圧に思わず喉を鳴らす。

 フン、と鼻を鳴らし、スーキーが嬉しそうに微笑む。


「なかなかやるわね。デリ?」


 ぞっとするほど冷たく聞こえた。初めて名前を呼ばれたのもあるかもしれない。 


「あ、あの、いつもの人で、その、いつもチップをあげてるんです。だから――」


 デリは震えだしそうな膝を踏ん張り、嘘を吐いた。いけないことだと分かってはいたが、この場から逃げのびるためには時間もお金も必要に思えた。


「……お金はどこにあるのかしら? 私たちは出さないわよ?」

「えと、と、取ってきます!」


 デリは大急ぎで部屋に走った。後ろからスーキーのブーツが立てる高いヒールの音と、もう一人の重い足音がついてきていた。

 部屋に飛び込むと、マネークリップを引っ掴み、祖父からもらったメモをベッドの上の本に挟んだ。腹側に隠すと見つかりそうなので、今度は背中側に隠して背筋を伸ばす。


「そんなに慌てなくていいのに」


 すべてを見ていたかのような声に慄き、デリはマネークリップを手にしたまま凍りつく。


「ん~~~~? ちょ~~っと、デリぃぃぃぃ?」


 スーキーは試すように言いながら大きく躰を傾げ、振り子のように姿勢を戻す。悠然とオートミールを口に運びつつ、デリに近づき、スプーンを咥えてマネークリップを奪った。


「ん」

 

 と、スーキーが皿を横手に出し、すかさずブラザー・アルファが受け取った。その皿に咥えていた匙を突っ込み、マネークリップから全ての札を抜く。


「人の家の習慣に口を出すつもりはないけれど、チップにしては多すぎるわよ? それに、貴方、知ってる? あいつらは公務員なの。分かる? 市民の税金を食い物にする私のお仲間。チップを取るだなんて賄賂も同じ。だから、これは先に没収しておくわね?」


