10 ナイフの切欠

 腹部に埋まる切先、持ち手から伝わる肉の蠕動ぜんどうを、私ははっきりと覚えている。ゆるくもあり、噛みつかれたかのように固くもあるナイフの柄の沈み具合。硬直してしまった手指が凶器をゆっくりと引き抜いていく。頭の奥で、『刺してしまった』という思考が痛みとなって弾け飛ぶ。


 母が許せなかった。同時に、何が許せないのかが分からなくなった。私は、母親との間の『関係性』をナイフで切り離してしまったのだ気付いたのは後々の話だ。痛みを取り出そうとして自分の身体にメスを入れ続けるうちに、いつしか痛みは奥へ奥へと埋まってしまい取り戻せなくなった。


 いまでは当時の怒り、その理由自体も思い出せないのだ。


「そんなに暗い顔をするなよ」


 少し後ろから春暢の声がした。気付けば私は無言で春暢と京と一緒に歩いていたようだ。


「悩みだって一つの感情だから、時間が解決してくれないなら本人が忘れないように努力しているんだ。まぁ言い方を変えるなら、お前は十分に頑張っていたんだよ」


 いつものごとく気楽な調子で彼は何の解決にもならないことを言った。私が固執してきたものは現に目の前にあって、これまで変えることはできなかった。だが見苦しくも向き合い続けてきたこれまでの時間を不意に誰かに肯定されると、いままで一人で歩いているつもりだったのを指摘されたような情けなさがある。それは嫌な気持ちではなかった。


「あれだけ話して疲れたんじゃないか?」


 京が珍しく心配げに声をかけてきた。


「私なら大丈夫。いま、私のお母さんの家に向かっているのよね」


「おいおい、とうとう自分の家路まで記憶を切り離したか? そうだよ、しかし今日は寒いな」


 春暢がコートの前を合わせた。やがてあのとき春暢と初めて話した場所、街灯に照らされた私の家が見えてくる。リビングが明るくなっており、母が帰宅していることが分かる。家のなかの気配が動いた気がした。


「冬川――あのときお母さんは、『どちらさま?』と尋ねたんだよな。それ以来、会って話さなかったのか?」


「……正直に言うけれど、ここまで来ることはあっても、お母さんが玄関から出てきそうになったら、暗がりに隠れて見つからないようにしていたわ。もう一度同じことを言われるのが怖くて……玄関を叩けなかった」


「今日は呼び鈴を鳴らそう。お母さんに会えばもうそれで終わる。最初からそれだけの話だったんだ」


 春暢が私の背中を押そうとしていた。私がいつもこの場所から家の玄関を見つめていたのは、ずっと責任を感じていたからだった。という罪と向き合うためだ。だけどそれ以上に踏み込めなかったのは、その責任を背負って生きる覚悟がなかったからだと思う。一人ではできなかったことでも、誰かが見ているだけで少し違う。震えているけれど、左手は玄関の呼び鈴に向かっていた。


 ベルの音が家のなかを寂しく響く。古く甘さのあるチャイム。息をつめたように家のなかの気配が一瞬消え、それから静かに玄関へ向かう足どりが聞こえた。夕闇が照明に散らされて、私と、背後に控える春暢と京の姿を照らし出した。


 ドアが静かに開いて、隙間から母が現れる。目があって、母は痩せて疲労が滲んでいるように見えた。


「……あの、どちらさまですか?」


 私のことをしんと見据えて母が言う。あのとき私が聞いた言葉は嘘じゃなかった。再び聞いたその言葉に頭がくらくらして、絶望とはこうやって目の前を覆うようにやってくるのだと思った。私は口を開けたが、喉からは何も出てこない。


「冬川」


 春暢が何か言っている。


「――――冬川、気付いているか? お前はいままで一度も、ここで呼びかけていないんだ」


 握っていた手のひらからナイフが地面に滑り落ちて、私と春暢にしか聞こえない刀身が欠ける音がする。それは光が滑り込んでくるような音色だった。


 そうだ――


「――お母さん」


 私は何かを思い出しかけていた。


「私は、あなたの娘です」


 それは決して良い思い出などではなかった。いや、いくつもの光彩だった。いつもご飯を作ってくれるお母さん。昔の父と不仲で言い争いをしていたお母さん。私の手を引いて家を出ていったお母さん。そうした追憶の先に、私とも喧嘩になった母がいた。なぜ私は彼女の不幸を横目にして、彼女を救ってやろうとしなかったのだろう。それどころか、私は争いの最中、彼女を酷く、口汚く罵った。


