シリアナの女王と破滅のアジフライ
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一章:デリとシリアナの女王
金色の猫っ毛に黒檀の瞳
どこか乾いた青空の、時間に置いていかれた街の片隅の、赤い煉瓦の家の台所。黒い瞳の少年がひとり、天使の歌声を思わせるハミングを響かせ、じゃがいもの皮を剥いている。
年は大きく見て十二かそこら。くるくるとした金色の猫っ毛に、黒檀のような瞳。その可憐な顔立ちは、祖父の言いつけで着ている瀟洒な三つ揃えがなければ、誰しもが戸惑う。
「…………♪ ……♪ …………♪ …………むぅ」
少年デリは、鼻歌を止めて小さく唸った。鍋が遠い。一度、踏み台を降りて鍋の前に移動させなければ安全にジャガイモを入れるのは難しい。
祖父との二人暮らしにこれといった不満はないが、背の低さだけは不満だった。
デリは乾いた布巾を唇に挟み、踏み台を鍋の前に動かした。足でやってしまおうかとも思ったのだが、癖になるとお行儀が悪いと叱られそうだから却下だ。
踏み台を触った手を布巾で拭い、切ったじゃがいもを鍋に落とす。
今日の献立は野菜と牛肉のトマト煮込み。野菜は少し種類が足りないし、牛肉だって大きくはない。けれど、なじみの商店のおじさんがおまけしてくれたので、トマトはたっぷり。
「……むぅ」
ふたつのトマトを見つめ、デリは小さく唸った。忘れていた不満がもうひとつ。トマトを分けてくれたおじさんに「デリちゃんは今日も可愛いね」と、からかわれたのだ。
「……ほっぺたがいけないのかな?」
誰に言うでもなく呟き、デリはまだふっくらとしている頬をむにむにと押しあげた。少し躰を動かすとすぐに赤くなってしまうので、これも不満かもしれない。
すぅ、と息を吸いこみ――デリはそれと気付いて、ため息にする前に口をふさいだ。妖精に聞かれてやしないかと首を振り、ほっと一息。トマトに両手を合わせて目を瞑る。
「美味しくなりますように」
ため息が混じると味が濁るという。また、ため息を妖精に聞かれると悪戯をされるとも。どれも迷信かもしれないが、ため息をついてもいいことはないらしいのはたしかだ。
デリはトマトを賽の目にカットし鍋に入れ、木杓でひと混ぜ、味見をした。首をちょっと傾げて、塩をひとつまみ。あとは食べる前に黒胡椒。
「これでよし……っと」
かちょん、と鍋に蓋をし、焜炉の吸気口を狭めて弱火に、デリは後ろの食卓につく。帰ってきた祖父の驚く顔と、美味しそうに食べる姿を思って微笑み、本を手にした。
祖父の本棚から拝借した一冊だ。
子供用の本は何度も読むうちに筋を全部おぼえてしまい、飽きてしまった。その点、祖父の本棚にあるのはどれも筋が複雑で、刺激的で、読み応えがあった。
ほとんどは祖父の仕事に関係しているのか難しくて読みこなせなかったが、棚の隅っこに隠すようにして置いてある本なら読めた。小説のたぐいが多く、ちょっと堅くて迂遠な表現を見るたびに少し大人になれた気がした。
しばらく文字を追っていたデリの耳が、ほんのりと赤く色づく。
なんか……これ……と、デリは部屋を見回し、恐る恐る本の世界に戻る。祖父は帰ってきていないのだから、家には自分ひとり。にもかかわらず視線を感じる。
古ぼけた小説の、艶めかしく、少々エロチックな文章に、緊張させられているのだ。
さり、さり、と乾いたページをめくった次の瞬間、
「ふわっ!?」
デリは慌てて本を閉じた。頬に朱が差し、顔に広がる。ちょっと大人向けの本を借りるつもりで、どうやらとんでもない本を持ってきてしまったらしい。
ダメだよね……? と、内心で呟きながらも、もう一度だけ見たいと思ってしまう。祖父に見つかりでもしたら、まだ一度もされたことはないけれど、お尻叩きくらいはされるかも。
