07 多角形の獣
――大変なの……アカリ、なんとか火の元は消したんだけど……
二十二時を過ぎた頃、夜の暗闇を滑り落ちるように自転車を漕いで僕は夕陽のアトリエへと向かっていた。
――こんなことアカリにしか頼めない……助けに来て欲しいの!
ブレーキの擦過音を宵闇に響かせて、僕はマンションを見上げた。十二階の一室に夕陽のアトリエがあり、外からはいつもと変わらない様子に見える。夕陽から先程、火事が起きたという連絡を受けて、僕は急いで駆って来たのだ。食材を詰めたバッグを乱暴に掴んで、何故か十一階で点灯して動かないエレベーターのボタンを苛々しながら二度押した。
――こんなヘマして……凄く恥ずかしいお願いなのは分かってるの…………でも……ついでにアレ、持ってきてもらえると……嬉しいなって……
「夕陽、いる?」
玄関は開いていて、案の定焦げ臭さが鼻腔を刺すので眉をしかめた。廊下の奥にエプロン姿の夕陽がちらちらと覗く。申し訳無さそうに手招きをしていた。
キッチンまで行くと、問題の電子レンジが電源から外されて、ダイニングテーブルの上に置かれていた。ショートしていて、危険な状態だといえた。
「ごめんねアカリ。こんなことで呼び出して怒ってるよね?」
「いや、それよりも出火したって本当? 怪我してない?」
「うん。私は大丈夫。それよりオーナーに謝らないと……レンジだめにしちゃったし……貰った差し入れも……」
レンジの隣には陶製容器の黒く変色した煮物が置いてあった。ホイルの部分は散り散りに焦げて破れていて僕は状況を理解した。夕陽はアルミ箔を外さず電子レンジに突っ込んでしまったのだ。金属にマイクロ波を当てると、放電して火花が散る原因になる。とにかく火事にならなくて良かったと思った。このレンジは後で処分しておくけれど、
「オーナーさんには連絡した?」
「うん。玄関に出しておいてって。チンしちゃいけないって知らなかったの。私、本当に世間知らずだよね……」
「アルミで蓋をするときもあるから、必ずしもだめってわけじゃないけれど……今回は運が悪かったね。オーナーさんなら多分許してくれるよ」
「私一人でいることを許されてるのに、これじゃあ追い出されちゃうよね……」
「高校生なんだから、一人で生活くらいしていいだろ。失敗したっていいさ、きっと」
そうしてフォローを入れていると、安心したのか目の前のしおらしくなってしまった女史から小気味の良い可愛らしい腹の音が鳴った。どちらかというとこちらが本題であり、自分から言い出す前に身体が鳴ってしまったことが恥ずかしくて夕陽は目を合わせられなくなっていた。
「すぐ用意するよ。待ってて」
夕陽にはレンジを玄関の外に出してもらって、僕は早速台所へ入った。コンビニへは歩くと少し遠いが、行けない距離ではない。夜道を一人歩きするのが怖かったのかもしれないが、ひょっとしたら夕陽は誰かの手料理を食べたい気分だったのではなかろうか。オーナーの料理をだめにしてしまった一方で、空いてしまった小腹を満たすのに、同じように知人の手による手料理を食べたかったのかもしれない。という考察を鈍物を演じてみようと試みる。
夕陽のわがままで振り回されるのが、実のところ僕は嬉しかった。正直僕には料理くらいしか取り柄がなく、こうしたところでついでに本命の料理を喰いに呼びつける夕陽の欲求に抗えない素直さというか、罪悪感と空腹を天秤にかけてどっちも取ろうとするところとか、その方向性が僕に向いているところが冥利に尽きる。
夕陽は顔を赤くしていたが、嬉しそうに小ぢんまりとテーブルを前に待っていた。僕は夕食の残りのクリームシチューを容器に入れて持参していて、湯を沸かし、余らせていたブロッコリーを切って、パスタと一緒に茹でる。数分待って、皿に盛り付けると
「自家製カルボナーラを召し上がれ」
「うう……神様アカリ様……いただきます」
夕陽は拝むようにして手を合わせて、それからフォークで掬って静かにパスタを啜り始めた。
「美味しい! 美味しい! こんな夜中に犯罪的だよ」
「いやホント事故にならなくてよかったね」
「とてもまろやかでクリーミー……エーゲ海が瞼の裏に浮かぶかのような」
「まろやかもクリーミーもほぼ同じだから。画家なのにイメージが雑だから」
豪快にスープを啜りだすのは似たもの姉妹だと思う。まあ気持ちの良い完飲だ。
「今日の作業はどうだったの? 順調?」
僕は聞いた。なんとも自然に頬杖をつくことで、満足げな夕陽を特別な角度から眺めることができていた。今日みたいな連休中にアトリエに泊まりこむ夕陽は、起きてから寝るまで絵を描き、疲れたら眠るような生活をしている。進捗具合は、概ね時間を掛ければ進むらしいが。