『黙れババア! 私はお前のもとに生まれてきたくもなかったんだ! 私をこんなふうに育てやがって!』


「お母さん、ごめんなさい。私は謝りたかったんです。あんなことは言うべきじゃなかった。あんなの、全然言ってはいけない言葉だった。お母さんの元に、もう一度戻ってこようと思いました。もう戻ってきちゃだめですか?」


 きっとこういうものをトラウマのフラッシュバックというんだろう。胸の奥が痛くなって、母の顔が滲んでよく見えない。自分のまぶたが熱くて、一番聞かせなければいけない本人に言葉を差し出すことに震えが止まらない


「……羽佐根……なの?」


 頭上から、懐かしい母の声が降ってくる。


「私はもう、あなたの顔がよく分からなくなってしまったの。叔父さんから聞いていないの?」


 母が私の名を呼んだ。そのことに気を取られて、その後の言葉の意味がよくわからなかった。


「あなたが家を飛び出したあと、私はすぐに病院に運ばれたの。目が覚めたら、人の顔を見ても名前が浮かばなくなってしまった。『相貌失認』と言われたわ。あなたが弟のもとで暮らしているのは知っていたけれど、こうなってしまった私と暮らせるか、よく考えてほしいの」


 何を言っているのか分からない。何で誰も本当のことを語ってくれなかったのだろう。私一人が、ずっと妄想の世界に遊んでいて、真実から遠く離れたところにいたのだ。


「その様子だと、初めて聞いたみたいね。……だったら、今日のところは帰ったほうがいいわ。羽佐根にはゆっくり考えて欲しいの。こういうことには、時間を使って向き合って欲しい」


 私は打ちのめされた気持ちだった。『相貌失認』……顔を見てもそれが誰だか認識できない脳の病気だということは何となく知っている。だから、私の顔を見ても『どちら様?』と母は尋ねた。なぜ母はそうなってしまったのか。それは母を刺した私のせいなのではないか。一度家に戻ってきたときに、真っ黒になって玄関口でぼんやりと立っていた母は、既にその病気が発症していたのだろうか。それとも誰かが嘘をついているのか。

 だが、何かが変わった感覚もあった。過去を引きずってきた暗さが開け、一歩だけ進むことができたのだ。


「またお休みの日に、遊びに来なさい」


「うん……お母さん、いままでごめんなさい。酷いことを言ったから」


「羽佐根、それは私のほうなのよ……今日はもう遅いわ。おやすみなさい」


 おやすみなさい、と私が返すと、母はゆっくりとドアを閉めた。まだ夜中でもないが、これ以上話すことはできないと私のほうでも痛感していた。凍っていた時間のような何かが溶け出して、新しい熱のある問題に触れた手応えが、私の底のほうに残る。


「公園まで、少し歩かないか? 説明したいこともあるんだ」


 そう春暢が切り出した。ドアの向こうの気配を、皆が感じ取っていた。


 誰も話し始めないで公園に着いた。おもむろに春暢が口を開いた。


「突然の来訪だったから、もしかしたらお母さんのほうが準備ができていなかったのかもしれない。まだ時間をかけて療養しなければいけないだろうから」


 京が気を利かせて敷地内の自販機で三人分の缶コーヒーを買ってきてくれた。懐かしい気がした私はそれをブルゾンのポケットに入れてぬくんだ。


「冬川とお母さんの喧嘩は、確かに行き過ぎだった。原因に対して結果のほうが大きすぎた。冬川はお母さんを深く傷つけたし、お母さんは冬川の首を締めた。詳しく思い出したくもないと思う。ごめんな。けれども、その後のことをもう少し話させてくれ」


