蓼食う虫も好き好き
男が見た光。それは参考書への書き込みだった。
書いたのは、8年も前の男自身だった。
(この参考書、俺が使ってたやつ……)
間違いはない。
入試日の朝、何気なく見た1文が『蓼食う虫も好き好き』だった。
そのまま出題されたのを覚えている。見事に正解したのも。
だから、試験が終わった直後に書き込みをしたのだった。
『ありがとう!』と、参考書に対してお礼を認めた。
男は何故か涙が止まらなくなった。
この参考書は、捨てずに後輩にあげたのを覚えていた。
後輩は無事に合格し、大学でも後輩になった。
ゼミも後輩で、社会人としても後輩だった。
あちらは小説の出版部に所属している。
電子書籍の企画などで忙しいと聞く。
その後輩も、参考書を捨てずに誰かに託したと言っていたのを思い出す。
出版社の人間からすれば、新しいのを買えと言いたい。
だが、違うのだ。
参考書は、代々受け継がれるうちに成長する『魔法の書物』。
また、ぱらぱらと捲ってみる。
男の知らない書き込みが多数存在していた。
後輩の筆跡で『thank you!』や、
知らない人の『有難う御座います』・『WOW!』・『ktkr』もあった。
この参考書は頻出問題に歴代の所有者が書き込みを加えている。
少なくとも4人の手を経て、今、男の手の中に戻ってきた。
今の所有者は従兄妹の早苗ではあるが。
「ちょっと、れおお兄ちゃん! 何泣いてるの? 目にゴミでも入ったの」
心配気なその声に、男はようやく我にかえる。
ゴミだなんてとんでもない。
素晴らしいものが男の目に焼き付いていた。
「辞めた!」
男はあえて意地悪く言った。
「えっ? どうして?」
「早苗、君がこの魔法の書物の所有者なら、自分で向き合う義務がある!」
「魔法……向き合うって……部屋に篭って勉強しろってこと?」
「あぁ、そうだとも」
「折角、れおお兄ちゃんがいるのに?」
「いるのに、だ!」
「お正月なのに?」
「受験生のお正月は合格した日、だ!」
突然真剣になった男。
早苗は渋々といった表情を浮かべた。
「……分かったわ。何だか知らないけど、やってみるわ」
「俺も合格祝いのために無駄遣いせずにいるからな!」
「うん。ありがとう。私、頑張る! この参考書って、縁起ものらしいし」
「縁起もの?」
男の疑問に、早苗は笑って答えた。
「初代は、この参考書のおかげで大逆転勝利を修めたらしいのよ!」
「大逆転勝利?」
男には覚えがある。E判定からの逆転合格だった。
「何でも、偏差値35からK大に合格したらしいの」
「さっ、35?」
そんなに低くはなかったはず。さすがに50は切っていない。
おひれがついてそうなったのだろう。
「私はそこまで低くないけど、それでもときどき不安になるの」
「受験生はみんな、そんなものだろう」
「かもね。でも、私にはこの参考書がある! だから平気なのよ」
早苗は上機嫌に自室へ戻り、勉強するのだった。
4年後の4月。桜は満開。変わらぬ春だった。
男の部署は様変わりしていた。
ここ3年で参考書のほとんどが電子化されている。
特に英語は音声データが再生できる電子書籍と相性が良く、いち早く電子化。
発行部数こそ下火だが、利益は上がっている。
男は3年前に係長に昇格していた。
部下は田中という男1人だけで踏ん張ってきた。
今年になってようやく新人が配属されることになっている。
編集しているのは相変わらずの参考書。
主力商品の名は『れおの魔法の書物』シリーズ。
予め書き込みスペースをふんだんに用意してある、紙の参考書だ。
『後輩に受け継ぐことができる』というのが売り文句。
初版から4シーズン目になるが、どんどん売上を伸ばしている。
受け継がれるのなら初代になろうという、人間の心理がはたらいたのだ。
最近では『未来の自分に受け継げる』とも言われるようになった。
「係長、今日から新人がやってきます。いやらしい目はお控えください!」
「大丈夫だよ、田中くん。ちゃんと毎晩、自宅で拝んでいるから」
「奇遇ですね。俺もっすよ!」
「まじか!」
そんなはずはない、と思う。
「まじっす。新人はミスK大4連覇で、写真集もバカ売れ!」
「田中くん。いやらしい目は控えろよ!」
「無理っす!」
「……」
不安が過ぎる。
「新人は雑誌編集部と取り合いになったらしいっす」
「詳しいね、田中くん」
「最後は本人の希望っす。俺、紙の参考書やってて良かったっす!」
「それは、満足に編集できるようになってから言ってくれ」
「無理っす!」
「……」
不安しかない。
終業後、田中の提案で早速3人で飲みに行った。
解散して男が自宅に戻ったのは夜の11時過ぎ。
「ただいま」
と、男は言った。
返事は、意外なところから戻ってきた。
______
【ごあいさつ】
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