09 PM

 雨合羽が肌に貼り付く不快感のため、雨天を喜ぶ学生はいないのではないか。こんな大風おおかぜのなかでも、僕はどうしてか学校に行こうとしている。だがそれは諦めてしまってもいい筈だった。なぜならこれはどう見ても暴風なのだから。学校が見えてくると、びしょ濡れになって身体を煽られながらも担任の教師が手を振っていた。傘も持たない彼が僕の進行を引き止めると、「台風のなか学校なんてやっているわけないだろう、馬鹿野郎、おたんこなす」と、家に帰るよう諭された。


 帰る道すがらアトリエに寄る。マンションのエレベーターで、最上階に行く途中に扉が開くと見覚えのある顔が入ってくる。


「おっす、今から暇か?」


 制服姿でブレザーのポケットにぶっきらぼうに手を突っ込んだ朝日はねずみの僕と、目的階の点灯とを交互に見ながら言う。


「残念ながらこのエレベーターは直接アトリエには向かわないんだ。裏ルートに入らないと、アカリが本当に行きたいところには行けないようになってる。見ろ」


 アトリエがある筈の最上階でエレベーターは止まり、静かに扉が開くと、見覚えのある僕の家の玄関ドアが見えた。アトリエのあるマンションと、僕の住んでいるマンションは自転車で15分ほどの距離なのに、何かの力で繋がってしまったようだった。だが結局のところ帰れるならと思い、出口へ足を踏み出そうとすると、朝日に袖口を強く引っぱられてよろめいた。


「帰っちゃうのか? あたしを置いて。せっかく貴重な自由時間をアカリと過ごそうと思ったのに」


「ならアトリエにはどうやって行けばいいんだよ。僕の自由時間だって貴重なんだ」


「……先にこっちだ」


 と朝日は四階のボタンを押した。僕らは箱の中の静かな浮遊感を共有しながら、再びドアが開くのを待った。


 開いた先にはラーメン屋があった。エレベータ内から降りると直ぐに店内で、立ち食い飯屋のような狭さで、赤色のカウンターからは小汚い厨房が見えたが、何故かそこにこれぞ中華店というような隠れた名店風の“味”を感じた。


「とりあえず今は腹ごなしだ。大将! 豚骨チャーシュー大盛りで」


「ワンタンで」


 と注文する僕を朝日は意外そうに眺めた。


「とにかくだ、アカリは毎日がつまらなそうだよ。何か趣味の一つでも見つけられたらいいと思ってんだけど!」


 珍しく、あのぶっきらぼうで人に共感するということを知らない空手バカに気を遣われているのだろうか。


「なんかいま手を上げたくなったけどまぁいいや。夢のなかくらい許してやる」


「……友達もいなくて帰ってゲームしてるだけで、毎日同じことを繰り返してると不安になってくるんだよ。もしかしたら、この低迷感が朝日には分からないかもしれないけれど。大人になったら僕も普通に働くんだろうだろうけれど、パートで暮らしてる母さんを見ても、全然幸せそうに見えないんだ。僕はきっと、そこまでして生きていたくもなくて」


 冷水をすする。


「趣味だってこの感情の誤魔化しにすぎないだろ」


 朝日は割り箸を綺麗に割った。


「アカリのお母さんはさ、きっとアカリがつまらなそうにしてるから幸せそうに見えないんだよ。趣味を持つことは人生に目標を見出すことに等しい」


 どんぶりの上の山盛りチャーシューを楽しそうに一枚ずつ崩して食べ始める。チャーシュの層の下にはスープに浸った野菜の層が覗いており、その下に本当に麺がいるのかは今のところ分からなかった。僕も注文したどんぶりが来たので、浸されたワンタンを見つけ出しては一つずつ口に運んだ。水餃子との違いが分からない。


「アカリは考え事が好きなのかもしれないね」


「誰もが君たち姉妹みたいに気炎万丈かっていうとそうじゃないと思う。だからそう言われると僕が好きなものも趣味と言っていいのか不安になってしまうけれど。僕はそうだな……何の歴史にも残らないようなコンテンツを消費していくのが好きだよ」


「ふむ。まぁ本当に人生を楽しめていないのなら、あたしはアカリの見ている世界を見てみたいよ。それがいまあげられる最大のヒントじゃないかな。不満は何かが足りないから渇いている証拠で、そこから逆算されるのがアカリが本当に求めていることなんだって」


