08 狼の兎穴 ~down the rabbit hole~

「お母さんとそんな喧嘩をしたのは、中学の卒業式を迎えた後の話。だけど、ずっと昔のことみたい……ついこの間あったことなのにね」


 自嘲するように冬川が笑う。佐伯の部屋でローテーブルを囲んで、俺と佐伯京は話を聞いていた。冬川は目の前のオレンジジュースが注がれたマグカップに口をつける。佐伯は壁に背をもたれかけ、俺はあぐらをかいていた。


 冬川のなかで覚悟が決まった予感がした。彼女の姿を透かすように、見覚えのある街角の光景が明滅していた。一つの冬が影を残して擦過していく。イメージは街の通りを横切り、冬川の家のドアを開ける。当時の冬川が見ている視点だ。そうしてリビングには冬川の母親が待っている。冬川の胸の痛みや肩の震えが、その光景を通して伝わってきて、鈍く心が曇った。


 冬川は叱られていた。試験の成績が良くなかったため、母親に手をあげられていた。


「――――そこで私は、言い返したの『お母さんなんて一度も私のことを思ってくれたことなんて無いんだ! お母さんは私にご飯を作るだけの機械なんだ!』


 そうしたら、母は私の髪をつかんで、床に引きずり倒した。私も暴れたわ、無我夢中に怒鳴り合って。息が苦しくなった。激しい喧嘩よ。だけど、その日はいつもと違った。振り回す私の右手が、何か硬いものに触れたの。


 私に、少しでも、り、理性があったら……い、いや、それでもっ……お母さんを傷つけよう、だ、なんて……わ私、思ったこと、ななんて無いの……だ、だけ、だけど思わず………………私しはは、そ、それ、で…………」


 どうしたのだ、と俺も、佐伯も顎を上げた。聞いているほうが苦しくなるような、息を詰まらせるような話し方に、冬川は次第に陥っていく。不意に彼女は『それ』を握り込み、自分の首元に突きつけて、祈るように目を閉じた。


 ナイフ――――


 その白刃は冬川の首を深く貫通したように見えた。目を見開き、呼吸の方法を失い、瞳孔は胡乱うろんにどろりと垂れた。開いた口からは真っ赤な血が溢れていく。冬川が口元を手の甲で拭うと、血液は蒸発したように消えていて、ナイフを引き抜くとそこに空いている筈の大穴は瞬きの間に癒着した。同時に冬川は冷静さを取り戻している。これが精神を切るナイフの力なのだ。


「私は握り込んだこのナイフで、母の胸を深く刺した」


 佐伯が息を飲んだのが伝わった。僕も分かった。母親を刺したときの殺意、感覚、後悔、すべてが本物だったと。その上で冬川は、過去に確かにあった筈のそのすらも、自らナイフでえぐり出してしまった。


「私はお母さんを刺した…………でも、これは本当のナイフじゃないんでしょう? お母さんは現に生きているもの。だから……私がやったのは妄想なのよ、刺すつもりなんかなかった。殺すつもりなんて…………決して」


 冬川はとても不安定に見える。冬川を透かして見える風景がモザイク状に切り刻まれて混乱している。目の前にいるのは自分がやったことの重さすら測りかねて、酷く苦しんでいる同級生だ。


 冬川にだけは母を刺したナイフが見えている。つまり、冬川だけが自分の罪を知っている。彼女は自分の罪の重さを知りたいのだ。


「お母さんを殺すつもりなんて……ない………信じて――――」


 その言葉だけで、僕らには十分だった。


 パン、と佐伯は手を叩いた。ふと冬川が顔を上げる。


「もう大丈夫だ。君のことは俺と春暢がなんとかしよう。誰にも話せず苦しんだろうな……だがその苦しみも、君はナイフで切り離して生きてきた。いまの君にあるのは喪失感だけだ、君は『現実』を失って、悲しんだら良いのか、泣いたら良いのか分からなくなっている。違うかい?」


