第6話-1 居候が消えた日のこと

 朝のテーブルに、何も並んでいない。

 食事のない朝が、ここ数日は続いている。三鍋が来てから、一度たりとも朝食を抜いたことはなかった。別にこれまで、忙しい朝は着替えてすぐに飛び出していったことだってなんべんもあるのに。


 なんだ、この喪失感は。


 認めたくはないけれど、すっかり三鍋のいる生活に慣れてしまっていたらしい。

 いや、いやいや。まだ認めない。


 そもそも、どこに行ったんだ三鍋のやつ。相変わらず連絡はないし、なのに荷物は置きっぱなしだし。あいつは、変人で突拍子もなくて気まぐれで思い付きだけで行動するようなやつではあるが、約束を破る男じゃない。それは、間違いない。


「――ん?」


 特に三鍋と約束をした記憶はないけれど、なにか大事な約束をしたような気もする。私の記憶がどこか曖昧になっているのは事実だ。何せ、後輩の結婚式に出たことを忘れているくらいなのだから。

 理論的に考えて、他にも何か忘れていたりする可能性はある。


 だから三鍋に確かめたかったのに。ええい、帰ってきたらきっちりと責任を追及してやるからな三鍋め。


 それはそれとして、お仕事には行かなければ。今日も昼ごはん、どうしよう。そろそろ寝坊して弁当が作れなかった、という言い訳は苦しくなってきた。連日寝坊記録の保持者だと竹内ちゃんに思われたくはないからな。




   〇   〇   〇




 会社までの電車も、なんとなく重たい。私が出社した時にはすでに竹内ちゃんや他の面々も集まり出していた。


「香奈子センパイ、大丈夫ですか? ここ数日なんだか体調が悪そうですが……」

「いや、大丈夫、うん、大丈夫よ。ごめんね、心配かけて。そういえば、琴科さんとのデート練習はどうだった?」


意図的に話題をそらしておく。いやあ、ご飯があんまり喉を通らなくて。誰のせいだと言えば三鍋のせいなのだが、それを詳細に説明するわけにもいかないからなあ。


「あ……はい! 色んな話を聞かせてもらいました! 琴科さん、海外旅行に何回も行ってて、その話とか」

「へえ、そうなんだ。どんなところに行ってたって?」


 意外だな。あれだけ働くことが好きな琴科さんのことだから、休日はむしろ家に籠っていたり図書館にいたりするイメージだった。株とかやってそうだし。


「ほんとに色々……あ、でも最近、旅行先でたまたま会った日本人に再会したって言ってました。ギアナ高地に行った時に会ったって」

「すごいじゃない。女性?」

「男の人らしいです。今度飲みに行こうって約束してるけど、なかなか都合がつかないって嘆いてました」

「はっはー。それは残念ねえ」


 ちょっと元気出た。人の不幸はなんとやらと言うが、少し楽しいのもまた事実。ちょっとへこんでたから助かった。ああ、やっぱり竹内ちゃんとの会話は癒される。

 ギアナ高地で日本人と出会った、ねえ。どっかで聞いた話だけど、どこだったっけ。まあいいや。


 朝の業務申し送りを終えて席に着いた瞬間、電話が鳴った。


「お電話、ありがとうございます。こちら――」

『わたくし、ウェルネスリビングのサナダと申します。社長は、おいででしょうか?』


 こちらの声を遮り、女性の、やけに透き通った冷たい声が電話口から飛んできた。


『我が社の情報を、そちらの社員が窃盗した件につきまして、お話をさせていただけますか』

「は――」


 息を呑む。

 情報を、盗んだ? ウェルネスリビングと言えば、確か河内さんと筒井さんが担当していた会社だけど、そんなまさか。


「詳しく、お聞かせいただけますか」

『必要ありません。取次ぎ、お願いできるかしら?』


 有無を言わせぬ強さが、冷たい声の中に低く混ざる。「承知いたしました」と保留をかけ、私は鋭く、短く社長を呼び、そちらへと歩み寄る。

 眉をひそめた社長だったが、異変を感じたのか声を落として「どうした」と聞いてくる。


「ウェルネスリビング、サナダさまからお電話です。うちの会社が情報を盗んだ、と」

「そりゃあ、また……穏やかじゃないな。分かった」


 ワイヤレスの子機を持ち上げ、誰にも聞こえないようにオフィスの奥、応接室へと消えていく。

 社長室などといった贅沢な空間は我が社には無いのだ。それにしても、あまり類を見ないクレームだ。データを盗んだとか言っていたけれど。


 ウェルネスリビングは確か、ゲームの開発会社で、竹内ちゃんの歓迎会の前に小さな案件を請けた所だ。

 相手先に出向する形でデータベース作成の仕事。河内さんと筒井さん、そして援軍にと、後藤さんも追加戦力として派遣した。


 その時に、何かあったのだろうか。

 それにしても、さっきの電話相手の声、どこかで聞き覚えがあるような……。


 社長が電話を終えて戻ってくる。


「白井。ちょっとすまん」

「何でしょうか」


 呼ばれて、社長の近くへと歩み寄る。


「向こうさんが言うにはな、データを勝手に持ち出したらしい。防犯カメラにそれが映ってるんだと。日報だけ、先に確認してくれるか。昼前にこっちへ来るそうだ」

「かしこまりました」

「ま、何かの勘違いだろうよ」

「そうであることを願っています」

「そうに決まってるさ」


 はっはと笑って社長は頭部をつるりと撫でた。さすが社長だ。胆力が違う。




   〇   〇   〇




 そして、訪問客がやってきた。

 うちの社員を泥棒扱いとは随分ですね、と言ってやろうとしたが、交渉にと訪ねてきた二人を見て、私は台詞を失った。


「ウェルネスリビング、代表取締役、真田静美と申します」

「同、社長補佐、三鍋翔介です。本日はお時間いただき感謝いたします」


 三鍋……? え、三鍋、よね?

