11 シナスタ
ここ最近の頭の重さは筆舌に尽くしがたい。苦しい、という表現は嘘をついている感じがして適切ではない。自分がこれまで怠慢をしてきたツケを払っているのだから、そこに苦しいと文句を言うことに正当性も無いように思うのだ。だからこの重さを表現する言葉が見つからなくて、探し歩いている。苔の浮いた沼のように重い体を引きずって、冬の夜気に腐臭が満ちているかのように。
僕は疲れたのだろうか。毎日毎日やるべきことをなして、生活は順風満帆とはいえないまでも、軽快に進んでいくはずだった。それがどうして、こんな思いをしているのだろうか。
口の中に泥臭さが広がる。倒れたところから見上げると、紫色の煙を晴らす銀月が
僕はその光景を美しいとは思わなかった。ただこれが世界のありのままの姿のように感じた。月光は空気の層に拡散して大きな膜を張っている。その膜に対する違和感は、屈折の強いガラス瓶を通して景色を見るように、目と脳の間に特有の鈍さを感じさせた。その鈍さが魔性の魅力なのかもしれなかった。僕はゆっくりと、その華麗なる月影と、現実との間の齟齬を認識し始めていた。僕は床に這いつくばって、夕陽の絵を見上げていたことに気が付いた。
こんな風に人の作業場所で寝転がって、何もかも分からなくなるようなことがあっていいものか。自分が嫌になり、衝動的に周りに当たりたくなる自分を感じた。そんな自分を恥ずかしく思い、この場に誰もいないことが恐ろしくなった。誰かが止めてくれないと、歯止めが利かない感じがする。誰か助けてくれと叫びたくなる、他人に頼らないといけない。だがここには誰もいない。僕だけしか僕を見ていない。
右手にナイフを握っていた。何も切れそうにないパレットナイフだが、金属の確かな重さを感じた。パトランプとか救急車の、サイレンの音が頭の中で回っていた。月が真っ赤に血走っていく。アトリエ中の絵画が溶け出し僕を手招きしている。目の前の、正気を狂わせてくる月の作品だけが、目の前に静止して鎮座している。僕は夕陽の描きあげたばかりのその作品にナイフを突き立て、渇いた油絵の具の月面にぶす、ぶす、と穴を空けていった。空いた穴をナイフで広げ、傷を拡げていった。傷のことを創と呼ぶ。ならばこの人工的なクレーターは僕が夕陽の作品に携わった証拠になる。個展を来月に控えて、月明かりが穴あきの間を透けて抜けていった。一つの
忽ち、目が眩んだ。
「春暢、あなた、何ぼーっとしてるのよ」
右肩に手の温もりが乗っていた。背中には左手が当てられていた。「聞いてんの?」と、再度冬川の小さな声がして、『俺』は、冬川に『後ろから刺された』んだと分かった。
ゆっくりと視線を上げると、こちらを見て青ざめて困惑している様子の星見明と、その隣に両手を足の間に挟んで
「あー失礼。ちょっと発作が起きてしまってね。どこまで話したっけ……いやマジで。こんなときのために彼女を連れてきたんだ。いつでも俺を正気に戻してくれる。ゴホン」
「ちょっと、何折り込み済みたいなことを言ってるのよ。春暢の様子がおかしかったから私は後ろを付いてきただけよ。いつかの意趣返しでね」
少しだけ思い出した。俺は明と夕陽と会話をしていたら、明の様子がおかしくなったのだ。堆積した悩みや苦しみの上から畳み掛けたために、発作となる、そうして感情のエネルギーが膨大となった明の心象風景に飲み込まれてしまっていた。共感とは、同質化だ。俺は明が展開する心象風景なかに入り込んでしまい、明自身になって、現実と心象との区別が付かなくなった。自分が春暢であることすらもあやふやになってしまっていた。その中で俺は明の隣にいる天才少女・真込夕陽の絵をヴァンダリズム、つまり『破壊』しようと試みたけれど、それは俺が明の衝動性に共感したからであって、つまり感情的には明はいつもで夕陽の絵を破壊したいのだ。何のしがらみもない俺が心象風景のなかでそうしたのが証拠で、明はそれを驚異的な精神力で抑えつけているだけだと分かった。明の心象を抱えられるほどの器を俺は持っていないと思う。おどおどして毎日を生きている一見普通っぽい人のなかに、これほどの心象が隠れている。お前は毎日これほどの風景を抱えて生きているじゃないか。そんな人が他にどこにいるのだろう。
そして俺が明の心象風景に囚われて、帰ってこれなくなりそうなときに、これまた俺と同様アトリエに無断で侵入した冬川羽佐根が、俺の背中を『狼の形而上学』《パイドロスのナイフ》でぶすりとやったのだ。冬川の理性の力がひとたび走ると、俺と明の混ざり合っていた世界は正しく分かたれ、俺は俺であって、明は明であるという、当たり前のアイデンティティを思い出すことができた。他人が置かれている状況が、誰かにとって必ず当てはまるわけじゃない。他人の問題のなかに俺を置いて苦しんでそうして分かることがあっても、結局それは俺の想像の産物にすぎない。心象共感覚の限界と、それを伝えるための言葉(理性)がいまここに揃っている。