「途中で一週間くらい描いてたものを捨てちゃったけど、別の寝かせていた絵を描き直してるのがうまくいきそう」
「そっか」
声を掛ける前に少し考えてしまうのは、無神経に「凄いな」とか「頑張ってるね」なんてことを言える立場ではないし、口にしたらきっと僕の胸の奥は痛くなる。本当に凄い人を相手に「凄い」なんて言う人は、相手を自分の手の届く位置にまで貶めたいだけだと思うから。そして、きっと僕はその凄さをよく分かれていないから。僕は夕陽に対しては適当な言葉を選びたくないという、自分にしか意味のない不要なプライドを守り続けていて、このナルシシズムが固まった殻を捨てることができなくなっていた。
不意に、笑いがこみあげた。少し前のことを思い出したからだ。
「え、どうしたの……」
「いや、ごめん。前に夕陽が僕に料理を作ってくれたときを思い出した」
「ちょっと、それは忘れてよ!」
夕陽が赤面する。ここに来たばかりのとき、夕陽が料理を振る舞いたいと言って、僕と朝日を呼び出したことがあった。餃子やらカレーやらサラダやらフレンチスープやら、色々と品目を並べていたけれど、どれも決定的に何かが足りなかった。餃子は水分を含みすぎて型崩れをした上に無味無臭だったし、カレーも寸法を間違えたのか米やルーより具の量が多かった。そのなかでも一番普通に食えたのがレトルトのパスタソースだったので、朝日は笑い転げ、僕は夕陽に料理を教える必要性を痛感した。
「なかったことにしたかったのに……」
食事が終わると、僕がタッパーを洗っている横で、夕陽も自分の使った食器を洗った。クラスは違うけれど最近の学校のこととか、もうすぐ冬休みが来ることとか。夕陽は冬に自身初となる個展を開くことをぼそりと言った。それがどんな価値を持つのか、どういう意味を持っているのかよくわからなかった僕は、生返事をしてしまった。
「僕に手伝えることがあったら、何でも言ってよ。今日みたいに飛んでくる。んじゃ、戸締まりだけは気をつけて」
「えー! もう帰っちゃうの?」
「いや……結構遅い時間だし。もしかしてもう昼夜逆転してる? ちゃんと寝ろよ」
「パパみたいなこと言って……」
僕は夕陽に見送られて、玄関まで来た。夕陽はさっきと同じように、小さく手を振っていた。僕も手を振り返して、ドアを出た。途端に肌寒さを感じて、すっかり冬だなと思った。ファスナーを首元まで閉める。
しばらく玄関前にぼうっと、背をつけて立っていた。壊れたレンジが放ってある。ドア越しに夕陽も息を潜めているのを感じる。そのうち、鍵を閉める鈍い音が腹の底に小石を落としたように聞こえた。パトカーのサイレンも聞こえる高層階。階下の大通りにスエットでワンカップを持って歩く老人がいる。缶コーヒーが飲みたくて喉が鳴った。
僕は後ろ手に、合鍵でアトリエのドアを静かに開けた。夕陽はそこにはいなかった。靴を脱ぎ、作業場のほうへ足音を立てずに歩いた。
夕陽は、こんな深夜に、男と二人きりになることを何とも思っていないのだろうか。
それとも、僕がこんなことをするとは夢にも思わないのだろうか。
夕陽は集中すると雑音が意識に上らなくなる。だからといってそんなすぐに作業に没頭できるわけではないのだけれど。作業場の入り口から、夕陽の後ろ姿を一瞬確認した。絵筆を手にとって、どこから作業を再開するのか迷うこともなくもう手を動かしている。おそらく花瓶の絵を描いているらしい。
僕は作業場へ一歩ずつ踏みにじり、夕陽に近づいていった。声を押し殺して、足音を消して。
僕は夕陽を後ろから抱きしめようと思った。そして首を絞めながら犯してやろうと思った。どちらの衝動も僕のなかにあった。その欲情に突き動かされて、僕は侵入した。だが僕は、壁に寄せられた物体に掛けられたシーツに手をかけていた。そのシーツは、背骨の湾曲がいくつもある獣を隠しているようだった。
シーツを取り去ると、そこには何十枚ものキャンバスがあった。すべて、見事なまでに精緻な花瓶の絵だった。絹が擦れて落下する音に、夕陽も気付いたらしい。
「あれ? アカリ……さっき私鍵閉め忘れたっけ?」
――――玄関から外を覗き、夕陽が独り言を漏らす。吹きさらしの非常階段で息を潜めて僕は白い息を吐いた。夕陽が戸締まりを再度して、足音が遠のいてから、すえた匂いが自分の腹から昇ってくるのを鼻先にきつく感じた。
えづきかけたが、何も出なかった。
「そういえば、何も食ってなかったな」
パトランプが街の一端を冷たく赤く染めていた。
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