 今、自己紹介したものね。ちょ、ちょっと待て。いったい何がどうなって……。


 え、あ、いや、あの社長! 声聞いたことあると思った! こないだの鍋会で三鍋に言い寄ってた人じゃない! 確か、瀬戸の蛇姫とか言われてた人。


「こ、こちらへ……」


 応接室へと案内する。途中、三鍋と目が合った。だが、そこには何の感情も乗っていなかった。


 案内を終えてオフィススペースに戻ると。猛烈な勢いで竹内ちゃんに手を引かれ、その後ろに琴科さんが付いてくる。

 その表情には困惑が浮かんでおり、あれよあれよという間に非常階段下の資料室へと連れていかれた。せまい。


「センパイ! どういうことでしょう!?」

「待って、ちょっと待って、どうしたの?」

「伊賀さんです! さっきの男の人! あれ、伊賀さんです!」


 いや。いやいや、あれは三鍋で、私の所に居候してるニート家政夫だ。三鍋って言ったし。下の名前まで一致したし。他人の空似にしてはできすぎだ。

 しかし、どうして琴科さんまで着いてきたのだろう。視線を向けると、こちらも困惑した顔で顎に手をやって考え込んでいる。


「琴科さんも、何か気になっているのですか?」

「ああ、彼ね、彼なんだよ。竹内君には先日話したろう? ギアナ高地で会って、先日再会したのは、彼なんだよ」

「ええぇ? 勘違いじゃないんですか? だって、あれは伊賀さんですよぅ」

「ま、まあまあ、二人とも落ち着いて」


 私が一番落ち着かなければいけない。

 ちょっと新事実が一気に押し寄せすぎてはいまいか。さすがに理不尽の域を越えそうなので勘弁してほしい。


「彼は、鍋を究めることを生業としていたはずなんだよ。鍋師と言ってね。鍋を究めたものは鍋奉行と呼ばれるそうなんだ」

「なんですかそれ。そんな職業、あたし聞いたことないです」


 はい、三鍋です。間違いないです、琴科さん。あなたが会ったのは三鍋で間違いないです。ごめんね竹内ちゃん。信じられないのは分かるけれど、あるの、鍋師ってのが。残念ながら。

 待てよ、そうすると、だ。師匠の姪に会ったって三鍋が前に言ってた気がする。これが竹内ちゃんで、つまり、うちの社長が三鍋の師匠ということにならないか?

 と、いうかどうして三鍋は伊賀などと偽名を名乗っていたのだろう。


「ね、ねえ、竹内ちゃん。伊賀さんに会ったのって、歓迎会の日?」

「そうですよ! バーで偶然!」


ああ、三鍋の証言と一致する。一致してしまう。その日には、確か再会した友人と会うつもりだったが断られた、とも言っていた。


「琴科さん。その日、もしかして三鍋から連絡受けたりしてません?」

「よく分かるね。歓迎会の予定が入っていたからやむなく断ったんだよ」


 うあぁぁ、つながっていく……。どんどん裏付けがされていく。

 そして繋がってきたはいいが、だからと言って現状の解決には何一つ結びついていないのだ。うちがデータを盗んだ疑いをかけられていることに変わりはないし、三鍋が我が家から消えた理由も、まったく分からないままなのだから。


「あ、あの、香奈子センパイ。もしかして、伊賀さんとお知り合いだったり……」

「……白状するわ。大学の時に付き合ってた人がいるって、前に話したでしょう? それが三鍋よ」

「ええ!? あの伊賀さんがダメ男だったなんて……」

「へえ、これはまた、不思議な縁もあったものだね」


 そうですね。ついこの間まで一緒に住んでましたね。さすがにこれは今言えない。竹内ちゃんの想い人である伊賀とやらの正体が三鍋だったのならば、追い打ちにも程がある。今伝えなくても良い情報だ。


 やがて、オフィスの方から人が出る気配がした。

 私は、お手洗いだと言ってオフィスへ戻る二人と別れ、急いで三鍋を追いかけた。


 どうしてだか、分からない。

 声をかけたところでどうしようもない。それでも、追いかけなければいけないと思った。


 ちょうど、ビルの外で車に乗り込もうとしているのが見えた。


「三鍋っ!」

「あら。これはこれは。先日はどうも」


 女性が、口の端だけをきりきりと上げる。そしてわざと見せつけるように三鍋にしなだれかかり、耳元で「ねえ、あの方、お知り合い?」と妖艶に言う。


「いいえ、静美さん。知らぬ人です」

「三鍋! あんたふざけるのも大概に――」


 三鍋の首に手を回し、彼女は三鍋に口づけをした。


「と、いうことですので、どうぞお引き取りあそばせ? これで、元土の流派はうちのもの。そちらの会社も、もののついでにもらい受けますね」


 そう言い残して、彼女と三鍋は去っていった。

 ただその場に残された私は一人、呆然と立ち尽くしていた。

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