「それで、話の続きだったよね、春暢君。君は、アトリエに対する嫌がらせは、全部私とアカリの自作自演なんだって言ったね。そう言うに足る証拠とか、根拠を聞かせてよ」
真込夕陽が言う。その綺麗な栗毛は生まれつきなのだと聞いていた。彼女はやはり有名な人で、彼女自身が喧伝したことはないけれど、メディアに取り上げられたことがある天才芸術家という印象はずっと大勢のなかに残っていた。そんな彼女に汚点など無いように思える。天才は自己の作品に対して不都合な態度など何一つ取らないはずだ。
過去というのはどれほどの価値があるのだろう。人の行動原理を語る上で、過去ほど体よく使われてきたものはない。俺は真込夕陽の心象風景を見た。そうして彼女の過去を覗き見た。いや違う、実は知っていたのだ。最初から何もかも、俺は実際にそこに立ち会っていたのだ。俺は昔から、彼女のことを知っていた。オーナーから聞いていたから、知っていた。明を通して、知っていた。
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自分の世界に没頭すると周りの音が消えてしまう。それに気付いたのは、部長が
まだ美術部に入ったばかりの私だったが、ほとんど毎日こんな調子で部長に詰め寄られて、私はおどおどしてしまうのだった。
「まったく羨ましいわ。私のアドバイスも全然聞こえなくて済むんだもの」
どうやら後輩思いなこの人は、私が絵を描いている間もよく作品を覗いては、彼女なりに助言をしてくれていたらしいのだ。だけど私は、そんなことを言われた記憶が全くない。だから、本当に集中して絵を描いているときは、周りの声が聞こえなくなってしまうのだと気付かされた。他人に注意を向けられるほど余裕があって羨ましいなと素直にその頃は思っていた。
ヒグラシの声が夕暮れの美術室にこだまする。夏休みも終わりが近づいていた。
私が画材道具を片付けていると、同級生の古葉さんが私のほうをぼうっと見ていることが分かった。そうだ、彼女も部長に加えてよく私のことを気にかけてくれる人の一人だ。
「えっと、どうしたの古葉さん?」
「あ、あの、えっ、えっと……」
重たそうな黒縁のメガネの奥で、なにか気持ちを伝えたそうな彼女の瞳がぱちぱちと瞬いていた。それから他の部員の誰にも聞こえないくらいの小声で、彼女は話した。
「どうしたら、私も真込さんみたいに上手に絵を描けるかな」
古葉さんは私の水彩キャンバスと私の表情を交互に見た。私は古葉さんの作品に目を落とした。フクロウをモチーフにした木製の古時計が、暖かさと古さ――何十年もの骨董もののような――を感じさせる色味で柔らかく描かれていた。
「上手だよ。ここの冷たいグレーと、茶褐色を上手に使ってるね。人に大事にされてきたんだなっていうのが伝わってくるよ」
「本当?」
古葉さんは信じられない、という風に驚いていた。
「実はね、この時計ね、私が小さい頃にお祖父ちゃんがくれたの。そのときから大事にしてるの」
「そうなの。実際にある時計なのね。素敵なお話ね」
「うん。ありがとう」
「古葉さんはお祖父さんのことが好きなんだね」
「……うん。ほんとはこれを描くか悩んだんだけど」
そういって古葉さんは自分のスケッチブックの中身を見せてくれた。いまの作品に決まるまで、描く対象が定まらず、十数枚ものラフが残されていた。学校の風景を描いたものや、文房具とか身の回りの物を描いたもの、複数の色で感情を表現したような抽象的な絵が多かった。そこには自己表現の衝動のようなものを感じた。でも結局彼女はそれらに自信を持つことができなかったみたいだ。
「真込さんの作品を見ていたら、こんなことをしていちゃだめだなって思って、いまの絵を描き始めたの」
制作途中の私の絵を見て古葉さんがぽつりと言う。私の絵は、頭に浮かんだ幻想の風景のイメージをただ浮かんだままに好きなようにしか描いていないものだ。夢や幼少期のどこかで見たような街角のイメージ。そんな自分の絵が彼女の内省を促したなんて思いもよらず、誰かが私の絵を見て考えてくれることがあるんだということが、新鮮に映った。
「きっとうまくいくよ。古葉さんのこと、応援してる」
その日から私達は友達になり、お互いのことをよく話すようになった。
「ねえ、これって真込さん?」
ある日、美術室で絵を描いていると、部長と先輩たちがやってきて、スマホの画面をこちらに向けて言った。
「前から本当にうまいと思っていたけれど、真込さんは私達とは違う世界の人だったんだね」
その画面に流れている動画を見て私は一瞬息が詰まった。それは十五分程のニュースの特集で、美術教室で絵を描いている一人の小学生を取り上げていた。『天才少女・身体よりも大きなキャンバスに緻密な油絵を描く!?』という煽り文で、絵の具まみれのオーバーオールを着た女子児童がキャスターにインタビューされ、その制作風景が映し出されていた。忘れるわけもない、十歳のときの私の姿だ。
