01 ルサンチマンダンス
取るに足らない凡人である僕の思弁が、この先数ページに渡って続くことになる。ご容赦頂きたい。
西陽に埋められたこの一室に、僕一人がぽつんと佇んでいる。この部屋の持ち主は裕福な、怒るところの想像のできない大らかな老人で、この部屋を使用することを彼から許可されているのは僕の昔からの幼馴染だ。この部屋にまつわる人間はその二人だけなので、僕がここにいることはいささか不自然ではあるのだが、僕はこの部屋の持ち主である老人と利用者である僕の幼馴染から、この部屋にいることの許可を貰っているので、不法侵入というわけではなかった。この部屋の鍵の場所は玄関ホールの郵便受けの、部屋番号が色々と書かれているもののうち、管理人室を指すポストの中にあることを僕は教えられていた。
僕は素朴な木製の椅子に腰を落ち着けて、ただ部屋の一端を眺めている。東側の壁面を全て覆い尽くすように巨大なキャンバスが広がっていて、そちらのほうには窓から光は差さないようになっている。キャンバスに描かれた抽象画の彩色の優雅さとか、モチーフの描き込みの緻密さとか、見ている者たった一人の感情に迫ってきて奥底から揺るがすようなダイナミズムとか……残念ながら僕の評論能力でこの絵についてを語ることはできないのは分かっているんだけれど、僕のようなちっぽけな人間を吹き飛ばして虚無の彼方に追いやってしまうような巨きな絵が、視界いっぱいを埋め尽くしていた。
にも関わらず何故だろう。僕の心はざわつくということをしなかった。申し遅れましたが、僕は近くの高校に通う平凡で無才で無学ゆえに純真な男子高校生なのである。それがこのような素晴らしい絵を見て何も感じないというのは、少しおかしくはないだろうか。いや、素晴らしい芸術作品を見た際に感受性が反応しないというのは、その作品を鑑賞した人物に芸術や美学の才能、教養や審美眼が無いということが言えるだけで、特におかしくはないだろう。だが、この絵に対して何も感じないというのは、明らかにおかしいのだ。何故ならこの絵は僕の昔から連れ合ってきた『幼馴染』が描いたもの、彼女が命懸けで描いた魂の結実の結果であるからだ。
それとも、この絵が完成を遂げたら、そのとき僕の心は初めて揺り動かされるのだろうか。僕はこの絵が更に数層の厚みを獲得して、偉大な作品として世界へ羽ばたくことを確信している。だから僕は未完成であるこの作品に敬意を払っていた。きっとこの絵は素晴らしいものになるだろうと確信できる何かが、この絵の全てに既に描かれていることが、素人の目にも分かった。何故なら、この絵のなかには地殻や内蔵や、神経組織といった生命の源が形を取って動き出そうとしていることが分かるからだ。油絵はそのように色が重なり合って出来上がる。
まあいい。僕が何を思ったところで、特に意味は無いだろう。感情は言葉として物質世界に飛び出した瞬間に砕けて消えるようなものだ。何かを思う代わりに、僕はキッチンへと向かった。ずうっと絵を眺めていたのは料理の待ち時間を消費するためであり、事務所には清潔なシステムキッチンが用意されており、ここで気持ちよく料理が作れることは、とても恵まれていると思わざるを得なかった。鍋の蓋を取ると香ばしい蒸気と共に飴色に煮込まれたじゃがいもが小気味よくつゆを沸騰させて顔を覗かせる。
そう、母親のレシピに忠実な何のアレンジもない素朴な肉じゃがだが、えんどう豆さんがいつも外見に気を遣わないジャガイモや玉ねぎに彩りを添えてくれており、人参くんもはにかみながらも喜んでいるんじゃないかと思う。例えるならパーティに僧侶(えんどう豆さん)が入ってくれたお陰で回復担当が味の濃さを中和し、調和を司る魔法担当が自分だけじゃなくなったことに対する心からの安堵を、煮込まれている人参くんから感じるのである。
「ィィィヒィィィハァァアアアアア!」
……すまない、クッキングハイになってしまった。不意に冷静になったときの血圧の低下に立ちくらみがしてきて、僕はうっかり手元を誤らないよう注意しながら食器棚から深めの皿を取り出してきて、出来たての肉じゃがを盛り付けた。
豚汁も作っていたし。高野豆腐も用意していた。一汁三菜というけれど、彼女は一度にしっかりと食べるよりは、数時間ごとに作り置きを消費する不健康スタイルを取りたがることもあって、こんな品数でも量を多めに作れば――僕は非推奨なのだが――十分だった。栄養はバランスも大事なのだけど、むしろ量を調整することのほうが大事ではあって、ストックを怠るとあれは夜中にスナック菓子を食べたりピザを取ったりしてしまうので、満足感と栄養と量のバランスには注意を払っているつもりだった。
二人分の料理を順次、ダイニングテーブルに運んでいく。一方の料理にラップをかけて、空の茶碗を伏せる。ご飯は保温しておいて、食べるときに自分でよそってもらえばいいだろう。ちなみに「よそう」を漢字で「装う」と書くと非常によそぅよそぅしいよね!