 冬川はどきりと硬直して、それからゆっくりと頷いた。


「き、京子さん……どうして私になんか……こんなふうに接するの? あなたに何の得があるの?」


「俺は、春暢に借りがあるんだ。力を貸して欲しいと、こいつに泣きつかれては、俺も出てこざるを得ないのさ。そうだろ、春暢?」


 そんな風に言われては、ただ俺に何かできることがあれば助けてやりたいと思った、そんな明け透けな感情を説明しなくてはならなくなる。それは困るのだ、それ以上でもそれ以下でも無いのだから。


「……ここ最近、一人じゃできないこともあるって知ったんだよ。最初に頼れるのは京だった」


「ふふ、お前も素直になったな。そういうことだよ。手を差し伸べてくれる人はいるものさ」


 京は冬川に向かって、ほころぶように笑った。意外な幼い表情を見て、冬川はどきりとしたのか、これ以上の警戒心を持てなくなってしまった様子だ。


「それに、俺のことはこれからは京(けい)でいい」


「あなたそういえば、どうしてこの間は放課後の教室が良かったの? 会うなら、学校の外でもよかったんじゃない」


「『佐伯京子』は演劇部所属でね。教室の一角というセットが一番、練習熱心に見えるだろう?」


 冬川も無意識的にだろうか、ふっと笑った。


「春暢は、どうするんだい?」


「まずは冬川から話を聞いてみよう。それからこの事件を、解決してみるよ」


◇ ◇ ◇


「目を閉じて、当時の雰囲気を思い出せるか? どんな天気だったか、どんな気分だったか、何時何分だったか……見えるもの、聞こえるもの、思ったこと、一つ一つを自分の言葉で、感じたままに語ってごらん」


 彼女(彼?)に言われたまま目を瞑ると、囁き言葉が耳から脳へと響くように聞こえた。春野春暢は心というプライバシーな空間を侵す不法侵入者だとしたら、佐伯京は生粋の煽動家だと直感した。彼女の声が耳に響くだけで、得も言われぬ快感が広がる、指示に従って、そのとおりに身体を動かしたらどれほど気持ち良いだろうかと、そう思わせられてしまう――――


「どうしても思い出せない仔細は構わないよ。君は、母親と喧嘩した。思い出すのはつらいだろうから、記憶を再生するのはその後からにしよう。君は家を飛び出した。その後、どこへ行ったのか? そこから、始めてみてくれないか。ゆっくりでいい。俺がついているから」


 その後私は――私の口は語り出した――街なかに自分の姿があった。


 私は、無一文のポケットの中を探り、コンビニの明かりを受けて、何日 しのぎ続けられるかを考えていた。凌ぐ、何から――? ……そう思って、自分が何から逃げているのかを思い出した。母をこの手で刺したのだ。その凶器はどこへやった? 前後がうまく思い出せない。だから逃げてきたのか? 動転している。


 落ち着いて、私がやるべきなのは、救急車を呼ぶこと、警察を呼ぶこと、母に謝り、罪を述べ、然るべき罰を受けること。頭は冷静さを取り戻そうとしていた。私は一度家に戻らなくてはならない。そうだ、戻らないと。


 私は自宅の前まで戻っていた。ドアを開け、廊下へと目を走らせる。薄暗く、人の気配がしない。だが、そこに何かが立っていたのだ。


「ひっ……あ、あぁ……」


 『それ』はゆっくりと、虚ろな目を向けて、全身に影を落としたマネキンのように、私の遥か後方を見ていた。私は咄嗟にドアを後ろ手にして、退路を確保しようとした。目の前の『それ』にはまるで生気がない。はっとして、『それ』の腹部を見た。刺し傷を探したが、洋服には血の染み、傷ひとつなかった。


「お……母さん?」


 恐る恐る、罪の許しを待つような声音が震えて、私は影に覆われた顔を下から窺おうとした。




「――――あなた、どちらさま?」


 そのとき母は私の目を見て、そう言ったのだ。同時に耳をつんざくような金属を擦ったような軋み音が、頭痛と共に走った。ノイズ混じりの母の声は、とてもこの世のものとは思えなかった。


