デリと黒衣の女

「ボンジュール――あら、ずいぶん可愛らしい子が出てきた」


 長く艷やかな黒髪の女がそう言うと、背後にいた二人の黒服の一人が、ひゅう、と短く口笛を吹いた。


「――それは止めろと言ったでしょう?」


 女は肩越しに口笛を吹いた男をたしなめ、デリに妖艶な笑みを見せつけた。

 まるで人形のように整った顔立ち。白く透き通った肌。襟にゆったりとしたフリルのついた黒いロングコートを着ていた。例えるなら、姫。だが、おとぎ話で苦難を乗り越え幸せになる姫ではなく、恐怖とともに語られる、非道の限りを尽くして逃げおおせる悪辣な姫だ。


「……そんなに怖がらなくていいわよ? 今はなにもしないから」


 言って女は腰を曲げ、デリの瞳を覗き込んだ。


 ……このヒト、今は、って言った……? と、身を強張らせるデリ。女は満足そうに舌なめずりした。肌色とは対照的に真っ赤な舌。その先で、銀色のピアスがぬめりを帯びた光を放っていた。


「もう一度だけ言うわね? そう怖がらないで? 今は、お話をしたいだけだから」


 女は躰を起こし、コートのポケットから銅色の名刺ケースを出した。一枚抜き取り、指の間に挟んでデリに差し出す。


「私はスーキー。スーキー・ボーン」


『バンドネオン市警 第七七七分署 スーキー・C・ボーン 警部補』


 名刺にはそうあった。

 スーキーは両手の親指をピンと立て、顔も向けずに背後の男二人を指差す。


「右の口笛を吹いたバカがブラザー・アルファ。左のバカがブラザー・ブラザー」


 デリが名刺とスーキーを見比べ、ついで首を傾げて背後の男を覗くと、


「変な名前よね。ブラザー・ブラザーだなんて」

「えっ」

「いいのよ。変な名前だから。分署には他にもブラザー・チェリー、ブラザー・ドープ、ブラザー・エディションにブラザー・フットレス……そんな感じでいっぱいブラザーがいるの。覚えるのが面倒だから私はBAとかBBって呼んでるわ?」


 なんら淀みなく述べ立てて、スーキーはさらに続けた。


「信じられないでしょうけどBACまでいるのよ? どう?」

「ど、どうって言われましても……」

「私の格好にしたって警察には見えないものね。気にしないで。私はちょっと特別なお巡りさんなの」


 スーキーは腕をようやく下ろし、腰を曲げ、右手をデリの顔の前に出した。


「わる~い子だったり、いけな~い子だったり、そんな子を捕まえてお仕置きするお巡りさん」


 片目を瞑った。そしてまた同じ姿勢のままブロンズ像のように固まる。

 手を取らなければ終わらないような気がして、デリは恐々と生白い手に触れた。

 ぞっとした。

 肌は柔らかく、体温だってある。しかし、それは周到に用意されたイリシウム――怪物の御前に誘い出すための疑似餌を思わせる手だった。


「……あら。水仕事をしているの? お祖父様のお手伝いかしら」


 スーキーが両手でデリの手を撫でさする。その動きは大きな二枚の舌のようだった。

 背筋にぞわぞわしたものを感じ、デリは慌てて手を引いた。


「あ、あの……! お話ってなんでしょうか!?」


 すごく嫌な感じがするから、早く終わらせてしまおう。デリはそう考えた。

 スーキーは怪しげに目を細め、唇の片端を吊り、躰を起こした。


「私の足元を見て? 靴の踵が高いの。だから、できれば座ってお話したいな」

「えっ、あ、じゃあ……どうぞ……」


 デリの話し相手は祖父を中心に限られており、妙齢の女性となると極端に少ない。慣れない会話に漠然とした不安を感じつつ、デリは踵を返し、ダイニングに案内しようとする。が、足音がついてこない。不思議に思い振り向くと、スーキーは両腕を腰の高さで広げていた。


「……あの?」

「……ふ~ん? 貴方は脱がすより脱がせるのが好きみたいね?」

「脱がせる……?」


 なんのことだろう、と首を傾げるデリ。スーキーの後ろの二人――たしかブラザー・アルファ――が背後から彼女のコートの襟に手をかける。


 ……脱がすより、脱がせるって……まさか!?