 春暢はベンチに座った。私にはいまの私より彼のほうが苦しそうに見えた。


「お母さんはそのことを冬川以上に悔いていたんだ。俺は買い物へ行くあの人の姿を街中で見たよ」


 彼なりに、ここ数日でそのことを調べていたのだろうか。そして彼の調べ方とは、人を見ることだった。


「前にも言ったけれど、俺は人の心象風景が見えるんだ。心象風景っていうのは、その人が人生のなかで形作っていく心のなかのイメージで、その人の経験とか、性格とか、強い思いが反映されるんだ。冬川のお母さんは、過去に親に手を挙げられたことのある人の心の歪み方をしていた。そんなの分かるかよって思うかもしれないけれど、俺は何人もの心象風景を見てきて、同種の経験をした人は似た心象風景のパターンを持つことに気づいたんだ。それで、自分なりには、あの人のことをそう理解した。同時にあの人自身のなかに、自分の娘を強く守りたいという気持ちもあったんだ。自分の子供には絶対に手を挙げないという誓いは、天使に守られた聖なる檻のイメージをとっていた。そこに舞っていたのは天使の。彼女は二度と繰り返さないようにと思っていたんだ。しかし、冬川と喧嘩し、ついには手を挙げてしまい、自分の親と同じ過ちを辿ってしまった。その信念に背いたことに強い後悔や自己不信感を覚えたお母さんは、冬川の首を絞めたのと同じように、自分の首を絞めようとしたんだ。あまりに自罰的に」


 暗い玄関に、ぼうっと立っていた母親の姿が見えた。あれは首を吊ったお母さんの姿だったのだとしたら。まさか、そんな。


「冬川が家を出ていき、二度目に家に戻り、そうして母親の様子に驚いて飛び出したときに、家のドアには鍵なんてかける余裕がなかったわけだ」


 京が先に理解したらしく、話を引き取って語った。


「そうして喧嘩の物音が静まった頃に、隣人が不審に思い、冬川の家を訪問する。そこで、玄関で首を吊っているお母さんが発見され、救出された。発見が早かったため幸いにも一命はとりとめたが、脳に後遺症を患った。それが相貌失認だったということになる。てっきり失明だと思っていたんだがな」


 春暢が話を締めくくった。


「それから冬川は叔父さんの家に引き取られて生活するようになったけれど、叔父さんも、その話を切り出すことができなかったみたいだ。そのためには発端から始まった自殺未遂の話をしなければいけないから」


 こんなにも大きな問題がのしかかったとき、理性のナイフはとてもちっぽけで無力なものに感じた。それでも何も無いより心強かった。砕けた筈が、いつの間にか私の手元に戻っていた白いナイフは綺麗に復活していて、愛しくも小ずるくも見えた。また何かに悩み当惑したら、私はこのナイフに頼るだろう。そのときはいたずらに自分の身に刃を向けるのではなく、正しく問題に向かって振り下ろそう。


「まだ考えることは多いけれど、私、今日一日で何か変われた気がするわ。これまでの長い独り歩きが終わった気がする……。だから二人には感謝しているの。二人とも歯に衣着せぬというか、色々と強引で無茶苦茶だったから、何度も信じるの諦めかけたけどね」


 結局この二人がいなければ、真実を知るのはもっと遅くなっていた。それに、一人で抱えて、どうしようもなくなっていただろう。今は少しだけ違う。


「ああ! いつでも相談してくれよ。京に」


「私にか? あれだけ今日の事件解決に自信を持っていたじゃないか」


 京が呆れ顔をしていた。


「心象風景が分かってもできることなんてたかが知れてるんだよ。それを痛感する毎日さ。一般的な解決は京のほうが頼れるだろ? そろそろ法律的な相談も受け付けられるんじゃないか? ガリ勉だし」


「確かに法学も齧ってはいるが俺は京子に時間を捧げたいんだ。冬川については最後までお前が責任を持てよ。お前が拾ってきたんだから」


 二人で揉め始めているのが少し可笑しい。春暢が片眉を上げた。


「冬川。いまみたいに普通に笑える日が来るよ。きっともうすぐ――」


 春暢は爽やかに言った。私にもそんな日が来るだろうか。


「明けない夜は無いってね」


 京はそういえば演劇部だった。舞台役者みたいにきざなセリフが似合う、いや、それは京子のことか。


 おかしな友人をもったものだと、私は笑った。

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