 だから私は、家を飛び出し、逃げたのだ。




「その夜から私は家出した。卒業から入学までの二週間弱を、私は家へと帰らず過ごしたの」


 京は黙って私の話を聞いていた。ふと春暢がお茶菓子として出されていた一口サイズのシュークリームを拾って食べた。自分の過去から意識が戻ってきて、私は私の話に誇張がなかったかと、思い返してみた。確かにあり得ないことが幾つも起きているが、私はこの目で見たことを印象通りに話したと思う。


「嘘だなんて思ってないよ、必死だから」


 春暢が言う。


「必死に話していることだけが真実だ。冬川はお母さんを喧嘩の末に刺して家を出た。でも、一度戻ってきた。だけどそこに怪我を負った母親はいなくて、母親じゃない何者かを見たんだ。そして動揺して逃げ出した」


 京は目を瞑って、壁を背に何かを思案していた。私の話の、非現実的な部分について考えているらしい。


「それからどうしたの? 誰かの家に泊まり歩くとか?」


 春暢が訊ねた。この土地に引っ越してきたばかりだった私に、突然泊めてとお願いできるほど仲の良い友人はいなかった。


「いいえ、野宿をしたのよ」


 京がコーヒーカップを口元へ運ぶ。それから人指し指を立てて私に促した。


「話せそうなら、続きを」


――そこにはまず印象だけがあった。記憶の底に薄氷のように沈んでいるおぼろげな冷たさに私は触れた。それは当時の孤独感や、春の夜寒や、一人で生きる恐怖が堆積したものだった。




「どこか、夜を明かせる場所は……」


 汗が冷えてきて、風が痛い。携帯の時刻は0時を過ぎ、バッテリー残量は一時間も持たないだろう。一晩中歩き通しで足が重かった。川面の先にある町の灯りはにじみ、意識は鋭さを増した代わりに脆くなる。警察に呼び止められたらどうしよう……別に、それでもいいのか、補導されても、保護してもらえばいい。だけどどう説明したらいいのか、お母さんは、どうなったのか。


 地元の人が利用する河川敷沿いの歩道が明るく浮かび上がっている。ずっとその道沿いの暗がりを身を隠すように歩いている。女子中学生が……いや、今の私は卒業したのだから……ともかく、そんなひと目のつく場所を歩いていい時間帯じゃないから、隠れなければならないと思ってしまう。だから裏道をゆく。夜寒で冷えるも、頭はあまり冷静な判断を下せていない。


 河川敷沿いを歩くもう一つの理由は、頻繁に橋にぶつかるからだ。付近に来ると、私は近寄って、橋の下を確認する。大抵、暗闇のなかに人の気配がする。ダンボールや、シュラフにくるまって眠っている人がいる。身の危険を感じるが、気怠げな、何にも無関心な空気感だけが返ってくる。誰も目を合わせようとしない。私が一晩中『誰にも見つからずに』過ごすには、こうした場所しか思いつかなかった。とにかく、今日のこの強風を凌げさえすればいいと思うほどにはなっており、歩くのがつらい。


 五箇所目にして、人のいない橋下を見つけた。場所がなければ対岸を探さなければならないところだった。そうしたら陽が昇り始めほとんど眠ることはできないだろう。私はそこからさらに一つ先の橋梁の下まで歩く。誰もいないし、ダンボールなどの痕跡もない。もう一つ先もそうだった。居住者のいない区間までやってきたようだ。私は両隣に人のいない場所を確保した。これからもしかしたら数日間お世話になるかもしれない、橋の下を覗き込む。


「うえっ……」


 むわっとした強いアンモニア臭と分かるのが先か、吸ったものを全部吐き出そうとしてえづき、その場所から飛び出した。涙が止まらない。よく分からないが、ネズミや鳩の糞やゴミなどが入り混じった腐葉土から異臭がしたのだ。もっと良くないものが腐っていたのかもしれない。とても寝床になんかできそうにない。流石に無理だ。