先輩たちはそれを突然私の前に突きつけて、反応を伺っている様子で、薄く笑いを浮かべてすらいた。ただ私が動揺したのは、先輩たちのその行為のせいではなく、スマホの画面を淡々と流れる動画がもうすぐ例の場面を映すからだ。
「どうしてそんな絵が描けるようになったの?」とインタビュアーが聞く。マイクを向けられた私はこう答える。
「――私が絵を描けるのは『神様からの贈り物』《ギフト》なんです。いつから描けるようになったのかはわかりません。気付いたらキャンバスを絵の具で埋めていて、イメージが天から降ってきます。私はそんな神様からの素敵な贈り物をみんなにも分け与えたいと思って絵を描いています」
それから当時描いていた作品のアップが映されながら、ナレーションのモノローグが入る。――彼女は高層階から見下ろした実在の都市の風景を、人が歩いている姿まで鮮明に捉えて描いている。だが彼女は、実際にこのような場所に昇ったことはなく、幼少期に両親と高層タワーの展望台に昇ったことがあるくらいなのだそうだ。また資料を見ながら描いている様子もなく、まさに神様から贈られたような想像力を巡らせて作品を仕上げていく。
その後、美術教室の先生が私を賛嘆する所感を述べ、映像がスタジオに戻り、大人たちが口々に信じられない、驚異的だと言い、ある芸能人が、でもこの先生が描いているんでしょ? と言ってスタジオの笑いを作っていた。
動画はここで終わる。スマホの画面にいくつものお勧め動画のサムネイルが映ったまま停止する。男性アイドルのインタビュー映像、中学生のダンスクリップのまとめ、違法にアップロードされたアニメーション……
この番組が放映されたあと、いくつもの手紙が私のもとに届いた。そのなかの一割にも満たなかっただろうが、執筆した者の怒りを感じさせる内容があった。
努力している人間を愚弄している。神様? そんなものはいない、馬鹿にするな。生まれたときからそんなに絵が描けることを知り、私はいままでの人生のすべてを絵に捧げてきましたが、諦める決心がつきました。あなたが日本をいや世界を代表する芸術家になられることを願っております。
当時の私にとって、そうした言葉はすべて良識のある大人が私に向けて訴えているように思えた。いまならば一部の者の感想程度に捉えあまり真剣に取り合わないこともできるだろうが、当時の私には、人間の嫉妬とか、自己憐憫、所有の概念をうまく理解できていなかった。投書は続き、美術教室には通い続けていたが、人前で絵を描くのは億劫になった。
先輩たちが私の二の句を待っているようだ。何も言葉が浮かばず困っていたら、古葉さんが私の袖を引いた。
「し、小学生のときの真込さんって、天使みたいに可愛らしいんだね~私びっくりしちゃった、栗色の髪が長くて可愛かった~……」
先輩たちが、割って入った形になった古葉さんに白んだ目を向けたが、それを含めた私の反応で、この映像に映っている子供が私であることに確信を持てたから十分満足したようだ。そもそも映像に私の実名が出ているのだから、最後の確認をしたかっただけなのだろう。「天才っているんだね」部長が自嘲気味にそう言った。
そのときである。ちょうど美術室の扉を開けて、耳馴染みのする元気の良い声が飛び込んできた。
「ごめんくださーい! 夕陽いますかー?」
「あ、朝日ちゃん」
ジャージ姿の姉が私を見つけて手を振った。
「夕陽! あんた学校行くときお弁当忘れてたでしょ! だからこの私がランニングがてらに寄ってあげたのさ。中身が全部端に寄ってたらごめんね! 何しろ校庭を30周も大層走ったからさアッハッハッハッハ!」
いい汗を流してハイになっている姉は、美術室の静かだった雰囲気もおかまいなしで、私に弁当を押し付けて、「じゃあまたなー」と風のように去っていった。その勢いで今度こそ完全に白んで、先輩たちはもう自分の作業に戻っていった。お弁当は包みの端が惣菜の出汁でしっとりと
夏の終わりが近づくにつれて、不思議と通りは人の気配がなくなっていた。皆、外に出たくないからだろうか。じっとりと肌を汗ばませるこの暑熱のなかで、白く輝きながらゆらめく街路は、妙に現実感がなく、学校へ向かうための道のりも、本当に辿り着くのかときどき不安になって振り返ったりした。
「夕陽?」立ち漕ぎの自転車で私を追い越した男の子が声を掛けた。
「あ! アカリだ。久しぶりだね。ふんすふんす」
「鼻息荒いの暑いせい?」
夏休みの間中、ずっと引きこもっていたのだろう。一片の日焼けもない生白い少年が自転車を爽やかに駆っていて、私は少し憎い気持ちになった。
「これから部活? 大変だね」
「そうだよ。アカリは何してるの?」
彼は曇りのない瞳で答えた。
「この一ヶ月、一度も家から出なかったらついに母さんに追い出されてね。仕方ないから一人で漫画喫茶に行ってネトゲしようかなと思ってるところ」
「結局廃人なんだね」
「学校まで乗ってく?」
「ううん。大丈夫」
それじゃあと、彼は行ってしまった。久しぶりに幼馴染の姿を見た。中学校に上がってからほとんど話す機会がなく、なんとなく寂しかったり、ただお互い年頃になったのだから、疎遠になるのも当然なのかもしれないと思ったりした。
