02 春暢の共感覚

 コーヒーカップをソーサーに戻す時、手の震えを相手に気取られないようにするので実は精一杯だった。こちらを観察する相手の視線をいたたまれないほどに頭上に感じながら、テーブル上のスマホの辺りに落ち着かない両目の焦点を彷徨わせるようにして逃がしていた。ディスプレイに浮かんでいる写真は、蛍光灯らしい照明を受けて光っている、ナマコのように青白い人間の腕であって、それを一層生き物らしく見せているのは、ほとんど平行に幾筋も刻まれた赤い線があるせいだった。甲殻生物の筋の部分が、スマホ上の画像の赤い筋の部分と重なって、いまにもうねるように動き出しそうなおぞましさに震え、俺は咄嗟に画面から視線を外して網膜の裏に焼き付いた映像を単なる画像として捉え直した。


 そのいわゆるリストカット痕を、漫画媒体などで婉曲表現されるものでなく現実に見るのは初めてだったが、自分が打ちのめされたのはこうして突然眼前に現れた現実的な写真によってではなく、それまでの相手との言葉のやり取りや、ここに来て次々と明かされることになった真実によってだった。


「君に会うまでは、自分のリストカット痕を見せたいって話をしていたけれど、実はこれは私の元彼の腕なの」


 元彼、と言うその人の軽い言葉遣いがここではどうしても薄気味悪く、使い方を誤っているかのように響いた。化粧気の薄い目の前の女性は、浮かべた愛想笑いに強張りがあって、二十歳そこそこで社会に出る前にして、この世の中の誰も訪れない隘路にあるような人の不幸をその目で見てきてしまったかのようだった。背後の見えないところから伸びる何本もの鎖が、その人の首や足や腕に巻き付いていた。


「ごめんね。最初から本当のことを言っていたら、相談になんか乗ってくれないと思っていたし、こうして反応を見て信用できるか、決めたかったの」


 自分が店内で待っていて、その人がやって来るところから、既に鎖はその人の全身に巻き付いていた。その係累の巨大さに、俺は固唾を飲みこんだ。


「それにしても、なんとなく今までのメッセージの感じからこの人は歳上じゃなくて歳下なんじゃないかなと思ってたけど、まさか高校生だったとはね。その制服、この辺りの進学校だよね。でもこんな訝しいことしていていいのかなあ?」


 その人が言っているのは、俺がアプリを利用して今日こうして二人で喫茶店で会っていることを指していた。高校生でありながらそんなことをしたのは、アプリを通して見知らぬ人とメッセージのやり取りをし、そうして悩みを聞き出し、人生相談を受け、最終的には今日のように実際に会って話をして相手の悩みを解決に導くというような活動をするためだった。その過程で歳上を騙ったことは認める。


 しかし俺はこのような活動を常習的に行っているわけではなかった。今回の人が実際に会って話しをするまでに至ることのできた最初の女性だったし、この人が、言うならば自分の最初の『クライアント』だった。しかし、これが最初で最後になるかもしれないほど、自分は打ちのめされている。自分は大当たりを、あるいは大凶を引いてしまったと、一目見て確信することができた。


「先ほど元彼、と言いましたけど、ここではやっぱりあなた自身の話をするべきなんだと思います。何故なら既にその彼は亡くなっている。だから彼の問題はあなたが取り込んで、あなた自身の問題になっている。もっと言えば、あなたは彼が自殺を選んだことを、自分がそう仕向けたからだと考えている。違いますか?」


 今度は相手の方が動揺を押し隠そうとして咳払いをし、目線が合わなくなった後に、不自然にティーカップを掴んでいた手にもう片方の手を添えた。その仕草が何よりの肯定の意味を表していたし、手を添えた仕草から隠し事をせずに話すという意思を固めたことが伺えた。


「お辛いでしょうが、もし可能であるならば、俺に経緯を話していただけませんか」


「本当に、ちゃんと伝えられるかどうか……分からないけれど」


 そうして彼女は話し始めた。自身が付き合っていた人に監禁されるようになった過去を。


 高校時代に付き合うようになったその彼は、精神に不安定なところがあって、遺伝的に躁鬱の気が強かった。家庭では、中学時代に二歳上の兄が自殺しており、彼の人格形成に強い影響を残しているようだった。大学に入ってから彼と同棲するようになったが、彼の精神の不安からくる独占欲や拘束の強さは、次第に軟禁となり、いつしか監禁状態へと変わっていった。


 彼女を自宅に鎖で縛り、自分は通学から帰ってくると、彼は毎日泣いて謝ったのだそうだ。彼女の人生を奪い続ける、自分のしていることを悔い続けながら、罪悪感にのたうち回りながら、謝罪しながら、彼は最後まで自分自身の矛盾を解消することができなかった。