 私は踵を返し通り過ぎた橋下を選ぶ。先程の場所と違い腐葉土が掃き出されて、人の住んでいた痕跡があった。私はここに住んでいた人が今日は戻って来ないことを、あるいはもう廃棄していることを祈りつつ、この場所に収まることにした。ようやく眠りにつくことができる。ただ、眠ることさえ、いまの私には許されていないような感じがする。私は酷いことをしたのだから。そして、ここも安全かどうかわからないのだから。


 カラカラとタイヤの回る音がする。身が固まる。通り過ぎて行く自転車のライトを見送って、安堵の息をつく。


「つかれた」


 膝を折って座っていたが、諦めて横になった。コンクリートの冷たさを受ける面が広がり、一時的に体温が下がる。胎児の体勢からお母さんが連想される。どうして私は……どうして……


 子供の頃はそうじゃなかった。仲はあまり良くはなかったけれどお父さんもいたし、家は温かかった。思えば転々としてきた土地はどこも匂いが好きになれなかった。私はきっと頭を切り替えることが苦手だった。知らない場所へ行くとき、私は次こそは、と思う。しかしなかなか変われなくて悔しくて仕方がない。こういうとき、気軽に電話ができる友達が欲しい。土地ごとに考えることも流行りもばらばらで、こうだと思った生き方が何も通用しない。「もしもし、あ、ごめん邪魔した? 私いま家出してて。橋の下で寝てるんだけど……」なんて。ああ。とてもとても世界は私に冷たくて、地べたのように硬い。吹き抜ける風の音は大きいが、あまり気にならない。


「――――い――――おいお嬢ちゃん」


 耳に響くだみ声が唐突に私を覚醒させる。身を引いて息を詰める。橋下の出口を塞ぐようにして、ダンボールを脇に抱え、白髪交じりの男性が立っている。よれた黒いシャツに穴の空いたジーパン。彼が私の顔を遠目から覗き込むように立っていた。


「そんなとこで何してんだ。どした、おい」


「…………っ」


「家出か?」


 私は頷いた。彼は、私のことを下から上までゆっくりと見る。ただただ私は恐怖する。数秒、沈黙が流れる。不意に、何かを投げ渡された。それは彼が持っていたダンボールだった。


「嬢ちゃん、俺が年増好きでさ、良かったな、へへ」


 歯の抜けた顔で笑顔を向けられ、私はどう答えたらよいのか分からなかったが、私に被さるようになったダンボールは、彼が抱えていた分の体温で温かく感じた。


「そんなに嫌そうな顔すんなって、冗談だよっ。それやるよ、寒いだろうがよ」


「……い、いいんですか? あなたのは……」


「気にすんな。へへっ」


「おじさんの、家でしたか……?」


「別にいいさ。しんでぇだろ。俺には友達んちもあるからよ」


「へ、へ、他の奴らには黙っておくよ。だが一晩だけにしとけよ、お嬢ちゃんみたいなのが住むにはあぶなすぎるからよ、へ、へ!」


 そう言って、男は後退った。私は目が離せないでその後姿をじっと見ていた。この場所に他に何か無いかと探したが、右手は泥をさぐって汚れた。


 男は去っていった。私は立ち去るべきか迷った。理性はやはり危険だと訴えていて、結局橋台から出ることにした。


「お嬢ちゃん、これ持ってきな」


 背後からさっきの男に声を掛けられた。慌てて振り向くと、下手投げの仕草をする。とっさに手で受け取ろうとすると、夜の闇に虹色の缶の表面が鈍く光った。まだ温かいコーヒーが懐に飛び込んできた。


