05 紙の塔

 数学の期末試験に不備が見つかって、最後の問題は全員が正解ということになったらしい。僕は過ぎたことにあまり興味を持てなくて、今日も授業を受けながら、100年後のIT技術のこととか、アルコールを飲まないと生きていけない人間の心理とか、青春は楽しそうにしているかどうかの違いに過ぎず皆大体似たようなことをしているんじゃないかとか、つまらないことばかりを考えて時間を潰していた。僕の日常は、文章にして五行を書くことも難しいくらいに平凡で、今日も起伏のない時間が流れるだけの退屈な一日で、『十代の貴重な時間』といういたずらに生きることを焦らせる言葉にいらいらしていた。だが僕みたいに何もしないよりはずっとましだとも思っていた。


「アカリ。数学のテストの『四色問題』っての? 最後の問題、結局何て答えるのが正解だったん? あたしみたいな真面目な生徒にも分かるように教えてよ」


 朝日が椅子の背もたれの上で腕を組んで、僕に聞いてきた。


「珍しいじゃん、どうしたの」


「あたし根は真面目だったんだよ。これからは性格に正直にいったほうが気持ちいいなと思ったの」


「普段テスト食べてるのにね」


「そこまでバーバリアンじゃない」


 朝日はこの間まで脳は筋肉でできていると信じていた。


「先生が言ってただろ。問題が間違っているんだから、何て答えても正解になるんだよ」


「問題が間違っているなら、何て答えても間違いになるんじゃないの?」


 ちょっと話がそれてしまうが、それはよくある誤りの一つではあった。


「『空がピエロならば、犬は青い』『お金がクッキーならば、牧場から涙がこぼれる』これらは文章として間違ってるわけじゃないんだよ」


「意味がわからない!」


「問題というのは一個の世界なんだって考えてみてよ。狂ってしまった世界では、何て答えても正解になるのさ。ルイス・キャロルの世界みたく。その世界には間違いなんて存在しないんだ」


「分かったような分からないような。私が聞きたい地図のお絵かき問題の説明に入る前に、こんな難しい話になるとは」


「ていうか朝日、部活の時間じゃない?」


「ううん。今日は道場の日だから。師範が残業に追われてたらまた開始遅くなるし」


「じゃあ夜からなんだ」


「こういう時間も一人でできるトレーニングをするけどね」


「うん、なんか上げ下げして聞いてるなと思った」


 通学鞄を足で持ち上げてはゆっくりと降ろす動作を先程から続けている朝日だった。引き続き気にしないように、僕は自分の試験用紙を取り出した。


「大問4『どのような地図も四色で塗り分けられることを証明せよ』というのは、『四色問題』といって、数学上の難問の一つなんだ。歴史上、多くの数学者がこの問題に挑戦したが一世紀半のあいだ誰も正しく解いた者はいなかった。21世紀に入ってようやく解けたんだが、その証明方法っていうのが、コンピュータの計算力を使ったものだったんだ。つまりは地図を四色で塗り分けられるように、その“全通り”を、機械の力を使って解いてしまった」


「うんうん。――って、そんなことを生徒にやらせようとしてたの!? 結局人間じゃできなかったってこと?」


「そうだね。今回の問題ではいくらか簡略化はされてるけどね」


「うーん。続けて」


 朝日は納得がいっていない様子だった。


「おそらく加点式で、そもそも解けない問題をどう考えたかっていうところを採点したかったんだと思うんだけど。四色で塗り分けられない地図を見つけることができたら、この証明は破綻するんだよね」