――しかし、まだ祖父は帰ってきていない。
少しだけ、ほんとのちょっとだけなら、とデリは鼻でふうふう息をし、指を挟んでいた頁を開く。心臓が早鐘のように鳴っていた。
デリは食い入るように挿絵を見つめる。泉にきた主人公が、木陰に隠れて覗き込んでいる光景。水浴びを終えた女性が泉からあがってくる瞬間をとらえた挿絵――
一糸まとわぬ女性の絵だ。
頬を伝う水滴や、柔肌に吸いつく一筋の髪や、女体の放つ色香をすべて一枚の絵に閉じ込めてしまったような――えっちな絵である。
ごくり、と溢れでてくる生唾を飲み込み、デリは挿絵を見つめる。まるでそこにいるかのように繊細で精緻な線。あくまで絵。実物ではない。だが、こちらを見つめる女性の誘うような視線に、デリは背筋がそわそわするのを感じた。
ガチン! と玄関扉の鍵が鳴った。
デリは弾かれように背筋を伸ばした。祖父だ。
「ふわわわ……!」
デリは慌ててえっちな本を閉じ、本を隠せそうな場所を探す。食器棚なんて愚の骨頂。出しっぱなしは以ての外。さりとて玄関前を通って祖父の書斎に戻しにいくのも、あるいは自分の部屋に隠すのも厳しい。
――な、なら、ここしか……!
ズボッと、デリは
「お、おかえりなさいっ。お祖父ちゃんっ」
いけないことをしていたという自覚があるだけに声が上滑りした。
鍵を閉め直したばかりの優しげな雰囲気の老紳士が、驚いたように何度か目を瞬いて、口元を緩めた。大きな手をデリの頭に伸ばし、くしゃりと髪をひと混ぜする。
「デリ、いい子にしていたかな?」
はい! と元気よく返事をしようと決めていたデリだったのだが、服の下にえっちな本を隠している後ろめたさと、祖父の震える手に微かな緊張を覚え、こくりと頷く以上はできない。
祖父は腰をかがめ、デリの両頬をつまんだ。手が驚くほど冷たくなっていた。
「……少し顔が赤いね。風邪でも引いてしまったかな?」
すべてお見通しだと言わんばかりの瞳。だが、なぜか怯えにも似た気配がある。デリはそれを怒っているのだととり、視線をダイニングに逃しながら服の下から本を出す。
「……ごめんなさい。その、この本……」
ぷっ、と吹き出すようにして小さく笑い、祖父は本を受け取った。
「なるほど、私の本棚から失敬したというわけだね?」
祖父は縮こまるデリに肩を揺らしながら、老眼鏡を鼻に引っ掛けた。
「ふむ……デリもこういう本に興味を持つようになったか」
「ち、違くて!」
まるでえっちな奴になったとでも言われたような気がして、デリは声を大きくした。
「そういう本だって知らなくて、その――」
「大丈夫だよ、デリ」
祖父はにっこり笑ってデリの頭を撫でた。
「この本はお祖父ちゃんの本棚から持ってきたんだろう? つまりお祖父ちゃんだって読んだということさ。興味を持つのは悪いことじゃない――まぁ、デリは他の子より少し早く興味をもったようだけどね」
――終わった。デリはえっちな奴に決まってしまった。慰めるような物言いがなおさらデリを追い詰め、羞恥心に身悶えさせる。
それと知ってか知らずか、祖父はデリに本を差し出した。
「この本はデリに貸してあげよう。大丈夫。そこまで過激な本でもないからね」
デリはうーうー唸りながら涙目で本を見つめ、やがてそろそろと手を伸ばした。一瞬、手で払ってしまおうかとも思った。しかし本に罪はない。床に落としたりしたら本が可哀想だ――それに、ちょっぴりだけど読んでみたいし。
本を胸元に抱えるデリに、祖父は慈しむような目を向け頭を撫でた。
「さぁ、夕食にしようか。今日はなにを作ったのかな?」
本を貸してくれたのだから怒っていない。怒ったにしても許された、はずだった。
なのに、そのおどけるような口調はどこか固かった。
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