 モッモッと奇怪な音をたてながら朝日がラーメンを吸い上げていく。チャーシューを一枚ずつ飲み込み、野菜を噛み砕き、麺とスープを平らげんとする。


「そこまで言われると情けない次いでに聞くけど、正直どうしたらいいか分からないんだ。僕は何をしたらいいんだろう。幼馴染のよしみで教えてよよしみ」


「誰がよしみだ。あたしゃ真込朝日だ」


 んっんっとどんぶりを抱えてのスープの飲みっぷりに、大将も何故か気恥ずかしそうにしていた。朝日は油でつるつるに照っているせいか、いつもより明るい笑顔を見せてどんぶりを置く。


「ごっつぉーさん! まずは出された飯を平らげな!」


 つまりは、もっと動物的に生きろということだろうか。夢を夢だと自覚した明晰夢の世界、何もかも自己の思い通りになる世界で、僕は目の前の小さなスープを飲み干しにかかった。


――自室でうたた寝をしていたらしい。はっとして時計を見ると0時を回っていた。週明けに提出する課題のノートは寝押しされて、涎が垂れていた。コーヒーでも淹れようとキッチンに立った。



 粗大回収の前日であることを思い出して、学校帰りにアトリエに寄り、故障した電子レンジを外へ運び出そうしていたところだった。マンションのホールで、よく見知った老人の姿と出会った。


「おお明くん、久しぶりだね。いやぁ……私のあげた差し入れが元でこんなことになるとは……本当に火事にならなくてよかったよ」


 清潔なネイビースーツに身を包んだ老人は、目尻に皺を溜めて僕に向き合った。夕陽にアトリエを貸し、地方や海外への遠征費用や画材管理費などに惜しみなく出資しているオーナーその人だ。このマンション一棟は彼の持ち物で、その最上階の一室を夕陽に貸し出している。先日の電子レンジの発火で火災が起き、個展に出すための作品が全焼失した場合、彼の落胆はどれほどだっただろう。だが彼は僕に八つ当たりすることも一度もなく、それどころか夕陽の活動をサポートするために合鍵を持つことを許している。お陰で無い腹を疑われる辛さや悲しさを彼から受けたことがなく、僕はオーナーの性善説的な態度に感謝すべきだと常々思っていた。


「いつもありがとうね、あきら君。夕陽ちゃんの傍にいてくれて」


 彼は張りのある声で話す。


「いえ……僕にとっても、放っておけない幼馴染ですから」


 僕が夕陽のアトリエに出入りすることをオーナーが認めてくれているから、公然と夕食を作りに行くことができていた。だが年頃の男女が二人きりになる状況もあり、本当に良いのだろうかと今でも不安になる。この間は特にそうだった。


「明くん、目の下に隈ができてるよ。最近もしかしてよく眠れていないのかい?」


「えっ。ほんとですか」


 鏡を見なくても分かるくらいに、僕は最近睡眠が不規則だった。うたた寝をしてしまったり、漠然とした不安でなかなか寝付けなかったり。


「んん、そうだな」


 オーナーは咳払いをする。


「明くんはあんまり遊びで夜更かしをする子じゃないもんな。何か悩み事でも――」


 と言いかけて彼は言葉を打ち消すように手を振った。


「いやいや。でも困ったことがあったら、何でも相談しておくれ」


「そんな、買いかぶりすぎですよ……ネットゲームにハマってしまって、なかなかやめられないんです」


 僕も嘘をついて笑った。


「明くんには済まないことをしているなって思うんだ。私は君の生活も変えてしまったんじゃないかって」


 それは彼が夕陽を支援していることを言っていた。


 オーナーと夕陽は、彼女が絵画教室に通っていたときからの付き合いだ。さかのぼると彼女が物心ついた幼稚園児くらいで絵筆を取り始めた頃から目を付けていたそうなのだが、夕陽が中学の美術部を追われるようにして辞め、絵画教室に戻って絵を書き始めた頃に、彼女のパトロンとなることを決めたそうだ。それからは夕陽に絵画の仕事を持ってきたり、当時塞ぎ込んでいた彼女に刺激をと海外旅行の渡航費用を出したりして、キャリアを積ませた。彼がいなければ、夕陽がこんなに早く芸術家として活動することはなく、天才高校生としてもてはやされることもなかっただろう。そして彼女の中学の卒業祝いには、自分のマンションの一室をアトリエとして贈った。一見過剰に見えるほどの経済支援だが、世の中にはそういう関係もあるのだろう。この冬には個展を開くことを計画している。いま夕陽はそのための作品作りをしているのだった。


