04 痛みの音

 きっかけは、そう、すごく些細なことだったはずだ。私は昔から部屋の片付けが苦手で、失くしものがいつまでも見つからなくて困っていた。それで、もう本当に無い、例えばこれから履こうとしていた靴下とか、いまから出掛けるという時に限って家の鍵とか、学校で配られたプリントとか宿題とか、鉛筆とか、酷いときには書いたばかりの手紙とか、必死に探したのに、見つからないことがよくあって、それで泣きそうになって、真っ暗闇に落っこちてしまったような気持ちになって、いつも最後の最後に母親に助けを求めていた。


 そして大抵、失くしものは私が踏んづけていた足元から出てきたり、目に見えているところ、カーペットの上とか机の上とかに当たり前のような格好で落ちていたりして、母はそれを大抵一目で、ものの五分と掛からないうちに見つけて指摘する。そして、いま思えばもっと良い言い方が、「妖怪のしわざ」だとか、「周りばかり見ていて足元がお留守だったのね。これからは足元から探そうね」だとか、あったはずなのに、いつも自分で少しは探してから呼びなさい、とか、何でこんなこともできないの、とか言われて、取り立てて手を上げられたり立ち直れないほど罵られたりはしなかったものの、いつも突き放すような言葉を言われて、これで生きていけるような気がしなくて苦しかった。


 ああ、そんな昔のことは関係ないんだ。そうだ、あの時のことを。でも、記憶は全て繋がっているような気もする。『あの時』は口論になった。早めの夕食を取って、塾に行かなくてはいけない時間になっていて、雨が降りそうになって、母が車を出そうとしていて、私はいつまでも愚図愚図していた。ついには、行きたくない、と零した。母の玄関口で下足入れの天板を指で叩く仕草が止まった。先週も行かなかった、と言われた。私は、宿題をやっていない、と言った。だから塾には行きたくない。


 車出してるから、と声が聞こえ、玄関のドアが開き、雨の匂いが部屋に入ってきた。エンジンのかかる音がした。私は、動かなかった。しばらく待つと車のドアが閉められる音がして、玄関口から冷たい足音がやってくる。私の隣に母が立って言った。


「あんた受験どうするの」


 受けるよ、と言う。


「こんな風にしてたらいけないんじゃないの」


 私は頷く。だがどうしても、行動と表面的な肯定が一致していない。私は行きたくない。それだけなんだ。


 いい加減にしなさい! 母が鋭く声を上げて、私を打ちのめそうとした。

 ここで躓いたらこの先の人生どうするの! あなたのためを思って言っているのよ、手間かけさせないで! もっと幼い頃に、私が分からないと思って母に聞かされた言葉が不意に思い出されて、頭の中をぐるぐると回った。親は子供に投資しているのよ!


「そういう風だから、離婚したんじゃないの」


 私はふとそう言っていた。


「どうでもいいよ、お母さんなんて」


 もういっぺん言ってみなさい。


「どうでもいいよ、お母さんなん――」


 頬を張られた音が、肌の痺れと共に、鼓膜にじんと響いた。急に私はこの現実を茶番のように眺めている自分に気が付いた。母は私に詰め寄って、何かを言っていた。私は足から力が抜けていって、それで母が私に覆いかぶさるようになって、仰向けに倒れ込んだ。


「――――」


 私が何かを言った。


 あ――――


 何か声が聞こえた。


「」


 それきり急に静かになった。音が無くなったかと思った。雨の音だけがやってきているのが次第に分かった。何が起こったのだろう。私は、私の肩口に額を押し付けて、私の腰にのしかかっている母の重たさに気が付いた。何かがおかしかった。お母さん? お母さん。左手を抜いて、母の肩を揺すってみた。何も応答がない。母の下になっている私の右手の感触がおかしかった。右手の下が何かで濡れている気がした。そして私の右手の先端にある五本の指はこわごわと頑なに丸まっていて、何か棒状のものにしっかりと触れ合っていた。私は頭のどこかが痺れたようになったまま、それを静かに抜き取ろうとした。右手で何かを握ったまま、体を母の下からゆっくりと引き抜いて、母が糸の切れた人形のようにうつ伏せになる。そして照明のもとで自分の右手が握っているものを見た。


 私が握っていたのは、真っ白なナイフだった。斜めにかざすと玩具ではないことが分かるほど薄刃の、静かな凶器がこの手に転がり込んでいた。


 失くしものが見つからないのとは違う。無いはずのものがこの手にあった。異常さに私は言葉を失って、広がっているこの光景を凶器と照らし合わせて眺めていた。


 私は、そして、このナイフで、自分の母親を刺したのだと思った。そう思った――


 直後の私が何をしたのかを正確に思い出すことがどうしてもできない。本当は、救急病院に連絡して、意識を失っている母を速やかに助けなければいけなかったはずだ。しかし私は本当に電話をかけたのだろうか。自分の母を刺したと思ったそのとき、弾かれるように家を飛び出したのではないだろうか。いま私は叔父の家に暮していて、母とは別居している。