「じゃあな。気を付けて帰れよ」


「あの、お邪魔しました……コーヒーも、もらっちゃって」


「いいよいいよ、ホームレスだけど金はあんのよ」


 私はとにかく小さく頭を下げた。実際、手が火傷するほどの缶コーヒーをブルゾンのポケットに入れると、安心のできる温度を享受できた。川沿いから離れて、住宅地の公園を目指した。日が昇ろうとしていた。始めから公園で寝泊まりすれば、こんなに歩かずに済んだだろうに。しかし少しだけでも休めたとは思う。


 そしてふと。


 どうして橋下で私が『女』だと、『子供』だと分かったのだろうと思った。あそこは逆光だ――――



 朝陽が差す。私は公園の湿った冷たいベンチから、朝もやのなかを走る人や、スーツを着て駅へ向かう人たちを眺めていた。


 家の近くにはもう行けなかった。何も持たずに出てきたので、当然お金も無い。とにかくこれから寝泊まりする場所を探そう思い、昨日のこともあり公園を押さえることにした。


 食事も洗濯も、一日二日だったら我慢ができる自信があった。だがその先はどうしたらよいか分からない。本屋の前に停まっている自転車のカゴにスポーツタオルが押し込まれている。いつかは身体を洗う必要があり、そのときにタオルが欲しいと思った。


 今日も寒風が強い。私は手ぶらのまま歩く。寝泊まりに使えそうな公園はなかなか見つからず、ひさしのある遊具か、植物に遮られるベンチが望ましかった。だが体力も温存したいので、二つ三つ当たりを付けて早々に切り上げる。陽はまだ煌々こうこうと高く、お金が無いと、時間を潰すのも難しいのだと悟った。私はベンチに座りながら昼寝をしたり、微睡みながら考え事をした。考え事をしていると、いつの間にか意識が飛んでいた。

 

 突然強い光に晒される。


「君、こんなところでどうしたの。大丈夫?」


 強力なライトの光を乱暴に向けられ、私はただ不快な気分になり、相手を見据えた。警官の制服を着ていた。


「こんな夜中に女の子が一人で危ないじゃないか。中学生? 高校生?」


「……、あ……」


 何も悪いことなどしていないのに、咄嗟に質問に答えれないだけで焦りがやってきた。


「君……家出か? ご両親に電話を掛けてもいいかい?」


 太い手が暗闇を泳ぎ、こちらへ伸びてきた気がした。


「嫌っ」


 私は咄嗟に身をよじり、手を振った。かすかな白い光が走った。


 警官が私の腕を掴む。力強く。痛いッ――――暗闇の向こうに引きずり込まれそうになって、私は叫んだ。頭を振って逃げようとする私を羽交い締めにして、大型獣のような男の重みで私は圧し潰されそうになった。いいや…………。息を止めて、しなだれかかっている警官の胸から私はゆっくりとナイフを引き抜いた。血飛沫の代わりに迸るような快感が脳裏を巡った。警官はそのままぐったりと、意識を失って倒れた。


 こんなことはありえないと思いながらも、私は走った。何故だか私は左手にナイフを握りしめていた。母を刺したあのナイフだ。


 他に何も持っていない。身にまとった衣服――ジーパンに赤のパーカー、黒のブルゾンだけ。とぼとぼと街路を歩いて、街灯に背中を預けた。自転車が目の前を通り過ぎる。街中で一人きりになることはできないのだなと私は悟った。


 そうしてナイフで手首をかき切った。二人も殺したのだから、生きてはゆけない。なのに傷も痛みも生じなかった。代わりに頭のなかにある考えが飛来する。


 私はナイフで『穴』を開けてしまったのだ。そしてその『穴』に身体ごと落ち込んでしまった。もうここは、私の知っている街ではない。私の元いた世界ではない。


 公園ももう張り込まれている気がして、今晩は寝床がなくなった。明け方まで路地裏を休みつつ歩いていると、ぽつぽつと雨が降り始めた。橋下まで行こうと思う。あの人はお金を持っていたのだから、早朝から港の方へ出稼ぎに行くのではないか。留守であれば寝床で眠れるのではないか。


