06 狼のナイフ

「春くん、あたし珍しく数学の点数良かったんだー」


 テスト返却が終わったあとの休み時間、コマ鳥みたいな愉快な足取りでやってきた夏芽恵は、そう言って自分の答案を広げた。


「京ちゃんと一緒に勉強したからかな」


 と、有頂天になって言うその点数は恵にしては珍しく平均点を超えていた。恵の晴れ晴れとした表情を見ると、確かに頑張ったのだろう。努力した分だけ結果が返ってくるのは何であれ嬉しいものだ。答案に目を通す。


「おお『四色問題』が満点なのか」


 周りの同級生の聞き耳が立ったのが分かった。恵の点数に大きく貢献していたのが、最後の大問。四色問題。例として地図が載っており、各領域にはr、g、b、yの記号が色の代わりに記されている。そして、任意の地図が四色で塗り分けられることを証明せよ、塗り分けられないのなら反例を示せ。という問題だ。正答率は0%と聞いていたのだが、恵は正答していた。


「ファ○ナルファンタジーだ……」


 恵の答案には、ゲームの設定資料のようなファンタジー世界の地図が描かれていた。地図は天と地で二層構造となっており、ある領域には斜線が引かれ溶岩地帯を表現していて、一方の地図には大穴が空いており、そこで二つの大陸が立体的に繋がっていた。


「私が好きだったRPGで、終盤で地下世界と地上世界が繋がるものがあるんだ。そのマップを思い出して、これだ! って思ったの」


 そして二つの地図を重ね合わせることで、反例が成立しうる。立体的に五つ以上の領域が重なる地図が存在するため、四色で塗り分けできないという反例を恵は示したわけだ。四色問題においてこれが正解になってしまうのは作問上のミスといえた。


 四色問題とは、『あらゆる地図上の国を四色で塗り分けることができるのか』という数学の命題で、その答えは真、つまり『塗り分けができる』というものだ。既に証明されている問題なので四色定理とも呼ばれている。ここで『あらゆる地図上の国』というのは平面地図上に書かれることのできるすべての地図を指すので、「ぼくのかんがえたさいきょうのたいりく」みたいな架空の地図を作って議論しても良い。


 恵の答案は、穴の空いた地図を認めて描かれているので本来は不正解なのだが、試験問題には但し書きが不足していたため正答となっていた。これは作問側のミスで、全員が正解になるとか、後日何らかの対応が入るような気はした。そうでなくともカリキュラムから外れたこの問題には不満の声も多く、あまり歓迎されていない印象だ。普段なら点数について嬉々として語り合うような生徒たちが今回の結果返却ばかりはピリピリしていたのもそういうところにあった。


「京(きょう)ちゃんはどうだったー?」


 恵は俺の後ろの席に座っているクラス委員長に訊ねた。長い黒髪を腰まで落としたその生徒は、恵の問いかけに柔らかく答えた。


「わ……。京ちゃんなんでいつも私と一緒に勉強してるのにそんなにできるの!」


「私は家でも勉強しかすることないから……。でもメグちゃんも頑張ったじゃない。ほら、一緒にやったところなんてしっかりできてる、これって凄い成長だよ! 偉いよ!」


 委員長が恵を褒めている。向日葵に水をあげるように、委員長は恵にたっぷりと賛辞を注ぐことに余念がない。あまり褒められることの無い人が人を褒めること、それは自分に無かったものを創り出して他人に与えるというかけがえのない心の力なので、俺はむしろ委員長のことも褒めてやりたかった。シャイなのでなかなかできないけれど。


「おお、京ちゃんというライバルに褒められて満更でもないね」


「えっ、私メグちゃんを一度もライバルだと思ったこと無いよ? どちらかというと手のかかる教え子……いや、妹って感じ?」


「明確な上下関係! でもお姉ちゃん欲しかったから好き!」


 同じ勉強時間でも能力が違えば成績は違うだろうし、委員長は恵と違って時間があれば勉強をしているのだろう。中学校では生徒会長を務めていた学級委員長、佐伯京子は、俺が知る『誰よりも』不器用で優秀な人間だった。


「あのさ、春暢くんは最後の問題どうだった? 私、こういう考えて解く問題が苦手で……」


 彼女は最終問題でペンが進まず空欄のまま提出してしまったらしい。恵のように問題の裏をかいたりしなければ正解できるものではないのだが、何を書けばよかったのか本当に訊きたいようだった。