「ほれ、食え!」
「ワンワン! いただきます!」
僕が号令をかけると、ラップをしていない方の料理をかきこまんとする、長い黒髪の女が、口の周りをべとべとにして、一心不乱に食事と格闘を始めた。
数分後、自分の分を全て平らげ、げっぷを一つ。柏手一つ。
「ごっつぉーさん」
「うん」
「さて、いつから私が部屋にいることに気が付いていた?」
「僕が肉じゃがの鍋を開けてクッキングハイに陥った直後くらいかな」
「一番見られたくない瞬間だよね! よく顔に出さないでいられたね!」
「僕、料理してる間は完全にエン○ラータイムだからね」
「こんなところで見てるこっちが怖くなる無敵感出されても」
「うるさいうるさい趣味に没頭するのなんて人の勝手だろ」
「クラスに話せる友達のいない陰キャがはしゃいでるの私だって見たくないんだが」
「えー……すっげー手厳しいんだけど。深く傷つきました」
彼女は深皿を突き出した。
「それはそうとアカリの分の夕食を平らげてしまったのですが、凄く美味しかった。また腕を上げたみたいだな、ええ?」
「僕の分だと思ってたならもっと悪びれてほしいんだが、それは朝日のために用意しておいたんだよ。大会後は練習少ないの知ってるし。どうせ来るだろうなって思ってたからさ」
自分の分は、帰宅してから、母親と二人分を別に用意して、適当に食べることになるだろう。それはそうと目の前の女が一瞬でも完全に自分の料理に陥落したところを特等席で見れたので、僕は大変満足していた。
ところが黒髪の女はしばらく固まっていて、色白な顔がA5ランクの牛さしみたいに徐々に赤くなっていって、クラスの皆に寝言を聞かれたときみたいに妙にあたふたし始めた。
「え、そうなんだ……それは、なんか、あれだな……さっきの料理は私のために作ったアカリの手料理ってことで……ああ、そうか、えっと、つまり……さ、サンキューな、アカリ」
「いま背筋を妖怪みてーな怖気が走ったんだが、何でだろう」
「縊り落とすぞ☆」
「っていうか試合後は練習が少ないわけじゃなくて研究が多いの~」などと言い訳をしている彼女を尻目に、僕は既に料理の平らげられた食器を片付け始めた。油汚れをすぐに落とすことのできるこの瞬間が僕は大好きだった。茶碗以外は水に浸けておく時間が勿体なくて、いつもすぐに皿洗いをしてしまう自分がいる。ありがとう洗剤会社さん。素晴らしい技術開発のお陰でお皿を擦るとこんなにもピカピカになります、その音色は僕にとって至上の調べです。
「へー……いまこんなの描いてんだねあの子は」
いつの間にかアトリエとして使われている部屋の方で椅子の背凭れをかき抱くように座っていたあいつが言う。ここからだと横に流したポニーテールの夜の運河のような流線と、仰いで見上げるその上気した横顔と、たまらないように覗く白く揃った歯並びが、その感情の全てを物語っていた。
「くっくく、でっかいねえでっかいねえ」
本当に楽しそうに笑う。双子の妹の成長を喜んでいるのが伝わってくる。幾ら距離を離しても追いすがり、はたと気付けば追い抜かれている唯一の好敵手の存在に、愉悦と高揚と、そんなものを超えた奇跡とか幸運とか、素早く瞬くような凝縮された幸福を感じているような声音で、くつくつと笑っている。
「あたしは芸術なんてものは分かんねーけどさ、格闘技ならさ、あの子が絶対勝てない相手に向かって、一歩も引いてないことが分かるんだ。そういうとこ、すげーあたしに似てると思う」
「僕さ、その絵を見ても、何も感じなかったんだ」
食い気味に、不思議なほどすんなりと、僕は彼女に自らの最低さを打ち明けていた。この作品に何も感じられない自分を、作者の実の姉はどう思うのか聞きたかった。いや、本当にそうなのだろうか……? 僕の口が半ば勝手に言葉を紡いでいる。
「そんなことってありえるのかな。幼馴染がプロの芸術家として作品を生み出しているのを間近で見て、何も思わないなんて、人として最低なんじゃないかな。もっと打ちのめされたり、興奮と感動で一杯になったり、自分にもなにか才能が無いのか必死に探したりするんじゃないかな」
「アカリはヴェートーヴェンに嫉妬する?」
懐に質問が飛び込んできて、考えた。しない。アインシュタインやダ・ヴィンチ、ナポレオン、岡本太郎にも、嫉妬はしない。ああはなれないし、なろうとも思わない。辛くて辛くて苦しくて苦しくて、<自由>な人生に、憧れたりはしなかった。
「残酷なことを言うと、夕陽は、アカリの手の届かないところに行ったんだろうね」
なるほど、と思った。憧れる力すらない情けなさの味を覚えつつある僕の中で、その一言は他人事のように響いて消えていった。
高校で空手道のインターハイを二連覇した真込朝日(まごめ あさひ)が、妹の作品に目を奪われている。世界中の人々の心を奪った芸術家、真込夕陽(まごめ ゆうひ)の製作途中の作品が、こんなにも近く、目と鼻の先で油絵の具の匂いを立たせて作者の手による完成を待っている。
僕は、星見明(ほしみ あきら)。この双子にはアカリと呼ばれ、同じマンションの下に住んでいる。昔は三人でよく遊び、勝ち気な朝日が僕らを遊びに連れ出し、繊細な夕陽は僕の後ろによく隠れていた。年月が経って高校生になった僕は僕のままだし、誰がどうなろうが関係がない、一個の平凡な男子高校生として、夢のない毎日を生きている。
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