 そうして、私にとって忘れられない一日がやってきた――――




 左手首にナイフの刃を立てている。針金が詰まっているような皮下の力を感じながら、深く引っ掻くように横一文字に傷をつける。ふつりと、痛みと共に流れ出していくものがある筈だった。しかし何も痛みがない、後悔もない。却って落ち着きさえしていくのが恐ろしく、不可思議だった。


 やっぱりこれは本物のナイフじゃない。そして恐らく私だけに見えている。雨音に紛れて気付けなかったが、目の前に気配があった。


「お嬢ちゃん、まだここに居たのか……」


 ぼうっと見上げると、あのおじさんがいた。流れの荒くなった川を背にして傘をさしている。雨がしとどに降っている。まだ夕刻前で、お互いの顔が明るみに出ていた。衣服は汚れていたが、意外にも髭の手入れなどされていることが分かる。やはりこの辺りに住み付いているホームレスとは一線を画しているようだ。


「何て格好してんだ、寒いだろうよ――」


 私は濡れた服を乾かすためにも下着姿だった。電灯の灯りのもと、震えている私はどんな風に映ったのか。


「ちょっと待ってろ」


 どこかへ行ったと思ったら、数十分後に彼は戻ってきた。


「家出するんなら替えくらい用意してけ。意外にもコロっと死んじまうぞ」


 ビニール袋が投げて寄越された。中にはバスタオルと、男性サイズのトレーナーが入っていた。


「その様子だと飯も食ってないな。どうだ、一緒に行くか」


 もう一本の傘を私に差し出す。それを手に取り、彼の後について行った。


 自分がコンビニの廃棄を漁る経験をするとは思わなかった。正確にはおじさんがビニール袋を遠慮なしに裂いて、なかから積まれた弁当を取り出すのを見ていただけで、私は店員が来ないか見張らされていた。ゴミ箱が路地裏に面しているところがポイントだった。


「こんな風にするんですか。初めて見ました」


「家が無えってのはそういうことさな」


 彼がホームレスの振りをし続けるので、特別何も言わず、そのまま一緒に歩き、また橋下へと戻ってきた。おじさんは拾ってきた弁当を私に手渡した。


「今日からこの家は、お嬢ちゃんにやる。あんな風に飯を取ってくればいいし、困ったら俺に何でも言ってくれたらいい。最低限のものは新居祝いにやれるわな。その代わりといっちゃあ何だが――――」


 もう一つの足音が雨のなかから現れた。


「へ、へ。悪くないと思うんだよ。……小遣い稼ぎでもしてみないか? お嬢ちゃん」


 面倒を見てくれていたおじさんよりも不潔で、最初に橋下に訪れた時の鼻がひん曲がるほどの異臭を漂わせた、ひと目で分かる浮浪者が彼の隣に立っていた。その男は口ごもりながら、私のことを喜色ばんだ眼で上から下まで見回した。


「――おやっさん、本当にいいんすか? ほ、本当に…………?」


 おじさんはポケットから何かを取り出した。それがスマホだと分かったときには、もう一人の男が、一歩私に近付いていた。冷え切って湿ったコンクリートの洞窟に閉じ込められていた。


「目を閉じて、我慢しているだけでいいんだよ。すぐ終わる。撮られるだけでいいんだ」


 粘度を持った人の言葉が耳の中に垂れてくる。私は瞼を閉じた。顔の前まで気配が迫り、鼻の曲がる口臭がした。


「お嬢ちゃん、ねぇ、ね――――初めてなのかい?」


 その後の光景を、私は自分を撮ったビデオでも見ているかのように、ぼんやりと見送っていた。手元のナイフが目の前の男の顎から脳天に向けて突き刺さり、眼前で腕組みをして醜悪な偽善者面を浮かべるおじさんの目の前まで迫り、動転した表情を見つめながら、首筋を横薙ぎした。