 同じく高校の同級生だった、彼女と彼の共通の友人の介入によって監禁状態に終止符が打たれたあと、彼女はようやく実家に戻ることができた。二人が離れたあとも彼はメールを送り続けており、そのやり取りの中で、彼からリストカットをした直後の生白い腕の写真が送られてきたり、ロープによる自殺未遂によってついた首の痣の写真を撮って送ってきたりした。最後には彼の自殺は成し遂げられ、首吊りによって人生は閉じられた。


 本当にやれない過去だ。誰かが介入して救ってやるべき過去だった。彼女の首に巻き付いている鎖にぶら下がって、床に溢れた深い深い暗闇の底に、首を吊っている男の姿が見える。あれが、いま彼女の話に出てきた元彼なんだろうか。不意にこちらを向きそうで、穴の空いた眼窩と目が合いそうで、僕は共感することを直ちにやめたかった。油汗が溶けた蝋のように机上に垂れた。


「……何と言ったらいいのか、何と言えば少しでも慰めになるのか。こんな風にお呼びしてお話を伺った上で許されることではないと思うのですが、いまの俺には何か言えそうにありません。ただ、あなたに巻き付いている鎖の先には何も見えませんでした」


「ありがとう。私と同じ気持ちになって、苦しみを一緒に受け持ってくれる人がどこかにいるのかもしれないと思ったけれど、話せただけでも、よかったかな。うん、多分もう一人でも大丈夫だと思う。これも全部一年前の話なの。いまは実家で休んでいてね、あんなに色々なことがあった後でも、少しずつ消化されて、おぼろげに忘れていくんだね」


 彼女がそう言って、今日ここに来て話したのは、忘れるためではなくて、思い出すためだったのではないかと思った。


「今後は、どんな生活をしていくんですか?」


 聞くと彼女は、一年間の通院と自宅療養のあと、休学していた教育系の学校に通い始め、何年か掛かっても卒業する予定だそうだ。半年後には教育実習が始まるという。そんな風にまた立ち上がれる彼女みたいに強い人が一体どれだけいるのだろうか、小学校の先生になることが彼女の昔からの夢なのだという。


 首に巻き付いた鎖の遠く彼方には首を吊った男が、自らへの責め苦の果てに救いを求めていたのか、恨んでいたのか、生きている者には伺い知れないまま虚無を咥えて俯いている。足に巻かれた鎖の先には彼女の家族の情景が見えた。このひとの家族は、彼女の帰る場所、生まれ育った家にいて、両親と、兄弟達とで笑っていた。腕に巻かれた鎖の先には今まで出会ってきた友人たちが見える。彼女を救出してくれた、高校の同級生がいた。学校の友人たちがいた。そして、彼女の目の前には光が開けている。これから出会う子供達の姿がおぼろげに輝いていた。


 彼女はそれら全ての鎖の先にあるものを引きずって、光ある未来の方へ歩いていくことを決意していた。この喫茶店に来る前から、それはもう決まっていた。今日こうして喋ったことで、その光はまた一層強くなったようにも見えた。自分はそう思いたい。


 帰り際に、彼女は言った。


「君もね、私の元彼に似たところがあるって感じるよ。マッチングアプリでこんないかがわしいことしてないで、真面目に学校に行きなさい」


 共感覚というのは、一つの刺激に対して、複数の感覚を抱くことだ。


 人の姿や感情表現に、映像やイメージが見えてしまう俺は、人の心象に対する特別な共感覚の保持者なのだという。この特性を何かに活かしたくて、悩み相談なんてものをやってみたけれど、俺が直面したのは、自分の力ではどうにもならない人の不幸の淵だった。彼女は俺が何かするまでもなく前を向いて生きる道を選んでいたし、ならばその逆もありえただろう。そんなときに俺にできることというのは恐らく、信頼できる病院や大人を紹介することや、警察に通報すること、そういったことだった。


 彼女と別れ、喫茶店をあとにして、俺はまた、生きている意味が分からなくなったような気持ちになって、音もなく色も無いような見慣れた帰り道を歩いていた。


 駅前からバスにも乗らず、ずうっと歩き続けた。とある民家の前で、自分の学校の制服を来ている人物を見かけた。挙動不審に立っていて、インターホンを押そうかどうか迷っていた。よく見たらそれは、先日の期末試験で、俺の集中力を大いに奪った同じクラスの冬川羽佐根だった。そうしてさらに注視すると、その右手には真っ白な刃物が握られているのだった。

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