 私はどうしたのだろう。もしかして開け放されていた玄関のドアや道路脇の車を不自然に思った誰かが、家のなかで倒れていた母を救けてくれたのだろうか。


 だとしたら、母を刺したあと逃亡した私は罪を償わなくてはいけないはずだ。


 事故のあと、恐る恐る自宅のドアを叩いたとき、私を出迎えた母は、こう言った。


「あなた――――誰ですか?」




 あれから1年が経って、私は高校生になった。いまでも私のことを覚えていない母は、この家で一人で暮らしている。叔父は私のことを忘れてしまった母のことを、事故の後遺症だと説明したし、近所の人もそう噂していた。しかし私はこう考えていた。私がこの真っ白なナイフで母を刺した結果、母のなかから、いやこの世界から、『私が冬川羽佐根』であり『自分の娘』という『概念』が失われてしまったのではないかと。


 このナイフ、純白の刃を、私はいまも右手に握り込んで、街を歩き、いつものようにこの家の前までやって来た。ナイフを握りながら道でどんな人とすれ違っても、学校でこのナイフを振りかざしてみても、誰も私が凶器を持っていることに気が付かない。段々と笑えてきて、そして現実感が冷え切って何も感じなくなってしまってからかなりの期間が経った。人に見えないものが見える。馬鹿には見えない服を見栄を張って着ているということにして、その思い込みを周りの人にも無理やり認めさせようとする童話があった。私は人に見えないナイフを自由に持ったり、隠したりすることができる。そしてそのナイフに切られた人は大切な概念を失うのだ。こんな空想を誰に信じてもらえばいいのだろう。


 今日も意味なく、こんなところにまでやって来た。かつての自宅の前はリビングにだけ灯りがついていて、閑散としていた。母との大切な繋がりを切断してしまった私は、たびたび夢遊病者のようにこの家の前に来ては、何もせずに踵を返して帰る日々を送っている。いま私は何をしているのだろう。どうしていきたいのだろう。


「冬川」


 名前を呼ばれて、振り向いた。学ラン姿の見覚えのある高校生が立っていた。彼は……名前が思い出せない、同じクラスだったろうか、何か用だろうか。


「オレオレ、春野だよ。冬川羽佐根さん」


 と、彼は言った。寒そうに体を縮こまらせていた。


「ごめんなさい私、名前を覚えるのって苦手で。……でも思い出した、春野春暢。すごくシンプルな名前だから」


「覚えてもらえてるなんて光栄だよ。いつも近寄りがたい雰囲気。俺の中ではとっくに有名人なんだ」


「一人のなかだけなら有名ではないのでは? 春野くんこそこんなところに何しに……まさか、学校から尾(つ)けてきたの?」


 彼は否定の意を必至に身振りで表した。


「いやいやいや、そんなつもりじゃなかったんだ……偶然だよ」


「そんなつもりじゃ?」


 そう言うと彼は、私の手元を見て黙ってしまった。


「用事がないなら、またね春野くん」


「待ってよ冬川」


 少し強い口調で呼び止められたので、私はむっとした。


「何?」


「冬川は『裸の王様』って童話知ってるか?」


「……もちろん知ってるけど。富、名声と女、全てを手に入れた王様が歌舞伎町の一等地からジャグジーに浸かりながら夜景を見下ろすんだけど、結局本当の愛だけは手に入らなかったって話でしょ」


「何でアンデルセンが東京を描写してるんだよ。あと歌舞伎町は一等地じゃないから」


 本当は裸であることに気付いている王様には、後戻りをするチャンスがあった。気付いていない私は王様より愚かなのか。体の芯がかあっと熱くなるのを感じた。


「春暢は何が言いたいの」


「別に。ただ俺だったら、王様の話をただ聞いてやることならできると思うんだ」


 私が一歩前に出ると、春暢はあとずさった。一歩足を踏み出すと、彼もその分また下がる。やがて道路脇の塀に彼の肩がぶつかって彼は追いつめられた。


「どういう意味か。言いなさい」


「わ、わかった……からかって悪かった。だから、その『ナイフ』を下ろしてくれよ? いくら切れないからって、目の前に刃物があったら、ほら、落ち着かないよね」


 その言葉を聞いて、彼の前に白刃を見せたまま、私の呼吸は詰まった。人は孤独であるほうが美しいと思う。ありうべきでないものが見える私はこのまま孤独になれると思ったのに。


 気のせいかもしれない。でも確かに、どこかで世界の壊れる音が聞こえたのだ。

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