 彼らは舞台の終わったテグス人形のようにその場に崩れ落ち、私はまだ生乾きの服を着直して、傘だけ拝借して、雨と雑踏のなかに消えた。


 それから一週間後、公園での寝泊まりに馴れ始めていた私の前に、唯一の親戚である『叔父』が現れた。叔父は警察官と思しき人らを連れており、私に話しかけると、保護をする旨を簡潔に述べた。見覚えのある人でなければ、出会い頭に切りつけていたところだった。

 叔父は怒ったり悲しんだりする様子もなく、周りの巡査に頭を下げ、それから私を車の後部座席に迎え入れ、叔父自身の自宅へと走らせた。


「君を見つけられてよかった。姉さんは、無事だから」


 寡黙な叔父はぽつりとそう言った。叔父から受けた説明によると、私のお母さんは生きているが、もう会わないほうがよいということだった。その理由はすぐに分かった――――


「それから今日まで、私は叔父の家に住んでいるわ。……これで全部。全部話したわ。あとは、あなたたちが聞きたいことに答えたほうが良さそうね」


 ひとしきり話した後でも、到底理解されないだろうと思っている。それでも人に話すというのは案外意味があるものかもしれないと、実感をもって感じた。それはどうしてだろう。誰にも話せないと思っていた、そう頑なに信じていた事柄を聞いてもらうことで、自分の思い込みが崩れる音を聞いたからだろうか。それは奇妙な心地よさと柔らかさを私の心に残した。


「君は……君にしか見えないそのナイフを、何だと考察しているんだい? 君は母親を刺し、そして自分を切り、男や、恐らく警官を切り裂いて逃げ続けたんだ。自分の中では、それが一体何なのか、経験を通じて分かっているんじゃないかな?」


 京が言う。流石に鋭く、私も少しだけ、自分の考えを語ろうと思った。


「『忘却』だと思ったの。このナイフは、人からものを忘れさせる力がある。私が自分の手首を切ったとき、寒くて孤独で希望が無くて死にたい気持ち、そんな気持ちがふっと無くなっていったの。死ぬ気で手首を切ったのに、次の瞬間にはそんな気持ちもなく、落ち着きの中で自分の置かれた状況を考えていたわ。男たちを切ったとき、彼らは意識を失って、目が覚めた時には私のことを忘れていた。そう……まるで私が目の前にいないかのように。私の存在がその人の中から消えてしまったかのように。このナイフはきっと、人からものを忘れさせる力を持っているのよ」


――――そして、叔父に保護された私は、数週間ぶりに自宅の母を訊ねた。刺したのに、この世から居なくなったわけでもなく、当たり前のように玄関の前で私を迎えてくれた母は、私に向かってこう言ったのだ。


『――――どちら様ですか?』


「私はその後も、つらいことがあったり、自分だけに見えるこのナイフが気持ち悪くて、現実を見失いかけたときに、私自身を切り裂いて冷静さを取り戻してきたわ。その度につらさや感情を置いてきたの、私の身体から切り離してきたの」


 佐伯京はふふと笑った。ああやはり、彼女も信じていないんだ、と思いはした。そちらに気を取られていたから、春暢が私のなかに何を見ていたかということにも、意識が回らなかったのだ。


「とんでもない。私の考えでは、君のナイフは『忘却』ではなく『理性』の象徴さ。君は狼のナイフを、もっと上手く使わなくちゃいけない。自分でも他人でもなく、この世界に向けて、刃を突き立てるんだ」


 ずっと黙っていた春暢が立ち上がった。


「それに、お母さんは冬川のことを忘れたわけじゃないよ。いまからそれを証明しに行こう」


 そう言って彼は私に手を差し伸べたのだ。その手は柔らかく佇み、あのとき冬の川辺で凍りついてしまった私の時間に、慈しむように体温を宿してくれたような気がした。私はその手を取ってみたいと思った。褪色した世界に彩りを戻してくれる、春の芽吹きのような優しい手のひらだった。


 私の話を理解してくれた、彼らだから。

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