制作の方は順調に進んでいた。私はこのまま描いていれば間に合う計算だった。一方で古葉さんは随分と苦しんでいそうだった。私の目からは、このまま彼女が時間を掛ければ締め切りまでには間に合いそうに見ているのだが、彼女としては根本のところで納得がいっていないようで、部室にいるときの表情はいつも焦っていたり、疲れていたり、傍から見ていて健康な状態ではなかった。
最近はお昼に誘っても、作業に集中したいからと断られることが増えてきた。
「ごめんね。今日も……もうちょっと描きたいから」
「じゃあ私も描いてるよ。古葉さんが休憩したくなったときでいいから、一緒にご飯食べようね」
「んー……うん」
そんな風な生返事が返ってきて、鈍感な私も流石にしまったと思った。古葉さんは一人になりたいのではないかというところに思い当たったし、何も考えずに連日彼女を誘っていた私の無自覚さに後悔をした。
「ご、ごめん、無理に誘って。古葉さんからしたら迷惑だったよね。古葉さんが決めていいからね」
そう言うと、彼女は私のほうをちらと見た。
「――――いいよね夕陽さんは。絵が上手いから」
そして古葉さんは筆を持つ手が完全に止まってしまった。まるで自分で言った言葉が自分で信じられなかったみたいに、しばらく口をぽかんと開けて空中を見つめたあと、ぽろっと呟いた。
「ごめんね夕陽さん、私お昼は一人で食べるよ」
それから彼女は描き途中のキャンバスを抱えて、部室を出ていこうとした。先輩たちもぽかんと彼女の後ろ姿を見送っていた。絵を抱えて行くところなんて無く、明らかな奇行だった。私も古葉さんの後を追って、教室を飛び出した。
あれだけ晴れていた空が、いつの間にかかき曇りを見せていた。台風の前のような、風の強い不安定な空に変わってきている。胸が締め付けられる寂しさをたたえた曇天が、天上へと逆巻く。美術室は旧い校舎にあって、その屋上はぽつんと静かだ。
「ここ、こんな感じなんだ。私、初めて屋上に上ったよ。古葉さんはよく来るの? 思っていたより簡単に入れるんだね」
まだ古葉さんとの距離が遠くて、私はちょっと大きな声を出さなくては風に遮られてしまいそうだった。
「普段は鍵がかかってるよ」
一方で古葉さんの声は不思議とよく通った。古葉さんはキャンバスをブロックに斜めに立て掛けて置いていた。アンティークなフクロウ時計の作品はほぼ完成しかけていて、まだ生乾きの面に土埃がつきそうではらはらした。
「私いつも朝一番に来て美術室の鍵を開けるでしょ。そのときにここも一緒に開けてるんだ」
そう言われると、確かに古葉さんは時折、お手洗いから長く戻ってこないことあった。そういうときにこの場所に来ているのだろうか。こうして一人になれる屋上に。
「私にも逃げ場所が欲しいの。だって、あんなに暗くて皆がいる部屋にいたら息苦しくなっちゃうでしょ」
私は毎日古葉さんと一緒にお昼を食べたり、お互いの家族や将来の話をしたりして、一番友人のことをよく分かっている気でいたけれど、最も大事なところをきっと分かれていなかったのだろう。古葉さんは私と一緒にいる居心地が――その程度・グラデーションは私には伺い知れないが――苦しかったのだ。
「絵がさ、夕陽さんみたいに上手に描けないんだ」
古葉さんがぽつりと呟いた。その表情は陽の影になって苦しそうだった。
「人と比べちゃだめだよ、古葉さん」
古葉さんの真後ろには手すりがあって、その向こうには大空が広がっている。私はこの光景が少し怖くて、彼女をあまり刺激したくなかった。私はこのまま彼女を残して背後の非常ドアから去るべきなのかもしれない、だが、そうすることによって彼女の存在を無視することになってしまうのではないかという不安もあった。
「ほら、そんな風に言って、そんな風に考えている。夕陽さんはやっぱり私と対等じゃないよね。対等に接してくれていない」
「ごめん。私やっぱり部室に戻るよ。古葉さんも戻ってきて……。でも、私が古葉さんの絵を上手だと思ってるのは本当だからね」
古葉さんは、ぴたりと無表情になった。
「――私は夕陽さんにはなれない。だから私にできることを積み上げるように描いているの。そうしたらどうしても自分の絵が納得いかないの。時には不格好に間違っているし、時には行儀がよくなりすぎてしまう……私なんかの絵はそれでいいのかもしれないけれど、私は嫌なの。私は夕陽さんを見ていると、あなたみたいに自由に絵を描きたくなる。自分の殻を破り続けていけるような……、その果てに人の心を揺さぶることのできる絵を……。でも変わりたくても変われないの! 私にはどうやってもこの殻を破れない! この気持ちが夕陽さんに分かるかなあ!」
「古葉さん……」