「委員長はやっぱり真面目だなあ。点数は散々だったけど俺も恵みたいに書いたよ。答えを知っていたからね」


「春暢くんは、やればできるのに努力しないよね。人の心ばかり読んでずるしちゃだめだよ?」


「厳しいな委員長。当日はどうしても集中できなかったんだよな」


「確かに、後ろの席だから気配は分かったけど、落ち着いてなかった。自分ばかりがみんなを見てると思っちゃだめだよ。私は春暢くんのことをいつも気にかけているんだから」


 今日も委員長は委員長的な愛に溢れているなあと思った。


 そうこうしているうちに担任が教室に入ってきて、恵は俺たちに手を振って教室の最前列に戻っていった。ふらふらしている生徒を見つけては、教諭は座席につかせるよう大仰に身振りしていた。


「お前ら早く席につけ。部活をやっていないやつらだって早く帰りたいはずだ。そうだろ、冬川」


 何の気なしに担任が放った一言が、偶然かどうか、教室の空気を止めて張り詰めた静寂を作った。窓側の席で頬杖をつき外を眺めていた冬川が、小首を彼に向けた。


「……」


 そそくさと自分の席に戻っていく生徒、恵たちの移動する最中、俺は冬川の口を開く様子、言葉が形を取って現れる前の唇の輪郭を眺めていた。


「今日の放課後は用事があるので、早く終わろうが私には関係ありません」


「そうか。なるほどな! 冬川」


 何がなるほどなのか。担任は寡黙な生徒のことも気遣っているぞというサインを送りたかったのかもしれない。しかしにこりとも笑わない冬川の返答に彼は小さく咳払いをした。


「それじゃあ、ホームルームを始めるぞ。まずみんなには冬休みの過ごしかたについてのプリントを配る――」




「京ちゃん、テスト終わったのにまだ図書館で勉強するの? だめだよ自分にご褒美あげなきゃー、人間は甘いものがないと死んじゃうんだよ」


 勝手に俺の椅子を奪って、恵は委員長の机に寝そべって彼女を見上げる。


「えへへ、すっかり予習復習が習慣になっちゃって。あーでも、言う通りに今日は喫茶店でケーキ食べながらしちゃおっかな。メグちゃんも部活頑張ってね」


「今日の担任のあの感じだと結構走らされそうなんだよねえ。試験勉強で落ちた体力を取り戻すためだとかいってさ。京ちゃん、一緒に下駄箱まで行こうよ」


「ごめん、私ちょっとお手洗いに寄ってからかな……」


「なんだと! 私も連れションする!」


「声がおっきいかな? メグちゃん」


――別に聞き耳を立てているわけではないのだが、このような会話が聞こえてしまうのだから仕方がない。というか定位置を奪われた俺は一体どこにいたらいいのか分からず非常に落ち着かない。多分立食パーティとか無理だと思う。恵を追い払って、俺はようやく落ち着くことができた。


 机に突っ伏して、教室から人がいなくなるのを待っていた。部活が解禁してすぐであるせいか、陽が落ちるのが早いせいか、いつもより教室に居残る生徒が少ない気がする。冬川羽佐根も何をするともなく自分の席に座って残っていた。ここからだと黒板の何も無い空間を眺めているのか、窓の外の学生の姿を目で追っているのか、冬川が何を思いながら生きているのか、当然のことだがよくわからなかった。俺はこのまま二人きりになるまで、下校時刻になるまで残っているつもりだった。


 昨晩の、ナイフを持って立っていた冬川の姿が、広大な暗闇のなかでランプを灯す人のような姿として思い起こされる。足元には銀幕のごとき水が薄く漲っていて、さざ波を揺らして明滅する。光源だと思っていたものは、鈍く輝きを返す得物だった。


 もちろんそこは住宅地を横切る何の変哲もない歩道だったし、その日は湿り気が霜として凝結した月明かりもない曇天で、冬川は両手に何も持ってはいなかった。俺が、そのように『視て』いただけで、彼女が、そのように『視ようとして』いただけだった。客観的には、ただ二人の同級生が夜中にばったりと会っただけで、しかしあの瞬間、冬川は俺に視られていることが、暗中でも気配に気付けるようにわかったのだ。幻想の共有というのは、集団幻覚の事例からあり得る話であるらしいが、共有した幻想を議論することは、それは幻想を打ち消す力を持たないのだろうか。覚めない幻想のなかにいながらも、幻想から覚めようとすることは果たして可能なのだろうか。


 目を閉じた。先日の数学の試験の様子を思い浮かべた。あのとき冬川は、シャーペンや咳払いの物音が埃のように散っていた教室のなかで、試験用紙を引き裂き、答案用紙に穴を穿ち、自分の身を切っては血を流し、蠕動しながら滅茶苦茶にナイフを振り回し切り刻みながらも笑っていた。その狂人的な激しさに、俺は全集中力を奪われ、とても問題文を読むこともできなかったことを覚えている。