「あーーー、へーーー」


「生返事だけど。五色以上必要な地図を見つけることができれば、『どのような地図も四色で塗り分けられる』というのは嘘でしたって話になるからね」


 ようやく得心いったらしく、朝日はこくりと頷いた。


「で、もちろんこういう地図は考慮しないって但し書きがある。離れた国と国を繋ぐ橋とか、空に浮かんだ国とか。こういうのはなし。でもこの問題には抜け道があったんだ」


 僕は解答用紙を筒状に丸めた。


「こうして真ん中に穴が開いたポールを考える。この表面に地図を描くとする」


「ふむ」


「ポール状の立体に地図を描くとき、七色が必要であることが分かっている。この形状に五色必要な地図を作るのはそんなに難しくないんだ」


「それが、問題が間違っていたってこと?」


「そう。センセイは作問の時点で、穴の空いた地図を描くのも禁止しなければならなかったんだね」


「ほえー。なんとなく、今回のテストで何が起こっていたのかは分かったよ。ありがとねアカリ」


「赤点にならなくて良かったね」


 朝日は試験はもううんざりという様子だ。


「……ところで、その問題の間違いに気付いたのは誰なんだ? センセイが自分で見つけた感じ?」


 この話については、朝日は筋トレも忘れて興味を持ったらしい。前のめりになって聞いてきた。


「いや、実際に答案に七色必要なポール状の地図を書いた人がいたんだって」


「へえ凄いな。そんな子が同級生にいるんだね」


「うちのクラスの冬川だって」


「羽佐根ちゃん?」


 前列窓側の、人のいない座席を見やる。物静かで、何を考えているかどんな性格なのかも分からない同級生だ。話したこともなかった。


「さっきの話だけどさ、そもそも機械がこの四色問題だっけ……? を解いたんだろ。全部の地図を考えて」


「うん、全通り……だと思うけど」


 朝日は、なぜか自慢気に腕を組んでため息を吐いた。


「……でもそんなに多くの地図を用意するのも凄いよな。だって世界中の地図を集めてきたんだろ? 凄いコレクターじゃん」


 あー。と、何と言ったらいいか分からなくなる。まず実際に宝の地図を集める大海賊よろしく世界中の地図を保管したわけでは決して無いのだが、それはそれとして全部の地図をデータとして用意するのもまた難しいと思ったのだ。「あらゆる地図」を意味するデータを作ったのか、無限に地図を生成したのかは分からないが、そこには別の工夫があるのだろう。


 朝日も考え込んでいる様子だった。


「機械ってのは、よくわかんないけどさ。世界地図を渡したら、これを四色で塗り分けられるまで頑張っちまう頑張り屋なんだろ? 私が作った地図を渡しても、ひたすらああでもないこうでもないと繰り返して、地図を塗り分けてくれる。機械なら文句も言わずにやってくれるんだろうな。どんな地図でもやってくれるのかな? もうこれ以上はあっしにはできやせん、無理ですって、あいつが白旗を上げる地図はないのかな?」


 朝日は、鞄をようやく手に持った。


「アカリ、話が盛り上がってきたところ悪いけど、そろそろ道場に行くよ。また明日な」


「うん。行ってらっしゃい」


 満足した様子の彼女の横顔には、僕のような陰りは見えなかった。その目は景色を見ているというより、この先に起こる予測不能な未来を瞬きもせずに見たがっているかのようだった。


 僕は嘆息する。


「朝日は疲れたりしないの?」


「……むしろテスト期間が長いせいで身体がなまっちまったよ。知ってるアカリ? 人間ってある程度ストレスがかかる環境で生きないと早死するんだって。サボるなよー少年」


「言われなくても僕は青春を謳歌してるんだ」


 僕は朝日の後ろ姿に手を振った。朝日はこの夏、空手道でインターハイに行き、そのまま優勝してみせた。スポーツに特化しているわけでもないこの学校を選んだ朝日は全くの異色の存在だが、周りの目を気にすることなく部活と道場の掛け持ちで自分の道に邁進している。僕は彼女の後ろ姿に語りかけたかった。どうしてそんな風に努力ができるんだ? そんな風にはっきりと自分の進む道が見えているんだ? って。


 四色問題が機械で解決されたように、多くのことが機械で解決されていくのだろう。単純労働が機械の労働に置き換えられていくならば、人間は頭脳労働に競争力を見出すようになる。そうなったときに差がつくのは、努力ではなく持って生れた才能なんじゃないだろうか。才能がない人間に、努力をする意味があるんだろうか。


 努力をする意味を考えたとき、それは幸福に生きるためだとか、社会に貢献することだとかが浮かぶのだけれど、僕は、そんなことのために努力という辛い思いをするくらいなら、何もしないでただ流れるように生きていたほうが楽だと思った。


 僕のような凡人の努力に意味があるのだろうか。


「僕は、努力する意味について考えたいな」


 そうひとりごちた。こんな痛々しいセリフ、誰にも聞かれていなくて良かったと思ったのだが、不覚にも背後に人の気配を感じて振り向いた。


 茜の差す教室の最後列で文庫本を読んでいる、学級委員長の佐伯京子が座っていた。


「考えたらいいと思うぜ」


 委員長はいつもの印象より何倍も冷たく、しかしどこか諭すような落ち着いた声音でそう呟いた。

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