――それは、普遍的な悩みに違いなかった。自分の表現が息苦しく思え、変化を求める姿勢と苦悩。古葉さんから見たら私のほうが、ずっと自由な表現をしているように見えているのだろう。だけれど、その悩みは例外なく私にもあった。表現をしている以上、誰にでもあるのだと思う。彼女より少しだけ早く絵画を始めて、少しだけ遠い位置にいるだけだと思う。だけどいまの彼女に必要なのは、同じ目線からの言葉だ。だから私から彼女に言えることはとても限られている。
「古葉さん、あなたは悩んでいるから、いまの古葉さんの絵を描き続けて欲しいの。その姿勢が、私にも勇気を与えてくれている。それが真実だから」
千の言葉より、一枚の絵に価値があると思っているのは、絵描きの傲慢だろうか。私は古葉さんに上から目線で接していて、確かに対等ではないことを痛感していた。少なくとも絵においては。
少しだけ、古葉さんが気を許してくれたように思った。悔しそうに笑っていたからだ。
「……あんまり、夕陽さんと絵の話をしたことがなかったね。二人とも避けていたからなのかな」
「きっとね」
古葉さんが立て掛けたキャンバスを指す。
「どうして屋上までキャンバスを? それ見て私驚いて追いかけちゃったんだよ」
「うん。違う場所で、違う角度で自分の絵を見たくって……。それに……」
古葉さんは言いにくそうにしていた。
「本当はここから絵を投げ捨てようとも思った。でも夕陽さんが止めてくれたね」
「良かった……」
「私、もうちょっと頑張ってみるよ。今年はこの絵を提出するけど、この先ももっとたくさん絵を描いて、夕陽さんに追いつきたい」
「一緒に頑張ろうね、古葉さん」
彼女は自分のキャンバスを懐に抱えた。海の近い学校だ。潮風で傷んでなければいい、二人で美術室に戻ろうと思った。
「夕陽さん、私、一つだけ絶対にあなたに謝らなきゃいけないことがあるの」
古葉さんを待っていた私に、彼女は言った。
「夕陽さん、先輩たちにいじめられているよね。筆を隠されたり、下駄箱に悪口を書いた手紙を入れられていたり……美術室に置いてある作品にだけは幸い手を出されていないけれど……」
「そうだね」
私は肯定の返事をする。
古葉さんが指摘したことは本当だった。あの日、美術室で私の動画が再生されたときから、私は先輩たちから少しずつそういう嫌がらせを受けるようになっていた。妬みや事実無根の陰口をわざと聞こえるように言われたり、水受けに身体を引っ掛けてこぼされたり、そういった長い時間を美術室で過ごす上で看過できない仕打ちをされてきた。私はそれらの行為をことごとく無視して、絵を描き続けてきた。
「私、知ってたの……夕陽さんがいじめられているって、知ってたけれど、何もできなかった……先輩たちが怖くて……ごめん、ごめんなさい……見て見ぬ振りをするなんて同罪だと思う…………どうしても謝りたくて」
「古葉さん、私は気にしてないよ。全然大丈夫だから」
「そんなことないよ。絶対に止める。美術室に戻ったら、私が絶対に止めさせる。あなたのことを守りたいんだ」
そう言ってくれた古葉さんのことが、私には何よりも美しい友人に見えた。その言葉だけでどれだけ嬉しかったか、彼女への透明な熱を伴った気持ちが、私の視界を輝かせた。この思いを古葉さんに、見知らぬ誰かに伝えたくなって、だから私は、絵を描ける人生に感謝する。
「ありがとう。古葉さんは優しいね」
この気持ちと、この一瞬の情景を留めたい。褒められてはにかむような古葉さんの微笑みが、産毛まで光っている。
屋上の砂を巻き上げるような大風が激しく、古葉さんは思わず目を覆った。キャンバスを砂粒から守りたくもあったのだ。そのときの無理な姿勢で古葉さんのキャンバスを掴んだ片手が浮いて、そしてその大判に向かって強風が更に煽った。
あまりにも一瞬のことで、古葉さんの足が屋上の床から一瞬浮いたほどだ。キャンバスが凧のように膨らんだ気がする恐怖で、わあっと声を上げて古葉さんが尻もちをついた。手から離れたキャンバスが屋上の柵を越えて見えなくなってしまった。
「痛…………」
「大丈夫!?」
私は古葉さんに駆け寄った。「立てる?」と訊ねると、頷いて起き上がってくれた。
「私は大丈夫だけど、作品が……」
私が柵から下を覗くと、キャンバスは屋上から落ちて、一つ下の階の屋根に引っかかっていた。もしかしたらここからでも手が届きそうな位置にあったが、柵の隙間から手を伸ばしてみて、流石に無茶が分かった。
でも、朝日ちゃんなら――
私のなかのヒーローなら、こんな障壁なんて軽々と乗り越えてしまうだろう。だが屋上には古葉さんにとってのヒーローしかいない。
「夕陽さん、もういいよ。用務員さんに取ってもらうか、新しく描き直すから。大丈夫、大丈夫…」
こんなときにどうしてか、先輩たちの顔も浮かんだ。屋上に侵入したことが知られてしまえば、先輩たちは私たちを酷く責めるだろう。そんな事件が発覚したら夏のコンクールのために私たちは描いてきたけれど、出展不能になるに違いない。いっそそれはそれでいいのだ。問題はそうなったとき、私はもとより、古葉さんもいじめの対象とされてしまうかもしれないところだ。そうだ、バレてしまったらそうなるかも。でも古葉さんの作品を、こんなところで失うわけにもいかない。ちょっと柵を越えて、縁から手を伸ばせば、確実に手が届く距離に見えるからだ。何も問題がない。