 一体冬川に何が起きているのだろう。あのときの自覚はあるのか、それとも俺だけが視た幻想なのか。


 そんなことを――――訊いておきたいと思ったんだ。


「……で、会わせたい人がいるって聞いてたけど」


 顔を上げた。冬川が机を一つ隔てた先で赤いパーカーのポケットに両手を突っ込み、首を傾げていた。暖房が切られた教室は冷え冷えとしてきて、上着を羽織ったのだろう。


「すぐ来ると思う。まだちょっと待って」


「ねえ教室は寒いから喫茶店とかで話さない? そのほうが気が楽よ私。だってメニューの栄養表示とか、カロリーとか、読んで時間を潰せるものがたくさんあるじゃない」


「あれな、缶ジュースの成分表示とか話すことが無いとずっと読んじゃうよな。いやそうじゃなくって、いまから来る奴の都合でどうしてもここで話す必要があるんだよ」


 冬川は釈然としない様子だった。


「ねえその人って上級生? 私に『答え』をくれる人って……」


「その前にジュースでも買いに行こうか?」


「ホットココアがいいわ。これで」


 小銭の音が机の上で鳴った。これが本当の投げ銭か? 一緒に、というニュアンスは聞き取れなかったのか? 自分から買い出しを名乗り出たつもりはなかったのだが、仕方ないと思って俺は椅子を立った。だが丁度のいいところで、廊下のほうを見返ると、そこに生徒が一人立っていた。


「――やあ、久しぶり」


 俺はそうやって教室の前に立っている生徒に声をかけた。冬川も気付いたようだ。その生徒は俺に目配せをするように入ってきて、俺の後ろの席までやってきた。冬川は少し呆れたような驚きかたをしていた。


「話せる人って彼女? なんだ……誰かと思ったらうちの委員長じゃない。京子さんとはあまり話したことないんだけど……。私やだよ、信頼できる相手じゃないと、こんな話誰にもできない」


「ふうんなるほど、理解した。まずはこいつから信頼を勝ち取ればいいんだな」


 佐伯はにやりと笑った。いつもの委員長よりも少し低い声で、口調も異なる。様子が違うことが仄かに冬川にも伝わったらしく、怪訝そうな表情を浮かべた。佐伯は口を開いた。


「冬川、お前はいつもナイフを携帯しているそうじゃないか。それは人の目には見ることのできないナイフなんだろう。肉や物を切るためのものではなく、目に見えないもの、人の意識や思い出や、論理の流れという抽象世界を切る道具だ。誰しもが無意識にやっている心の操作を、君は意識的に取り出して、『ナイフの形』に具現化して振るうことができる。君はかつてそのナイフで、取り返しのつかない『過ち』を犯したことがあり、毎日、毎晩、いつまでもそのことを後悔し続けている。違うか?」


「――ちょ、ちょっと待って……京子さんっ、あなた何を言っているの!?」


 冬川は佐伯の発言に大きく狼狽し、それから俺のことを『きっ』と睨んだ。


「――いや、春暢……あんたが全部彼女に話したんだわ。確かに私は妄想癖があるかもしれない。それでも他人に話したこともない私の頭のなかだけの話を……あることないこと全部……それってデリカシーとか――」


 俺は頭を振った。


「違うよ冬川。俺は自分の目で見たままの話を佐伯に伝えたんだ。どう解釈したらいいか、相談に乗ってもらった。そうしたら京はその『心象風景』がどういうものか理解(わか)ったと言ったんだ。だから冬川と直接話してもらおうと思ったんだ」


「言ってる意味がわからない……さっきから、デタラメばかり言って、頭がおかしくなりそうよ……」


 冬川は力が抜けたように手近な椅子に腰を降ろした。背もたれに半身を寄せて、困惑したように眉根を寄せた。俺も佐伯もずっと、いままで冬川への気遣いなんて度外視で話を進めてしまった。そういう気遣いの欠如したこの二人だから、やっぱりこんなことになってしまう。でもこればかりは強引に言ってみないと、冬川の友人を作らないように誰からも距離を取る態度に隠れた、深い領域へは絶対に近づくことができないだろう。嫌われても構わないから、話したいことがあったのだ。そして冬川は、佐伯が参加したこの状況に困惑しているだけで、本当は自分のことなどとっくに理解(わか)っている筈だし、もし本当に俺や佐伯を拒絶しているなら、関係性は『切断』されている筈だった。そう信じて、俺はこの二人を会わせることにした。


