第7話-2 鍋師として、鍋を披露するということ

 頭の芯が、とてもクリアだ。遠くまですっと抜ける風が吹き抜けたような心地がする。


 すべて、思い出した。


 私は、鍋奉行だ。そうとも。私が鍋奉行だったのだ。


「カタコ? 大丈夫か!?」

「すっごくスッキリした。へーき。さ、座って座って」


 三鍋を手で制し、なおも恨みの視線を向けてくる瀬戸の鍋師を見る。


「体調がすぐれぬならば、お帰りになられては?」

「いやあ、もうばっちり。え、と。三鍋を鍋奉行として認めない、だったっけ?」

「当然です! 記憶が戻ったとて、鍋の作法を見もせずに――」

「そんなら、一つ披露しましょうか。三鍋、手伝ってよ」

「……白井君? 何やら雰囲気が違うね」


 それもそのはず。今の私は、れっきとした鍋師、元土流の鍋奉行なのだから。妙に記憶が噛み合わないことがあると思ったら、まさか私も記憶を失くしていたとは。露ほど思ってもいなかった。

 ぱん、と一つ柏手を打ち、場の空気を引き締める。


「掛けまくも畏き久那土大神、六道辻に鍋禊祓へ給いしに、諸々の禍事空腹有らんをば祓え給い清め給えと申すことを聞こしめせと恐み恐みも申す」

「そ、それは鍋祝詞……!? なぜあなたが……!」

「カタコ、もしや記憶が戻って……」


 ――食材への謝意なくして鍋を喰うべからず。


 これは室町に生きた初代鍋奉行、松永義鍋の言である。

 鍋の道は険しいもので、こと、礼や作法を重んじるのだから、鍋の前に祝詞を奏上するのは当然のことだ。


「元土流が鍋奉行、伊賀香奈子、これより鍋を披露いたします」

「君が、鍋奉行だって? 三鍋君と同じく鍋師だったのかい?」

「そ、その場しのぎの嘘に決まっております!」


 困惑と狼狽を見せる両サイドの二人とは対照的に、三鍋は落ち着いた様子でこちらを見てくる。ええい、やめろやめろ、その、感無量、みたいな熱い視線を送るのをやめろ。恥ずかしいじゃないか。


「三鍋、火付け改め役よろしく」

「あいわかった。それではこれより火入れと参ります」


 カセットコンロを三度撫でてから、一度手を離して座位にてニ礼二拍手一礼。実に見事な姿勢、実に見事な流れだった。三鍋、ちゃんと修行続けてたのね。


「白菜に火が通りますまで、しばしご歓談をば」


 鍋と白菜の様子からするに、火が通る最適の時間は4分38秒だ。その間に、琴科さんの質問に答えておこう。瀬戸の人には黙って見ててもらおうかな。


「というわけで琴科さん。私も鍋師です。しかも、鍋奉行の位持ちなのですよ」

「いやあ、驚いた。秘密にしていた、ということかな」

「否。意図的に忘れていたのです。少し、思う所ありまして」


 鍋師が禁を破った時、薬膳料理にてその記憶を奪われる。これは、事実だ。だが、私は別にやってはいけない事をやったわけでも、鍋師界から追放された訳でもない。

 大学時代からずっと、うまいものを求めてきた。鍋師の修行をする中でも、たくさんのうまいものを食べたし、鍋奉行になってからもそうだった。


 そこで私は思った。

 うまいものを食べた時の感動を、もう一度味わいたいと。記憶をまっさらにして最大限の感動を、と。


「記憶消しの薬膳は、どの流派にも伝わるものでしたので。あと、薬膳そのものがうまいかどうかも私は知りたかった」

「なるほど、どうやら白井君は阿呆の分類に入るらしい」

「なんですか。琴科さんだって、記憶を消してもう一度楽しみたい映画や本が一つや二つあるでしょう」

「それはまあ、そうだね」


 瀬戸の鍋師が信じられないものを見る目で私を見る。ええい、やめろやめろ。みんなして目で物を言うんじゃあない。私はれっきとした大人だ。口で言ってくれたらちゃんと分かる子だぞ。


「鍋師の修行は、決して易しいものではないのに……鍋奉行ともなられたならば、それはよくよくご存知のはずでしょう!? それを……捨てるなんて……」

「いやあ、鍋師を捨てるつもりもなくて。おっと、そろそろ時間かな?」


 三鍋が火を弱める。それを受けて、私は他の野菜やつくね状にした肉などを、菜箸で出汁の海へと沈めていく。彩も鮮やかに、華やいだものになった。シンプルな寄せ鍋であるほど、素材の味がよく分かるというものだ。