「ちょっとだけ……待っててね、古葉さん。特に……大きな声は出さないで」
私は柵の上に手をかけた。すぐ向こうに床がないと思うと、想像より身体の重みがかかり、柵の枠内に張られた金網全体が揺れた気がした。背後で古葉さんが息を呑んだのが分かる。身体を引き寄せ、金網に足を掛けた。傍から見たら、スカートでするようなことではなく、物凄い格好に違いない。朝日ちゃんと違って、私は下にブルマも履いていないし……なんて暢気な考えもなぜか巡った。
「夕陽さん! やめて、お願い、もういいから!」
私は向こう側にゆっくりと着地した。柵を隔てた向こう側に古葉さんがいる。日常をそちら側に置いてきてしまったような実感がある。頬を切る生暖かい風をねばねばと感じ、空っぽな空間がすぐ真後ろにあることに意識を向けた。
「大丈夫、同じことをして、戻るだけ」
私は右手で金網を握って身体を支えながら、しゃがんで左手をキャンバスのほうへ伸ばした。しっかりと掴んだ。そのままゆっくりと手元へ引き寄せ、古葉さんのほうを向いた。
蒼白な古葉さんがいる。口をぱくぱくさせ、何かを言いたくても声が出ない様子だ。それとも私の聴覚がおかしくなったのだろうか。私は少し口元を歪めて笑ってみせた。大丈夫だと、伝えたくて。柵の上からキャンバスを手渡そうとして、私は当然のことを失念していた。
――――二度目の風が吹いた。
私は馬鹿だ。いつも、こういうところが、抜けているんだ。
それからのことを語ろう。
私が校舎の屋上から転落したことが表沙汰になって、部員は一人ずつ事情聴取を受けた。そうして、屋上への侵入は表沙汰となり、事故の責任を取るために美術部は二ヶ月間の活動停止処分を受けた。この程度で済んだのは、直接関与していない部員も多数いたし、学校側もいじめを背景とした悪質な事件というよりは鍵の管理不行き届きを原因とした転落事故として処理したかったためだ。また、夏のコンクールへの出展も許可が降りていた。古葉さんは、結局作品を何日も夜を徹して描き直して、同じモチーフだが、絵のタッチの異なるものを完成させ提出したらしい。古葉さん曰く、提出することが大事だと感じた、だそうだ。
私は幸い左腕の骨折と右足のひび、三週間の入院としばらくの松葉杖生活だけで済んだ。記憶が定かではないのだが、植木のなかに頭から突っ込んだらしい。意識を失って搬送され、私が目を覚ますまで朝日ちゃんがわんわん泣いていたそうだ。姉をそんなにも悲しませてしまったことが、申し訳なく思う。朝日ちゃんは『夕陽が死ぬなら私も死ぬ!』という謎の遺書を書いていたらしい。それは遺書ではない気もする、声明文?
そして私は美術部を辞めて、絵を描く環境を変えることにした。あんなふうにいじめを受けてまで、『絵画自体を辞める』という選択が浮かばなかったのは、一生絵を描き続けたいと思っているからなのだろう。それは、私が世の中に向けて何かできることがあるとしたら、絵をおいて他はないと思っているからだ。私は、昔メディアに取り上げられたときに通っていた、例の絵画教室へ、放課後は必ず行くようになった。そこで私は、本来やりたかった油絵を再開した。
そうして中学校を卒業する前になった頃だろうか。度々絵画教室に顔を見せていた今のオーナーが、私にアトリエを提供したいと申し出てくれたのは。もちろん私一人で決められる話ではなかったけれど、私の両親を交えての話し合いの末、私はプロの芸術家として創作活動を始めることとなった。
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「そう、それが私のここまでの歩み。春暢くんが言ってくれた通り」
「君のオーナーと俺の祖父が仲良くて、見かける機会があったんだ。それ以上に真込夕陽と星見明、君たちのこともよく知っていたよ。俺たちは同じ中学校出身だったんだから」
俺はリラックスしてこちらを眺めている真込夕陽を見ていた。相変わらず、彼女だけは何を考えているのかが分からなかった。
「俺は、『心象共感覚』の持ち主で、人の心象風景をイメージとして覗くことができるんだ。相手の心象風景を手に触れるように感じ、そして相手の心象に共感することができる。そこから俺は普通なら知るよしもないはずの情報を知ってしまうことがある。明の気持ちとか、オーナーが君にかけている期待とか、古葉さんがあのときどんなに追い詰められていたのか、なんてことを。俺は君の関係者の心象風景に触れ続けているうちに、パズルのピースが埋まっていくように、真込夕陽という天才少女の過去も分かってきたんだ」
「春暢くんの前では秘密なんて存在しないってことね。あなたなら現代社会をきっと壊滅させられると思うよ」
「そうだったらいいよな。俺自身この異能をどんなことに活かしたらいいか分からないんだよ。まあそれはいいんだ。一つだけ分からないことがあったんだ。俺はなぜ、君のことを直接見ても君のことがよく分からないのか、知りたかったんだ」