「僕が夕陽を手助けしたくてやってるだけです。幼馴染として鼻が高いんですよ。まぁちょっとくらい周りの人間に才能を分けてくれてもいいんじゃないかなって思うけど、結局僕と彼女は違う人間ですから、最近そういう風に思うようになってきたんです」


 僕が料理を作りに行くと、夕陽はその調理法を尋ねてきたりする。まだ稀に火災級の失敗をするけれど、元から勉強熱心な少女だ。いまにも自立して、僕の手がかからなくなるだろう……。多分。そのとき僕が重荷にならなければいいな、それだけが大事だと僕は思っていた。


「夕陽ちゃんって、学校の宿題を残さないよね? いまもそうだって聞いたよ」


「えっ? 確かにそうですね」


 唐突に彼は言う。


 夕陽は下校してから夜遅くまでアトリエで活動しているが、いつも早朝から登校前の時間に学校の課題を終わらせている。その日に出る課題を予測して、前もって授業中ノートを取りながらやっておく。それでもカバーできそうになかったら、アトリエに来る前に学校に残って課題を終わらせる。それが習慣として染み付いているから夕陽がアトリエにいるときには、課題のことはほとんど考えなくて良いようになっている。やるべきことをさっさとやっておく、これが夕陽が絵画へ万全の集中力を発揮できる秘訣だった。


「実はね、あれが生きることの本質なんだよ。どんな人だって、『面倒だと思うことをすぐできるようになれば』人生は変えられるんだ。多くの人はそれができないけれど、明くんにだったらできる気がするよ。私からのアドバイスだけどね」


「いえ……」


「例えばね『面倒くさい』と思ったことを五百回連続でできれば、人は誰だって人生を変えられる。もし変えたいと強く願うことがあれば試してみてよ。それじゃあ、お邪魔したね明くん」


 そう言い残してオーナーは去っていった。頭がなんだかボーッとした。


 ゴミ出しを済ませたあと僕はコンビニへ寄って、付箋紙を買った。帰宅して早速食事を二人分用意し、母の分はラップをかけて冷蔵庫へしまった。僕はリビングで一人食事を済ませ、皿を洗い、自室に戻った。


 付箋紙に『料理二人分』『皿洗い』と書き、ダンボール箱に入れた。自分の生きる意義なんて分からないし、『人生を変える』なんてことが何を意味するのかも知らない。僕はもしかしたら運命論者なのかもしれない。人生が変わるなんてありえないと思うのだ。人の一生を『運命』という言葉で定義するとして、運命が変更されたかどうかなんて誰にも認識はできず、人が人に影響を与えてその人の性格や行動パターンを変え、一見『人生』を変えたとしても、それはその人達がそう出会い変化させ合うように予め企図されたものだったとしたら、人が人の人生を変えたとは言わない。『あるように収束した』というだろう。それが変更不能の運命だ。一方で収束から逆らう力として、収束の象徴である『面倒くさい』を超越する行動力を行使し続ける、それによって『人生を変える』というのは一理あるような気もした。ともかく、少なくともこの箱を一杯にすればオーナーに言われた回数は満たせるだろうと思う。


 珍しく僕は苛々していた。彼は権力と経済力を盾に他人の人生で実験をしているのだろうか。自分の言動で他人に影響を与える気分はどうだ? もしそれが前向きなものになっても、後ろ向きな結果に陥っても、彼は満足して死んでゆくだろう。そんな姿が想像され、尊大な自己満足を許したくないという気持ちが僕に芽生えていた。


 何故僕は苛々しているのだろう。まるで自分の信じているものを否定され、理性を保てない宗教家だ。本当に運命があると思うなら、泰然自若として気にしない筈だ。つまり、信じたいから疑っているのだ。自己の価値観を検証するため、揺さぶりをかけるために行動し、付箋紙に書きなぐり、ダンボール箱に捨てる。


 これが単なる復讐心や個人への攻撃心ならば、辞めたっていい筈だ。だがいまのところ個人的に続けられる範疇にある。この行為の習慣化を通し、複雑な胸中と向き合うことだけが僕に示された道に見えた。


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