 だからそうされていないということで、冬川の心がほんの少しだけ開いたのを感じる。


 でもここから冬川に向かってどのように声を掛けていいのかわからなかった。


「私たちは君を笑おうとしているわけじゃないんだ。私たちなら君の悩みを理解できるかもしれない」


 佐伯が一歩肉迫した。目の前の机にそっと手を重ねた。それが冬川の癇に障った。彼女はその手に白いナイフを握って佐伯を睨みつけた。


「佐伯さん、いつもと雰囲気が違うね。どうしたの? 私はまずそこに驚いてるんだ。いつものあなたは猫を被っていたのかしら? いま私は二重の不信感を抱いているのよ。いつもの態度が嘘であったこと、そして理解者面を始めたこと。虫唾が走るわ」


 佐伯には冬川のナイフは見えていない、だが俺の視線の動きで察したようだった。


「冬川、実は佐伯はさ――」


 答えようとすると、手で制止された。


「いいよ春暢。“俺”から話そう」


 そして佐伯は、その長い黒髪をかきあげる。委員長が絶対にしないであろう身振りをする。普段のイメージと乖離する仕草、声音、喋り方。一人称――


「俺は無性別だが、あえて“俺”と呼称する。『佐伯京子』が幼い頃、彼女の父親が事故に遭った。以来彼女は頭が狂ってしまった父親の世話をする健気な小学生となった。だがいつしか一人親を世話するストレスに耐えかね、彼女は乖離性同一性障害を患った。俺は彼女を守るために生まれ、いまではお互いに手を取り合って共生している、彼女のなかに生まれた交代人格『佐伯京(けい)』という」


 くつくつと、身体を震わせて冬川は笑った。


「馬鹿じゃないのあなたたち。漫画やラノベの話をしてるの? 酷い妄想癖で、中二病で、痛々しいわ。からかっているんだったら私、帰るわよ?」


 話をしたくないなら出ていけばいい。でも冬川はそうしなかった。この三人には共通点があり、それはこの馬鹿げた幻想を共有できることだった。


「中学生の頃、それも入学式初日のことだよ。慣れない新生活でびくびくしていた京子が、迷い込んでしまった体育館裏で男子の上級生に集団でからまれてな、その時から“私”は京子の代わりに学校へ通うことにしたんだ。ちょっかいをかけてきた奴、喧嘩を売ってきた奴全員をまあ様々な手法で黙らせてな。だが、当時の私の存在や、交代時の状況は京子の記憶に留めておかなかったから、京子は自分が学校へ通っている記憶が無いことに悩み始めたんだ。当然だよな。だが私は、後先考えずに振る舞ってしまったものだから、学校で悪目立ちするようになってしまい、ある意味で不良たちのリーダーのような立場になってしまい、京子に体を渡すこともできなくなっていた。そんな時に私たちを助けてくれたのが、春暢だったんだ」


 佐伯は俺のことも紹介してくれた。当時の記憶の断片を思い出したのか、佐伯は一瞬恥ずかしそうに視線をずらした。


「こいつは特別な感覚を持ってる。他人の心象風景を現実と重ね合わせて見ることができるんだ。俺はそれを『心象共感覚』と名付けた。春暢はその当時も、いま君にしたように、突然私の前に現れて、私の病気を言い当てたんだ。『佐伯のなかにもう一人の君が囚われて見える』ってね。そして、京子と俺を繋げるために尽力してくれた。お陰でいまこうして、私と京子は良好な共生関係を築けている。お互いの時間を喰い合うことなく、京子を学校へ送ることができているよ」


 冬川はいつの間にかナイフをしまっていた。沈思するように、どこか鬱陶しそうに、佐伯の話を聞いていた。


「春暢は人の心の風景から情報を読み取ることができるんだ。それで、ろくすっぽに話してもいないのに相手の問題を言い当てることができる。心が読める、というほど万能じゃないが、似たようなことができるといって間違いない」


 冬川が顔を上げた。いままでの俺の言動に辻褄が合いかけて、信じられない、信じたくないという様子だ。そんな冬川の表情を見て佐伯は理解してくれたと早合点してまた一歩近づいた。