俺はアトリエの屑籠から、くしゃくしゃに丸められた紙を引っ張り出して、中を広げた。そこには真込夕陽を中傷する言葉、彼女と明の関係を揶揄する言葉などが書かれていた。
「こういったいまも続いている嫌がらせを、俺は明と夕陽がお互いにやり合っているんだと思っていたよ。だから、『君と明の自作自演』と言ったんだ。そうやって人と一緒に創作をすることに挫折した過去を再現して、自分たちでそれを解決することで、過去を乗り越えようとしていたんじゃないかって思ったんだ。でもそれは捻じ曲がった互助関係だし、本当に君たちがそんなことをするのか? って思った。そもそもよく考えたら明がそんなことをするわけがないよな」
背後で冬川が息を呑んだ。それは深い深い、絶望の音だった。彼女は直感的に気付いてしまったのかもしれない、俺がこれから言おうとしていることは、とてもやるせない。
「これらのアトリエでの嫌がらせは、誰かがやったことじゃない。夕陽でも明でもない。『誰も』やってないんじゃないか? って」
俺は再び手のなかで紙を握りつぶした。そこには確かに質量がある。くしゃくしゃに丸まった紙の震えた重なりが質感を伴って視える。だがこの世界において――もはや物証は事実足り得なくなっていたのだ。
「この世界はすべて真込夕陽の『心象風景』だ。このいじめの痕跡も、アトリエも、全部――――星見明も、冬川羽佐根も、佐伯京子も京も、夏芽恵も、真込朝日も…………俺の親友は全部全部…………」
俺は悔しい。すべてが一瞬の夢、高校時代の思い出は、俺の生きてきた過程は、親友たちと作った思い出は、幻想だった。
「完全なる現実世界のシミュレーター。それが君の才能『夕陽の世界』なんだ」
明が困惑して、ここにいる人たちの顔を交互に見回している。冬川は口を結び、決然と夕陽を見据えている。真込夕陽は相変わらず
「そうだとしたら、ここには私と春暢君しかいないんだね」
「そうだとしたらじゃない、それが真実なんだ。俺は真実だけを見続けるよ。そう覚悟して来たんだ」
「そういうことか。春暢君は、現実世界でうっかり『私の世界』を覗いちゃったんだ。そうして、ウサギ穴に落ちたアリスのごとく、二度と戻れなくなっちゃった。いまあなたにとっての真実は、この世界なんじゃなくて?」
ああ、夕陽が指摘したとおりなのかもしれない。羽佐根のナイフがこんなにも物質的に見えるのも、彼女が切りつけた人間が記憶を失ったのも、すべてがありえないことであるのと同時に、この世界では実在する真理なのだ。この世界では精神こそが優位で、羽佐根の理性が形を取ったものがナイフだ。俺は夕陽の心のなかで様々な人に出会い、夕陽によって精巧に創られた心象風景を覗き、そうして作り物の人間を理解した。一つ信頼できるのは、夕陽が天才だということだ。この世界は精神で出来ており、その精神は現実からのコピーならば、そこには真実が含まれている。
「安心してよ春暢くん。私の心の世界は、この世界と溶け合ってる。無意識のなかで皆が生きていて、私はそれを素描のように描くことができるだけ。いままで気付かなかったくらいだから、住むのに問題はないんじゃないかなあ?」
姿見に俺が映っている。例えるならいまの俺は鏡の向こう側の俺だ。鏡のなかという世界から出る手段を持たない、虚像の存在なのだ。鏡の中身が黒く染まり、俺はどこまでも落ちてゆく。この世界のど真ん中である『アトリエ』で異議を突き立てたことで、夕陽を中心に世界は物質的に崩壊を来たし、俺も、明も、冬川も奈落へと滑り落ちていく。あの輝かしい世界の色彩が
「春暢。あなたはどうしたい?」
崩れゆくキャンバスの断片と共に落ちながら、ここまで一緒に着いてきてくれた冬川が言う。
「私、あなたに出会って、一つの悩みが晴れたわ。自分の得意なことも分かった。自分がどういうことをしてきたのか、一緒に悩んで、ぶつかって、助けてくれた。あなたがいなかったら、私、このナイフの使い方なんて分からなかったと思うよ」
冬川がナイフをしっかりと握っている。共に落ちていく彼女を、俺は初雪のようで綺麗だと思った。
「あなたなら、元の世界でも皆を救ってくれるよね」
「うん。俺も、君に会えて良かった。心象風景と自分を切り離すことができた。そのナイフのお陰だ」
「京は『狼の形而上学(パイドロスのナイフ)』って名付けてた。悔しいけどいまはその名の通りだと思っちゃうわ。すべて形而上の一人語り。でもそんなアルファの姿が格好いいのよね」
悲しいのは夕陽だった。彼女だけが、この世界で唯一、特異点的な存在で、自覚するほど孤独な少女だった。
「夕陽があんな風になってしまったのは。俺が彼女の世界に入ってしまったのは。俺が中学校の屋上から転落する真込夕陽を目撃してしまったからなんだ。そう、あのとき彼女は『夕陽の世界』を心のなかで早回しして、高校生になった俺たち、そしてその先の未来や希望をシミュレーションしたんだ」
