佐伯京によるあとがき

「さて、ここまで物語を読み終えた人には違和感が残ると思う。各話で視点を変えながらの一人称でストーリーが綴られてきたけれど、春暢以外の明や冬川といった各視点はすべて『夕陽の世界』によってシミュレーションされたものなのだろうか。


 その答えは『YES』となるのだが、すべてが夕陽の制御下にあったとは考えにくい。私の考えでは、無意識下の世界を現実と照合して調整する機能が夕陽の真の才能だったのではないかなと思うんだ。つまり、誰しも心の底の自分でも触れられない部分に世界が用意されているが、その世界を自動で組み替える仕組みが夕陽の心のなかには用意されていた。その機能を使って、無意識下の世界を現実世界のシミュレーターに作り変えていたんだ。


 さて、その他の物語上の違和感でいうと『夕陽の世界』内での配役や、『心象共感覚』『パイドロスのナイフ』《狼の形而上学》といった現実には存在し得ない能力、また聞き馴染みのない語り口というのもあったと思う。特に佐伯京の存在は異質なものに感じた人も多いかもしれないから、ここで俺と春暢との間で過去に改めて何があったのか語っておいてもいいんじゃないかと思うんだ。


 このストーリーは本編に語られることなく端折られ織り込まれているのだが、佐伯京子と俺はそもそも意思疎通をすることが最初はできなかったんだ。


 京子は小学生の頃に片親の親父が事故に遭い、誰にも頼ることもできず親の介護をする期間が生まれてしまった。そのストレスで佐伯京という交代人格を生み出し、何ものにも動じず冷徹に行動できる俺が介護役を引き取っていた。この時点では単に感情を分離して動ける自分だったのかもしれないが、京子が現実を俺とともに引き離し始めてからは自己の同一化ができなくなった。


 その関係が表に出始めたのが、京子が中学校に上がってからのことだ。京子の奴はドジなことに入学式中にお花摘みに行った帰りに道に迷い、早々に上級生の不良生徒に絡まれだした。過度なストレスがかかった京子と俺が交代し、周りの生徒を武力制圧したのが大きな間違いだったんだ。それ以降佐伯京子は学校の裏番として数えられてしまい、不良達に尊敬され、あるいは目の敵にされる日々が始まった。そのような現実と接近する度に京子は記憶を失い俺と交代する、交代グセがつくようになってしまったんだよな。


 京子にとっての悩みは、学校へ行って帰宅するまでの間の記憶が頻繁に抜け落ちることだった。酷い時はまるで記憶がない。その代わり、授業のノートはきっちりと取ってあるんだ。そう、俺がちゃんと授業を聞いてやっていたからな。そこに京子は自分宛てのメッセージを残す。学校へ行っている間の、記憶がない時間帯の自分自身と文通しようとしたんだ。


 そして俺は京子からの文通相手に選ばれて困っている時期だった。鬱陶しい不良達も俺の周囲から消える様子もなく、身体を返して安全に京子に学校生活を送ってもらうことは難しくなっていたからな。そこへ春暢と夏芽恵が現れた。恵は京子と幼馴染の関係だったが、俺はそのことを知らない。京子の変貌ぶりに当惑して、なんとか京子を普通の学生の道へ戻したいと思った恵が春野春暢を連れて俺に急接近したんだ。


 春暢は俺のことをひと目みるや、京子とは別人だと看破した。曰く、心象風景に自分自身がいるのはおかしい。俺の心象風景のなかには、囚われの京子が居たんだ。だから俺のことを京子の交代人格だと見抜いた。


 そこからは事態の沈静化のために春暢は動いてくれた。俺は当代の生徒会長となって表舞台に立ち、ある意味では以前より目立つ存在となったが、京子にとってストレスとなる要素を学校から徹底排除した。一方で、京子との文通を始めるようになった。俺たちに最も必要だったのは対話だったんだ。こうした経緯で、俺と京子は接近し、ついには解離症状の壁を乗り越えてコミュニケーションを取ることができた。