 蓋をごとりと落とし、火が通るまで待つ。


「さて、あとはこれでもう一煮立ち。うん、良い火加減だと思う」

「火付だけならばカタコにも劣らぬぞ」

「言ってなさい。まだ灰汁代官にもなってないくせに」

「鍋師を、捨てるつもりもなく、でも記憶は捨て去った……? 矛盾しております」

「矛盾撞着、大いに結構。強弁、詭弁は鍋師の華でしょう。それに、そこの三鍋と約束しましたから」


 薬膳を食べる前に、大学時代からの付き合いのある三鍋に、記憶を取り戻す方法を探しておいてくれと頼んでおいた。三鍋は即答で「任せろ」と言ってくれたのだ。

 いやあ、よりを戻す戻さないとかそんな話じゃなかったわ。そもそも別れてなかったわ。


「ははあ、三鍋君はそれで世界を巡って目当ての食材を探していたのか」

「その通りだ。少しばかり、時間がかかってしまったがな」

「今、この場で鍋師として私が存在するのだから、時間の多少なんて些事よ、些事」


 通らなくてもいいような人生の道を、よくもまあ選択したものだと自分でも思う。

 でも、それはそれでいい。どのような道を通ったとしても、それが個人の人生であり、つまりは証になるのだから。

 近道だの遠回りだの気にして、ありもしない人生の地図を広げて何になる。いつか世から去る時に、私の後ろにできているのが道というものだ。


 そして鍋師として鍋を披露するということは、これまで歩んできた道を広大無辺な出汁の海に浮かべて野菜や肉と共に示すということに他ならない。

 例え素材が同じであっても、鍋奉行によって繊細微細な味わいの違いというものが出てくるのだ。絹のように滑らかな舌触りを豆腐に宿す者もあれば、力強い味わいを出汁に滲ませる者もある。


 十人十色、千差万別、寄鍋百景とはよく言ったものだ。

 さあさ、とくと御覧じろ。これが私の鍋だ。私の鍋道だ。


 遠き者は音に聞け。近き者はその目で見よ。満腹ならざれば一口喰ってぽんと鳴け。


 鍋の蓋を掴む手に、じわりと熱が伝わる。

 そのまま一気呵成に蓋を上げ。巻きあがる湯気は昇竜の如く。


 瀬戸の鍋師と琴科さんにそれぞれ具材を取り分け、二人の目の前に置く。


「鍋師の作法というものは僕には分からないけれど、とても優雅な所作だということは分かる。なるほど、名人の生け花を見ているような気がしたよ」

「それは重畳。私は、これこの通り実のところ優雅な人なのです。なので今後は、縁の下の力任せなどと不名誉な名で呼ばないでくだされば」

「それは承服しかねる」

「ちくしょう」


 箸をつけず、唇を噛んでじっと器を見ているのは、瀬戸の鍋師。

 いきなり湧いて出た鍋奉行に出されたものなど食べたくないかも知れないが、鍋の腕前を見せろと言われたから披露したまでのこと。

 もちろん、反論や至らぬ点があれば聞き入れるだけの器は持っているつもりだ。


「ほらほら、食べて食べて。冷めないうちに食べるのも、決まりの一つでしょ。文句があるなら後で聞くから」


 視線を器に留めたまま、ゆっくりと持ち上げて出汁を啜る。そして豆腐を、白菜をしずしずと食べて、彼女は箸を置いて暫し沈黙した。

 そして押しつぶしたような声で、それでもはっきりと


「……ぽん」


 と言った。

 それは、鍋師のしきたりにおける、肯定の表現。作法を認めた時に発する、称賛の一言。


 私は、深く一つ頷く。


「私からも、ぽん。素材の、一つ一つ、どれをとっても見事だった。出汁も、よほどこだわらなければあの透明感と黄金色は出ない。これは決して私と三鍋だけの鍋じゃなかった」

「……」


 瀬戸の鍋師はがくりと項垂れる。計画が完全に破綻したのだ。脱力感に襲われることもやむなしだろう。


「私は……鍋師を絶えさせまいと……」

「策を受けた身ではあるが、瀬戸姫の気持ちは分からんでもないぞ。鍋師を知るものは多くない上に、妙なしきたりも多いのでな」

「家のため、流派のために頑張ってきたことが、間違っていたのでしょうか……」

「知るもんですか、そんなもん。進むべきだと思えば進めばいいし、どの道を行ったって誰かは文句を言うでしょうよ」


 自分の器にも具材を入れて食べる。うむ。うまい。

 どこ産の希少な野菜だとか、高級な食材だとか、そういったものはさておき、皆で囲む鍋はそれだけで良いものだ。


「ともかく。私はこの件について若淡流をどうこうするつもりはないの。三鍋だけ返してくれたらそれでいい」

「待ちたまえ白井君。会社のことを忘れてやいないかい」

「おっと、そうでした。データ盗難の件、取り下げていただけますか」


 こくり、と彼女が頷く。


「それでは、これにて一件落着。あとは鍋を囲みましょう。若淡の鍋の締めって、茶碗蒸し入れるんでしょ? 食べたことないから楽しみ」

「会社が潰れかけたのに、ずいぶんと呑気な人なのですね」

「カタコは昔からこういう性格ですから」

「あ、ちょっと三鍋あんた! 今気づいた! その呼び方やめてよ!」

「三鍋君、詳しく」

「言わせませんよ!」

「奥ゆかしい鍋の場だというのに、賑やかなことですね」


 瀬戸の鍋師――静美さん、と呼んでもいいだろう。同じ鍋の飯を食った仲になるのだから。

 やがて具材は煮溶けて、夜も更けていく。


 鍋の縁をくるりとなぞる大団円。

 これから先の鍋師界隈の展望など知る由もないが、今、この場で私が鍋師であるという事実。それこそがいっとう大事なのだ。

 事実は、認めなければいけないのだから。

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