 流れるように言い、紙幣一枚だけを戻して残りをポケットに突っ込んだ。

 なんて人だ、とデリは顔を歪める。しかし、やり合うよりもチャンスを優先し、返された紙幣一枚を握りしめ、スーキーの横を――


「――待って」


 廊下に出る直前、呼び止められた。


「坊や? その背中に隠した本はなにかしら~?」


 演技がかった調子で言いながら、スーキーが靴音を鳴らして近づいてくる。

 バレた、バレた! と首をすぼめるデリのうなじに、生暖かい息が吹きかけられた。


「ひぁ……」


 ゾワゾワとする感触に悲鳴を漏らし、デリはぐっと躰を伸ばした。途端、

 ぐに、と尻を掴まれた。


「ひ、ひぅ……」


 小便を漏らしそうな恐怖。未知の感覚。固く目を瞑る。膝が笑い、肩が強張った。

 早く終わってくださいと祈り、デリは手が尻から滑り上がってくるのに耐えた。


「さてさて――小さなお尻の坊やは、なにを隠したのかしら?」


 嬲るように言い、スーキーがデリの上着をまくりあげた。あらぁ、と嬉しそうに本を引き抜き、微かな紙擦れの音が続いた。

 デリはびくびくしながら肩越しに様子を窺う。

 スーキーは興味なさげに頁をめくり、パララ、と一気に進めて手を止めた。

 どうか、どうか祖父に渡されたメモに気づいていませんように――。

 パン! と勢いよく閉じられた本の音に、びくん、とデリの肩が弾んだ。


「――ちょっと貴方には早いんじゃない?」


 スーキーは目を薄っすらと細めた。


「でも、私が初めてポルノを読んだときも、ちょうど貴方くらい――もうちょっと子供だったかしら」

「ぽ、ぽるの……?」


 オウム返しに尋ねるデリと目線の高さを合わせ、スーキーが耳打ちした。


「えっちな本ってこと」


 耳奥を撫でるような囁きに、デリはきゅっと首をすぼめた。

 涙の滲む黒瞳を覗き込むようにして、スーキーが続ける。


「またひとつ賢くなれたわね。今度から本屋さんで迷わずにすむわよ?」

「ぼ、僕が買ったんじゃありません!」


 思わず顔を真赤にして否定した。

 スーキーは本を返すと満足そうに頷き、物足りなそうに唇を撫でた。


「BA! オートミール!」


 ムスっとした顔のブラザー・アルファから皿を受け取り、すぐに匙を咥え、彼の腕からコートを取って皿を持つ手にかけた。


「BA、坊やが逃げないように見張りなさい」

「ウィ、スーキー」


 ムスっと返事をし、ブラザー・アルファはデリに廊下に出るよう顎で示した。

 どうしよう、どうしよう……! と、デリは自らの見通しの甘さを恨みながら、本を抱えてゆっくりと足を進める。

 ふたたび、ドアノッカーが鳴った。


「デリー? まだかーい?」


 呑気な青年の声が続く。

 ブラザー・アルファの気配に怯えながら、デリはどうするべきか考えた。


 配達のお兄さんに助けてを求める? ダメだ。きっと喧嘩なんかしない人だし、ちょっと抜けてるから、どうしたんだい? なんて返されるに決まってる。

 扉を開けたらすぐに走る? ダメだ。かけっこなんて大の苦手で、初めて近所の子たちと遊んだときビリになって、からかわれて、なるべく外にでないようにしてきたくらいだ。


 ――なら、ブラザー・アルファをどうにかする? 


 デリは紙幣を取るふりをしてポケットの折りたたみナイフに手をかけ、背後の男を見やった。おっきい。絶対ムリだ。一番ムリだ。果物を切ったり、鉛筆の先を削る程度のナイフじゃどうにもならない。せめて包丁――あったとしてもムリだと、デリは肩を落とした。


 そもそも魚を捌けるようになったのも、肉を切れるようにようになったのも、そう昔のことではない。包丁で指を切ったときの痛みをよく覚えている。それからしばらく、包丁を握るのが怖くなった。同じ痛みを自分の手で他人に与えるなんて、とてもできない。


「――坊主、ノロノロ歩くな」


 後ろから投げつけられた太い声に身を竦ませ、デリはドアに手をかけた。

 でも、どうにかしないと。逃げないと。逃げて、お祖父ちゃんに――本当に死んでしまったのだとしても、せめて最後に顔を見ないと。

 扉を押すと、きぃ、と短く軋んだ。


「お? やっと出てきた。なにやってんだー?」


 いつもと同じ気のいい声の、見た目通りの好青年。耳あて付きの青いハンチング帽に、肩から下げた重そうな革鞄――それに、腰に吊った樫の警棒!

 重要な書類だけでなく金品も運ぶ郵便配達人の自衛装備を目にして、デリは息を飲んだ。もしかしたら、もしかするかもしれない。


「デリ。お手紙だ」


 青年は洋封筒を突き出した。


「でも珍しいね。デリ宛の――」

「助けて! 悪い人たちがウチをめちゃくちゃにしてる!」


 デリは青年の言葉を遮り叫んだ。同時に、玄関から飛び出す。一瞬前にいた空間をブラザー・アルファの腕が掠めた。

 ――は? 

 と青年は、そんな顔をしていた。

 デリは手紙をもぎ取り、背後に回り、日頃の不信心を謝りながら神に祈った。

 お願い神様! 彼に警棒を抜かせてください!


「お、おい? デリ?」


 祈りも虚しく青年が顔を振り向けた。いい人だけど、なんて察しが悪いのだろう。

 もうこうなったら仕方がない、とデリは青年の腰に両手をかけ、


「ごめんなさい!」


 思いっきり突き飛ばした。所詮は子供の力だ。吹き飛んだりはしなかった――が、それなりの効果はあった。

 青年は飛び出してきたブラザー・アルファとぶつかり悲鳴をあげた。察しの悪さと鈍臭さが功を奏し二人揃ってもんどり打った。その間に、デリは道に飛び出し首を振った。

 一番近い大通りまでデリの足で歩いて三分。走れば二分くらいまで短縮できるはず。


「助けて! 誰か! 誰か助けて!」


 デリは人気のない住宅地に悲鳴をばらまきながら走った。

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