「そのナイフ、銘みたいなものはないのかな? あるいは能力名ってやつだよ。ほら、ナイフっていうの、呼びにくいし、何かと困るだろう? 君さえよければなんだが……」


「な……名前? 何言ってるの……そんなものないわよ、ただ、気付いたらこれはこの手に……いや……」


 危機感にナイフを身に引き寄せて、嫌な予感をさせて冬川が口ごもった。佐伯は真逆に顔を明るくさせた。


「よし! それじゃあ私が名前を付けてやろう。何、案ずるな。昨晩中、ずっと考えてきたんだよ」


 この場にいる誰よりも楽しそうに、佐伯は言い放った。


「一匹狼の君に贈らせてくれ。

 ――――今日からそのナイフの名は『狼の形而上学パイドロスのナイフ』だと」


 空気が固まる。そんなこともお構いなしに佐伯京が活発に笑う。名前なんてどうでもいいとは思うが、あながち的を射ている命名なのかもしれないとふと思う。


 冬川は雪原の狼、アルファとして銀月を眺め、同時に孤独な兎の皮も被っていた。だが冬川の孤高の精神が結晶したものが彼女のナイフなのだと、俺はそんな風に勝手に重ね合わせてしまっていた。その切先が光るのは彼女の意思のせいなのだと。冬川は相変わらず面食らって、豆鉄砲を喰らったような面白い顔になってきている。


「さて冬川、そのナイフを私の前で使ってみてくれないか? 何が起こるのか見たい」


「そうね、ひとまず能天気なあなたの脳天に突き刺せばいいのかしら?」


 それから肩を震わせて、彼女は可笑しくてたまらないという風に笑い出した。


「あーーー! ちゃんちゃらおかしい! 何がパイドロスのナイフ。何が心が読めるよ! 恥ずかしいったらありゃしない! 二人だけで盛り上がっていればいいじゃない。おかしなことに私を巻き込まないで!」


 それで清々したという風に、冬川はバッグを取って立ち上がった。赤いパーカーのフードを目深に被って、拒絶の意思を示した。


「いまお母さんとうまくいっていないんだろ? その原因が、そのナイフにあると思っていて、問題を解決しようと思ってる」


「うるさいな。誰も知らないことを。それに、誰の助けも要らない」


「冬川がお母さんと別居していることは、近所の人から聞き出したよ。あそこは問題のある家庭だって言ってた、誰も真相は知らなかったけれど」


「近所の人……? 嘘よ、だって私は皆から忘れ去られて……!」


 冬川の白い腕を、佐伯が掴んでいた。その手にはナイフが握られ、切先は冬川の喉元に向いていた。水滴が重力に従って落ちるかのように自然に躊躇なく自身に刃を向けた冬川の瞳を、佐伯は真剣に見つめていた。


「それだ。君はそうやって矛盾に気付いては、自分の世界からそれを切除してきたんだ。いましようとしたのは、即時的な現実逃避。もう無意識になっているくらい、手慣れた動きだった」


 止められて初めて気付いたように、冬川の動揺は目に現れていた。


「正直、何十軒も聞き込んだよ。不思議なことに冬川の近所であるほど、誰も冬川羽佐根のことを曖昧に捉えていたからね。でも、誰もが忘れたわけではなかった。根気よく調べたら事実がはっきりしてきたよ。例えば小学生の頃、遠くの公園まで遊びに行っていた冬川を知っていた人がいたんだ。冬川は周囲の人の記憶から自分を消すことで、『誰も自分のことを覚えていない』と思い込もうとしていたんじゃないか」


 佐伯は冬川の落ち着きを確認してから手を離した。もう先程のような突発的な自傷は起きないだろう。なぜなら冬川は『自覚』したからだ。そして彼女は同じ過ちを繰り返すような理性を閉ざした人でもなかった。


「不都合な矛盾が出たら、自身を切断して記憶を失くす。あたかも自分は過去から切り離された存在であり続けることができる。でも、それじゃあ分からないこともあるって気づけただろ? ほら、一人じゃできないこともあるんだって。ちょうどここに三人いる」


「そう……なのかな? 私にはもう、よく分からない」


 俺は手を差し伸べた。


「冬川、君のナイフは正しく振るえばお母さんの問題を解決できるよ。どうすればいいは分からないけれど。その方法を、一緒に考えてみないか」


「どうやって……?」


「君がいつもやっているように」


 佐伯が諭すように声を掛けた。


「詳(つまび)らかにしていけばいいんだ」


 冬川は両手でナイフを握っている。目を閉じて、自分の記憶に、過去の感触に潜っている。苦しみの理由を、母の姿を、倒れ込み目を見開いている自分を、あのときのすべての出来事を――心のなかに展開する。


 ――――ナイフ。


 回転する憧憬の一点に切れ込みが入った。冬川は、ゆっくりと目を見開き、僕らの前で口を開いた。

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