03 夕焼けの吹き溜まり

 学校で出された課題を食卓で解いていると、西陽のなかでいつまでも時計の針が進まないような気がする。学校終わりにアトリエへ向かうと、部屋はちょうど朱色に染まって水槽のようだった。高校生でいられる時間が人生のなかでこの上なく貴重であるのはよく分かっているつもりだけれど、部活も趣味もやっていない僕がどうやってこの夕焼けのように命を燃やしたらいいのか、宿題をしながらそっちの方に途方に暮れていた。


 僕は迷ったら行動するタイプ。だけれども、どんな簡単な問題も乗り越えられない人間だ。いや、そんなことはない。自分にできることは文字通りにできる。例えばこうして宿題を済ませることとか、家事を行うこととか。だが、僕には自信がない。なぜか。人には誰かに見られていなくても全力を尽くすべきときがあって、その機を掴むことはできると思う。ならば十分ではないか。僕は何か、受験とか芸術とか、ものすごく難しい壁に挑戦するべきなのだろう。そうして初めて分かるようになるんじゃないか。人生とはきっとそういうものなのだ。


「何なんでしょうね……」


 ぼけっと呟いていた独り言は僕が宿題に苦戦している形となって宙に消えた。作業場のほうから感じられる張り詰めた空気は相変わらず静かで、一瞬弦が弾かれたような咳払いが聞こえた気がしたが、やっぱり気のせいだった。それくらい、「夕陽」が作品に集中しているのが分かる。


 小気味の良いリズムが僕の耳を打つ。絵筆を滑らせる音、床に敷いた紙の擦れる音、絵の具から筆が引き剥がされるけばだった音が聞こえてくる。そうした絵描きの擦過音は、作業に没頭している人のための音楽だ。僕がこぼした独り言も、聞こえなかったのではなく、夕陽の音楽に吸い込まれてしまった。まるで月のクレーターの引力だ。


 僕は課題が一段落して、時計を見る。そしてダイニングから開け放された作業場の様子を伺った。壁一面の絵画の一部のように、夕陽が脚立の上に座っていた。作業場のドアは開いているが、一応ノックをしようとして、手が止まった。


 栗色の髪が流れて、絵のなかの水滴に濡れているように見えて、キャンバスの上方から頭ほどの高さまで流れる水を筆先で受け止めていた。横顔は微動だにせず、目の焦点が深くキャンバスを見つめている。そのまま白い顎先が上を向き、目がらんと輝いたような気がした。ぽかんと口を開けて、次の色を筆で取るためにパレットとキャンバスの距離を近づけようとして、座っていた脚立に立ち上がろうとした。宗教画のような、聖水を捧げ受ける女の人を描いているのだと、僕が気付いた瞬間だった。


「ふわっ――」


 僕から四メートルほど手前で、夕陽が無防備な体勢になる。お互いからああっと声が出る。脚立が傾いて夕陽が片足一本となり、そのまま仰向けに宙に投げ出された――――


「ひえー……また転んでしまった。あれ、アカリどうしたの?」


 と、綿の山に転がって夕陽がこちらを向いて、滑り込むように倒れている僕を見つけた。夕陽は何度仰向きに倒れても大丈夫なように脚立の後ろに綿を敷いていたし、僕は僕で思わず踏み出した足にコンセントから延びる照明器具のケーブルが絡まって頭からつんのめっていた。この安全装置の存在を忘れていたのは、巨大な絵画を描く光景に目を奪われていたからだが、それを説明するのは難しいなと思った。


「えっと、夕飯できたからさ、冷める前に呼びに来たんだ。呼んでも良かったかな」

「ううん、ちょうどきりのいいところだったから。せっかくだからアカリも一緒に食べようよ」

「今日はそのつもり。夕陽はきりがよくなると倒れるんだな、覚えておくよ」

「アカリもそんなところで寝たら夜眠れなくなっちゃうよ。ちなみに今日の晩ごはんは私の好きなものかな?」

「ハンバーグと炊き込みご飯と味噌汁、海藻のサラダ」

「いやーよだれが出ちゃいますな」


 意外にも夕陽が肉派、朝日が魚派だった。それはとても良く知っていた。とにかく僕は夕陽の夕食を作ってあげられたら満足で、今日はもうすることがなにもない。


「それじゃあ、飯を食ったら僕はお暇(いとま)しようかな――」


 不意に僕の髪に夕陽の左手が伸びてきて、耳元がくすぐったい。夕陽がおかしそうに笑って僕の手のひらにちょこんと綿のかけらをのせた。「綿毛」と言うので、思わず笑ってしまう。僕はいい加減に立ち上がって、夕陽はオーバーオールの作業服についた埃を払った。




