だいじな言いつけ

「今日は牛肉入りのトマト煮込みだよ。青物屋のおじさんがトマトをおまけしてくれたから、たっぷり入ってるよ。よく煮込んだからお肉もすっごく柔らかくなってるはずだよ」


 嫌な予感を振り払おうと、デリは殊更に元気よく言い、祖父の背中を押した。

 早くご飯にしてしまおう。美味しいものを食べてもらって、祖父の喜ぶ顔を見て、今日は早く寝てしまおう。悪い一日は早く終えてしまって、きっとよくなる明日を待とう――。


 そのつもりだったのに、スプーンを口に運ぶ祖父の顔は暗い。

 嘘だ、とデリは匙で皿をかき回す。セロリ、ローレル、タイム、パセリ……複雑に絡み合うハーブが牛肉の臭みを包み隠し、食欲を誘う芳醇な香りに変えている。

 湯剥きしたトマトの舌触りは滑らかで、人参や玉ねぎもナイフを必要としない。煮込んだ牛肉はほろりと解け、一匙口に運べば誰しもが――少なくとも、祖父は微笑むはずだったのに。


 祖父の手は一向に進まず、皿はほどよい熱を失っていく。

 そんなはずない。そんなはずない。そんなはずない。と、デリは祖父の顔色を窺いながら匙を口に運んだ。美味しい。美味しいはずだ。不味いだなんてありえない。はずだ。

 身も心も温まるはずなのに、デリの躰が冷えていく。


「あの……お祖父ちゃん、美味しく、なかった……?」

「――ん?」


 祖父はその声に顔をあげ、ややあって顔を明るくした。


「ああ! そんなことはないよ、デリ。よく出来てる。美味しいよ。デリの作る料理はどれも絶品だ」


 いつもの口調によく似せた、上っ面ばかりを磨いた賛辞。嘘だ。

 なにが悪かった? とデリは猛烈な速度で思考を巡らせる。材料選びから下ごしらえ、レシピだけに頼らず舌で確かめ、できうる限り祖父好みに仕上げたはずなのに。


 デリはもう一匙口に運び確信する。

 なにも間違っていない。完璧だ。完璧に違いない。料理が完璧なのに笑顔がないなら、祖父の舌が変わったからだ。気候、加齢、前日と、前日の前日と、前日の前日の前日と、時間で隔たれた数多の味とのマリアージュ。そのくらい折り込み済みだ。

 ならば、デリも想定しなかったなにかが原因に違いない。怯えを隠す瞳。酷く冷たくなって震えていた手。無理をして明るく振る舞わなければならなかったような、なにか。


 ――ナニソレ。ナニソレ。ナニソレ。


 なんだ、ソレは。

 祖父の喜ぶ顔を見るためだけに用意したすべてを打ち負かすなにか。

 そんなもの、あってはならない。なにが、僕の邪魔をしてる?

 胸のうちで膨らんでいく暗色の感情を、デリは口の中で噛み殺す。


「――今日、なにか、あったの?」

「……やっぱりデリには分かってしまうね。まぁ私の嘘が下手なだけかもしれないが――」


 祖父は諦めたように苦笑し、匙を置いた。


「もしかしたら、この土地を離れなければならないかもしれない。私はここが気に入っているし、デリもそうだろう? だから、ここに残れるように、ある人と話をしなくてはいけない」

「……それでご飯が美味しくないの?」

「いや。デリのシチューは美味しいさ。美味しいけれども――」

「けど?」


 デリが言葉尻を食いとるように言うと、祖父は困ったように右のこめかみを指で押した。


「けど、じゃなく、から、だったね。美味しいから、もっと色々な料理を食べてみたい。そのためには、少しでも長生きしなくちゃいけない。それは分かるね?」

「うん」

「よし。では話の続きだ。私はこれからある人と話し合いに行かなくてはいけない。私らを守ってくれるかもしれない人たちだ。だけどね、とても危険な人たちでもあるんだ。もし話し合いが上手くいかなかったら、私は帰ってこれないかもしれない」


 帰ってこれない、つまり死んでしまうということだろうか。


「……父さんや、母さんみたいに?」

「そうだ。本当ならこんなことは考えたくないんだけどね、もし私が死んでしまったら次はデリが狙われる。私はどうなってもいいが……デリ、お前にだけは、生き延びてほしい」