 ぽん、とデリの顔が真っ赤になった。


「ち、違います! えと、僕は――」


 慌てて否定を試みるデリの言葉尻にかぶりつき、スーキーは言った。


「あら可愛い」


 楽しげに言いつつ、ブラザー・アルファの手を借りコートを脱いだ。


「ただの冗談よ。貴方の背じゃ手が届かないものね?」


 ねっとりとした口調に、デリはむぅと頬を膨らませる。からかわれるのは好きじゃない。特に、自分ではどうしようもない身体的特徴は。


「こっちですよ」


 あらためて、デリはぷりぷりしながらダイニングに入った。

 悠然と続いてくる足音は、彼女が声を殺して笑っているであろうことを伝えていた。

 今度はバカにされないようにと椅子を引き、スーキーに示した。


「あら、ありがとう」


 腰を下ろすのに合わせて、少し椅子を押しだす。


「――いい匂い。シナモンね? なにを作っていたの?」


 スーキーはまったく気にする様子もなく言った。


「……ただのオートミールですけど」

「ただの? 蜂蜜も入っていそうだけど」


 え、とデリは思わずスーキーを見やり、すぐに鼻をくんくん鳴らした。特徴的な麦の匂いを消すためのシナモン。それとミルク。デリはオーツ麦の味が苦手で蜂蜜をいれるのだが、土地柄もあって値が張るため匂うほどは入れない。

 なんで気づいたんだろう……? と、デリは食卓に頬杖をつくスーキーを見つめる。視線があった。薄い唇を開いたスーキーは、真っ赤な舌の先で丸いピアスを揺らした。


「匂いじゃなくて、味ね」

「味、ですか?」

「そう。私――」


 スーキーはダイニングの入り口を塞ぐ男二人をちらと見て言い直した。


「私たち、味覚がとっても敏感なのよ。匂いっていうのは空中に浮いてる目に見えないくらい小さな粒で、それを鼻で吸い込むから感じるのね? 私たちはそれを舌でできるの」

「えっと……空気を舐めたってことですか?」

「空気を舐めた。いい表現ね。そんな感じよ。私たちの味覚は嗅覚より鋭いの。特に私はそこのBAやBBより敏感。だから舌にピアスを入れてるわけ。――まぁ、他にも理由はあるんだけど一番大きな理由は味ね。金属の味を常に感じることで正気を保っているのよ」

「しょ、正気、ですか?」


 突然とび出てきた不穏な単語に、デリが固まる。それを見越していたのかスーキーは、あ~~~、と悩ましげな声を発しながら背もたれに仰け反った。


「美味しそうな匂いを舐めてたら、お腹が減ってきちゃった。実は私、昨日、今日と、ほとんどなんにも食べてないのよ。ねぇ? 良かったら、少しだけオートミールを分けてくれない?」


 なんだかアブなそうな気がする。

 道端でいびきをかく酔っぱらいすら心配するデリをして、ごめんなさいしたくなるほどに。

 しかし、デリは席を立つと、オートミールをちょっと豪華な皿によそって、銀の匙といっしょにスーキーの前に出していた。なんでそうしたのか、彼自身にもよくわからない。

 ただ、そうしたくてたまらなかった。


「ありがと~う♪」


 かちゃり、と幽かな音を立ててスーキーが匙を取った。デリは正面に座り表情を注視する。

 どうかな。美味しいかな。どんな顔をするかな。

 そんなことばかり考えていて、警戒心を抱いていたのも、彼女が祖父の話で来たのも、どころか誰のために作ったのかすら忘れ、ただオートミールを口に運ぶ女に集中していた。

 さぷり、と匙が薄い唇の間に吸い込まれる――と。


「~~~~~~~ッ! んんんぅぅぅぅぅ!!」


 そう唸りながら、スーキーは悩ましげに眉を寄せ、顎を微かにあげた。スプーンが口から引き抜かれると同時に顎が小さな上下運動を始める。咀嚼に合わせて舌も動かしているのか、顎下で喉も蠕動している。ぐぐり、と籠もった音とともに口中のオートミールを嚥下して、スーキーは陶然とした息を強く吐き出す。そして、


「んんんんんうぅぅ……最っっっっ高ね! このオートミール!」


 スーキーは前のめりになって叫び、魔性に魅入られた狂人のごとき瞳で手元のオートミールを見つめ、正面のデリと見比べる。


「貴方すごいじゃない! 私オートミールはあんまり好きじゃないのに、これならいくらでも食べられそう! ねぇ、もっと食べていい? いいでしょう?」


 懇願するようなスーキーの声に、デリは身悶えしそうになるのをこらえながら、彼女のそれとよく似た瞳をして答えた。


「はい。もちろん! お腹いっぱい食べてくださいね?」


 天使のような微笑みを浮かべるデリ。内心、踊りだしたくなるほど嬉しかった。


 ――やった。美味しい? 美味しいですか? もっと食べて。もっともっともっと食べて。


 デリは下腹がジンジンと熱くなっていくのを感じた。汗が吹き、呼吸が乱れる。一心不乱に食べる姿を見ているだけで、この数日間の憂鬱が嘘のように吹き飛んでいった。

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