「さいきん学校ではどう?」


 僕が何気なく夕陽に訊く。夕陽は口いっぱいにご飯を頬張っている。何気ない風を装って聞いたけれど、ほんとうは学校生活がどのような様子なのか気になっていた。


 聞いたあとで、僕はしまったと思った。僕は、夕陽が学校で活動を邪魔されているならば、それを阻止してあげたいという気持ちでも起こったから聞いたのか。自分から出てきたその感情は、偽善という名前がついているような気がした。もちろん夕陽にとっては単なる世間話のひとコマで、いつもの通りのけろりとした表情をしていた。


「楽しいよ。いまそっちのクラスでは数学とか英語ってどの辺やってるの? 絵のことを考えてると授業についていくのが大変だけど、みんなも似たような感じみたい。この前のテスト前なんかひいひい言ってたけど、みんなで勉強会したよ。これが友だちってやつだね」


 そういえば、かつて夕陽はひとりで遊んでいることが多かった。勝ち気で暴れん坊な姉の陰に隠れて、ひとりで画用紙に絵を描いていたり一人遊びに興じている姿が容易に思い浮かぶ、物静かな少女だった。だけどいまはうまくやっているみたいだ。


「アカリはいま楽しい?」


 今度は夕陽が訊ねた。


「楽しいよ、ほんとに」


 あまりにも答え方が嘘っぽくなってしまったので、「だってこんな風にアトリエで好き勝手料理できるなんてさ!」などと付け加えたい衝動も起こったのだが、気持ちをこれ以上取り繕うのも恥ずかしくてやめた。


「ずっと気になってたこと、ひとつ聞いていいかな」

「やけに今日は聞くんだね?」夕陽が小首を傾げる。

「ごめん」

「ううん、何でも言ってよ」


 野暮なのは分かっているけれど、僕は聞いた。


「夕陽は絵を描いていて、プレッシャーに負けたりすることはないのかな」


 僕だったら、と思うことが夕陽を見ているとよくある。大衆に望まれて、大作に臨んで、緻密さと創造性を同時に期待されて、どんな気持ちで毎日毎晩、休むことなく絵筆を取っていられるのか、と。


――絵を描くのが「怖い」と思ったことはありませんか?


 画面の前の夕陽は巨大なキャンバスを背にして、インタビュアーからの質問に答えていた。夕陽は口許に穏やかな微笑を浮かべて、ゆっくりと言った。


――いいえ。私にとって絵を描くことは、生きることそのものですから。多くの絵を描いて、恩返しをしたいんです。


――恩返しとは、お父さんやお母さんにですか?


――まだ出会ったことのない人にも、どこかで必ずお世話になっているから。


――夕陽ちゃんにとって絵って何ですか?


――「贈り物(ギフト)」。神様からもらった光です。この光の暖かさを皆さんに届けることが、私の生きる目的です。


 夕陽は味噌汁を飲むのをやめて、僕のほうを向いていた。いつものように口を少しだけぽかんと開けて。そうして当たり前のような感じで、言葉が引き出されてきた。


「怖くてしかたがないよ。でも私にはこれしかないから、どうしても負けられないんだよ、自分自身に」


 そうして一気に味噌汁を飲み干して、椀を付き出す。


「うまい! おかわり!」


 僕は嫉妬とか尊敬とか、そんな一言では言い表せない感情を抱いて、けれどそんなことは本当にどうでもよくて、ただただ突き出された椀を夕陽の手から嬉しく受け取った。


「味噌汁だけでいい? 御飯もあるけど」


「じゃあ御飯も半分だけ食べる」


「あい分かりました」


 絵を描くとお腹が空くのだろう。夕陽はもりもり御飯を食べる。僕は栄養管理役として彼女のサポート役に回りながら、僕自身にも何か燃やせるものは無いだろうかと考えていた。彼女のように、何もかも、灰燼(かいじん)と帰すまで。

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