これで冬川と話すのも最後になってしまうだろう。いつの間にか彼女とは、互いの心が繋がっているかのような、不思議な間柄となっていた。
「冬川、いまお前を必要としている人間がここにいるぜ。いいか、この世界から元に戻ってしまったら、夕陽は屋上から『転落死』するんだ。この世界は古葉という子の作品を夕陽が拾い上げようとして、屋上で突風に吹かれたシーンから始まっている。これは夕陽の心が最後に見せる走馬灯のような……だが走馬灯は過去の光景だが、夕陽の場合は刹那の瞬間を未来の希望に向かって展開する心象風景なんだ。夕陽は自分の心の中に世界を作って、そこで生きようとしている。どちらにせよ、元の世界から逃れようとしているんだよ」
そして、夕陽のシミュレーションはどうしようもなく完全だと俺は信じている。実際に夕陽がもし生きていたならば、絵画教室に戻り、オーナーと出会い、本当にアトリエを手に入れるかもしれない。そうなりうるほどの才能は既にこの世界の再現度からも感じられる。だがこの世界を壊したら夕陽が死ぬ。そんな現実に俺は戻ることになるんだろう。これほどの未来への期待と、輝かしいほどの希望。そのすべてを受け止める覚悟を俺はしなければならないのだ。
「冬川! 俺は結局何もできなかった! 何のためにここまで来たんだろう! 共感なんかじゃ誰も救えなかったんだ!」
冬川は、情けない俺をたしなめるように笑っていた。
「――春暢、そっちの世界に私のナイフを持っていってよ。私のナイフは理性の力。それは数多ある『可能性を選び取る』力なんだって、気付いたの」
だから、これでお別れ。
「バイバイ、春暢」
冬川が真っ黒な空間に逆手でナイフを突き立てた。一撃目で世界が固定され幻灯機のごとき回転と崩壊が止まる。夕陽と、明と、俺と、冬川がいる元のアトリエが目の前に固定され繋ぎ止められた。これが現実の同定、正しく現実を認識することだ。冬川のナイフの突き刺さった空間には、アトリエを引き裂く黒々としたヒビが入っていることだけが異様だった。二撃目で冬川はアトリエを引き裂いた。その切れ端は大きく口を開け、新しい異質な空間が見えていた。それは俺が帰るべき元の世界だった。
冬川は世界を引き裂いていった。夢と現が混じり合って、幻想と真実が入り乱れて、混乱している世界を、正しく領域分けをしていった。あるべきものが、あるべき場所に。美しく数学的な形で、世界を切り分けていく。――四色問題。冬川はこの世界においては独自の方法でこの問題を解いてしまったのだろう。重なり合って出口が見えなくなっていた世界を、混沌は混沌を生成する記号として、現実とそれ以外に切り分け、実に見事に答えを導いた。
俺は冬川が示してくれた道を、まっすぐ歩いて帰っていった。
――――――――
それは本当に偶然だった。朝日から、夕陽が最近元気が無いことを聞いていて、そして、もしかしたらいじめられているのかもしれないと、そんな兆候を目にしたと聞いていた。嫌な予感というやつだ。僕は朝日のそういう直感がかなりの確率で的中することを昔から知っている。
僕は夕陽と久しぶりに出会って、目の下の隈と、気取らせないようにしていたけれど怯えたような表情に胸が痛んだ。夕陽と別れてもその顔が頭から離れず、結局学校へとUターンしてしまった。そんな折に、屋上に夕陽と、もう一人、キャンバスを抱えている美術部員を見つけたのだ。
強風が吹いた。突き上げるような風にキャンバスを煽られ、柵の向こうで夕陽の身体が大きく揺らいで、地を離れた。
「夕陽…………もう二度と、こんな危ないところへ昇らないでくれよ……」
冷え切った小さな手を、痛いくらいにしっかりと握って、僕はこの世界から唐突に去っていこうとしていた最愛の幼馴染の命を、この腕に繋いだ。
柵の内側で珍しくも泣きじゃくってしまった夕陽をなだめながら、僕はこの荒天を見上げる。
本日は快晴なり。星見明は、人生で一番の偉業を成し遂げしや。本日は最高の快晴なり。
――――――――
母を、刺してしまった。動転して家を飛び出した。私はいまどこにいるのか、判然としない。あれからどうなったのか。慌てて戻ると、母は玄関前でぼうっと息をして立っていたのだ。恐ろしくてまた逃げ出した。記憶がしっかりとしていなかった。
冬の深更に、一人で出歩くのは初めてだった。突然、背後に人の気配を感じて、私は振り向く。
「誰!?」
鋭く詰問する。暗闇から現れたのは、私と同じ年頃の男の子だった。
彼は敵意は無いという風に、手を振って、妙に落ち着いていた。
「冬川、母親を刺してどこへ行くのさ。家出までする必要はないんじゃない? 少なくともこの先二週間もさ」
彼は私の秘密を一瞬の猶予も与えず
「冬川。俺と一緒に、もう一度お母さんを見に行こう」
そうだ――――その時から彼はどんなときでも変わらず、私に手を差し伸べてくれていた。
幸福のシナスタジア 完
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