「僕はお祖父ちゃんが死んじゃうのも嫌だよ」

「そうならないように努力はする。それは約束だ。でも、もしもということはある。だから、私と約束してほしい」

「……約束?」


 不安に押しつぶされまいとするデリに、祖父は静かに頷いてみせた。懐から革の手帳を出して万年筆を滑らせ、頁を破る。


『マーケット・オブ・ソドム パブ通りパブリックストリート十三番』


 そう書かれていた。なんて冒涜的な店名だろうとデリは思う。パブ通りとは? 初めて聞く道だが、十三番地にあるのだから、きっといかがわしい道だろう。


「もし明日の朝までに私が帰ってこなかったら、そこに行って《シリアナ》の女王に会いたいと伝えるんだ。きっとデリを守ってくれる」

「……《シリアナ》の女王……」


 どこか異国を匂わせる単語と、女王という呼称。その組み合わせは、娯楽小説に耽溺していたデリに、どこかの国の荘厳な宮殿で玉座につく豪奢なドレスの女性を想像させた。

 ふふ、と祖父が楽しげに鼻を鳴らした。


「デリがなにを想像したのか分かるよ。デリは年上の女性が好きだものな?」

「へっ!?」


 祖父の奇襲に、デリは頓狂な声をあげた。心外な。まったくもって心外な。


「僕は別に、そんなんじゃ――」

「いいんだよ。デリ。さっきも言っただろう? それは男の子でも女の子でも、誰しもがそうなることに、なんら不思議はないんだから」


 言って、祖父はシチューを口に運び、ゆっくりと頷いた。


「本当に美味しい。よくできてるよ、デリ。偉い子だ」

「……本当?」


 祖父の声は決して投げやりではなかったし、疑いたくもないのだが、デリは不安そのものを押し潰すべく質問を重ねた。


「本当に美味しかった? 明日も、明後日も、ずっと食べたいくらい美味しい?」

「……ああ。これを食べきることができたなら、きょう死んでも構わないと思うくらいにね」


 すぅ、と食卓の空気が重くなった。

 なにも言えないでいるデリの前に、祖父はギッシリ詰まった革のマネークリップを置いた。


「いいかい? デリ。私との約束を必ず守るんだよ?」

「お祖父ちゃん……?」

「デリ。明日の朝、もし私が帰ってこなかったら、どうする?」


 いつになく、それこそ、お説教をするときよりも真剣な目をした祖父に言われ、デリはおずおずとマネークリップを掴み取った。


「もし明日の朝、お祖父ちゃんが帰ってこなかったら、メモの住所に行って、《シリアナ》の女王に会わせてもらうように、お願いする」

「いい子だ、デリ」


 祖父はガタンと椅子を鳴らして立ち上がり、食卓を回り込んでデリの頭を撫でた。


「一晩寝かせれば美味しくなると言うし、シチューは取っておいてくれるかな?」

「――うん、取っておくね!」


 デリは大きな声で返事をした。一晩おいた方が美味しいなんて嘘だよ、と思いながら。

 四時間くらいは煮込んだし、鍋止めはすでに済ませてある。時間とともに始まるのは腐敗でしかなく、それはデリが求める祖父を喜ばせるような味ではなかった。


 翌朝、祖父は帰ってこなかった。

 デリは少しだけかさの減っていたシチューを捨て、昼に腹を空かせて帰ってくるであろう祖父のために野菜と卵のサンドイッチを作り、一人で食べ、残りを捨て、夜に飢餓状態で骨と皮だけになって帰ってくる祖父を思って野菜のリゾットを用意し、一人で食べ、捨てた。


 永遠に続くかと思われた日々があっさり崩壊した事実を認めたくなく、デリは亡霊のごとき振る舞いで料理を作り、一人で食べ、残りを捨て、言いつけをすっかり忘れていた。

 そうして二日目が終わり、三日が経ち、四日目の朝、

 玄関のドアノッカーが鳴った。


「お祖父ちゃん!?」


 デリは飼い主の足音を聞きつけた飼い猫のように玄関に走った。ちょうど朝食用にオートミールを煮ていたところだった。空っぽの胃袋には少し重いが絶対に美味しいはずだ。

 だからか、祖父ならドアノッカーを鳴らす必要がないと気づかなかった。

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