 春暢は間接的にしか関与していないというが、こうした経緯で俺と京子にとっては彼は恩人なんだ。


 そんな春暢だが、得意技が『共感』、それを通り越して相手の心象イメージを強く共感する『心象共感覚』というものがあった。彼のなかでは優しいことが人生のテーマらしく、優しさとは何かと問うたときに、共感することだと思ったらしい。これは明らかに一つの歪んだ思想なのだが、彼はそれを突き詰めようと思った。優しさの象徴である『共感』によって、幸福に到れるのではないかと思ったんだ。なぜそう思ったのかというのは直感としか言いようがない。例えばライブ会場のグルーヴ感、人が感動するときのカタルシス、あるいは心の許せる間柄での団らんの風景、そういったものも共感を基盤にしていると彼は思っていた。確かに幸福がそうした情念的なものであるなら、共感は重要な要素だろう。だが、幸福をどう定義するのかは難しい話だ。


 彼がそのような思想を持っているからこそ共感力を研ぎ澄ませて『心象共感覚』へと昇華させたのか、そのような見え方が元からあったからそう考えるようになったのか、そもそも独立した出来事なのかは分からない。だが彼は彼なりに共感という方法で幸福に到る道を確立しようとしたんだ。


 春暢は英雄か宗教家にでもなろうとしていたのだろうか。ただ日頃から身近に接してきた俺からすると、彼にとっての共感や『心象共感覚』の可能性に賭ける気持ちは、即物的な利益を越えて、やはり彼にとっての存在の探求とか、強迫的なものに近かったと思う。だからこそ『共感』と『幸福』の間に障害を感じた時は大きく揺らいでしまう。


 物語は春暢が『共感』に対して挫折するシーンから始まる。ここで彼は『共感』だけでは決定的に何かが足りないと思い、街をさまよい歩く。そんな折に冬川羽佐根に出会う。


 そうだ、羽佐根のナイフは『理性』の象徴だった。それは科学であり橋を掛けるための建材だった。挫折した春暢は今度は『共感』と『理性』によって『幸福』に到れるのではないかと自身の理論を軌道修正して歩みだすことにしたんだ。


 結果はどうだったのだろうか。


 『夕陽の世界』は崩壊し、本来なら夕陽が死ぬ世界に帰ってくる筈だった。だが実際には夕陽は明の手によって救われている。


 俺は春暢から事の顛末を聞いたあとでこう解釈したんだ。


 心象風景の内部から理性のナイフによって元の世界に脱出する際に、数多ある可能性のなかから自由に、どの世界に戻るかを選択することができる。


 言うなれば春暢は『夕陽の世界』を踏み台にして、いまの世界を選んだのではないか。世界を選択する、目の前の事象を変えるとはどういうことなのだろう。例えば二択の選択肢があり、どちらかを自分の意思で選んだとしても、それはそうなるように確率的に決められているとされるのが決定論である。そして二つの選択肢のうちどちらも不幸に到るならば、必定的に不幸に到るのである。だが春暢は無限の可能性のなかから、幸福な道を選びたかった。そうなる可能性もある、というのも決定論であるから、なんとか抜け道を探したくてもがいていたのだ。もしその可能性がゼロであっても、ゼロをイチにする方法があれば、決定論は破れるはずだ、と。


 春暢は今回、既存の世界に浸かり切るほどの没我と、その世界を切り裂き移行するほどのエネルギーによって少なくとも以前より幸福な世界を選択することができた。それで春暢は報われたのだろうか、納得して満足したのだろうか。


……俺は、幸福論を考える奴はみんな不幸になると思ってる。


 そんなの考えないほうが自分にとっても、周囲にとっても良いに決まっている。


 でもそれが、そいつの宿命であるならば、考えないわけにはいかないんだろう。


 春暢のことは今後もそういう観点で見守っていきたいと思っている。いつか、分かれたらいいよなって、友人だけど他人事だからこそ。心底そう思うんだ」















  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る