第4話-2 鍋師の作法を見た日のこと
ゴールデンウィーク。世間一般では大型連休になる人も存在し、私もまた連休を謳歌する側の人間だ。今年の連休は気候にも恵まれ、穏やかな日差しと気温は行楽にもってこいなのだと、テレビキャスターが満面の笑顔で話していた。
けれど、建物の中にいる私にとってはどれほど良い天気でも関係が無かった。
周りにはそれなりに人数がいるのだけれど妙に静かで。それなのにそぞろめいた空気が辺りを包んでいて妙に落ち着かない。私は隣にいる三鍋に声をかけようとしたが同じく彼もどこかそわそわしているようだった。
なんだか温度差を感じる。とてつもないアウェー感が逆に場の雰囲気から私を守ってくれている気がしないでもない。
「どうした、カタコよ」
「あんたこそどうしたのよ、随分そわそわして」
話しかけてきた三鍋に対して、私は意図的に静かに返す。
三鍋が私を連れてきたのはどこかのホールだった。新幹線に乗って、およそ1時間。そこから地方線に乗ってさらに1時間。長閑な駅からバスで15分。たどり着いたのは何かの記念会館のようなホールだった。パーティー会場のような広さがあるが、いたって簡素な部屋にそれぞれが好きな場所に立っている。場に集まっている人達はこちらをみて会釈をしたきりだ。
「今日の顔ぶれはそうそうたる面子なのでな。鍋奉行はもちろんだが、火付改め方や灰汁代官も実に歴代の――」
「妄言はそれくらいにしといて。あんたのお師匠様も来てるの?」
「いや、師匠は来ていない。流派が違うのでな」
「へえ、流派とかあるんだ。千家とか、裏千家みたいな?」
華道や茶道にも流派があるように、鍋道にもそういった流派というものが存在するらしい。分からないことだらけではあるが、とりあえず、あると仮定して話を聞いておこう。
「そのようなものだ。今回の集まりは
「言われても分かるもんですか」
「まあ、確かにそうであろうな。そうだ、会が始まる前に言っておく事がある」
「なに?」
「会が始まったら、できるだけ音を立ててはいかん。目と耳と鼻で余すところ無く振る舞いを堪能するのだ」
「しゃべるなってこと?」
「いいや、例外がある。所作に真に感じ入った時のみ、 “ぽん” と言うのだ」
「なんだそりゃあ」
「それがしきたりなのだ。何、そのうち慣れる」
別に慣れたいとも思わんぞ、そんな妙な風習にゃあ。三鍋の言うがままに会場に連れてこられはしたものの、私は立派な一社会人だ。決して鍋師になどなる予定はない。しかし周りを見渡してみればそれほど奇特な雰囲気を纏っている人もいない。やっぱり三鍋が変人なのだと少し安心する。
そうしているうちに、ホールの扉が開き和装の男性が三名と同じく和装の女性が一名、合わせて四人が会場に姿を現した。
周りの空気が一瞬で変じる。例えるならば、コンサートで演奏が始まる前のあの一瞬のような。舞台の幕が開く直前のような、静かな緊張感が場を満たしていく。
見たところ、四十か五十か。いや、女性は若いな。私と同年代かそれより下くらいだろうか。四人はホール中央まで歩みを進め、そこで凛と立ち止まった。
低く、それでいてよく通る声で最年長と思われる人物が何か語りだした。何やら呪文のようで何を言っているのかよく分からない。三鍋に聞こうにも、この厳正な雰囲気の中では口を開くこともためらわれるような気がする。
あれかな、神社とかで神主さんがやってるやつ。御祈祷の時とかに。なんていったっけな、あれ。
誰に聞くわけにもいかず、あれこれ考えを巡らせているうちにどうやら会は次の段階に進んでいるようだった。スタッフらしき人が次々といろんな道具を運んできている。
コタツに鍋に食材諸々。やっぱりただの鍋パーティーに見える。私は他人の食事風景をただ眺めるためだけにここに来たのだろうか。なんて不毛な休日。しかも和装の人達および周囲の人たちは微動だにしないし、なんなのほんとに。私、異世界にでも迷い込んだ気分。
その後も鍋が煮えるまでただただ座って待つ和装軍団。それを眺める私達。逃げ出そうにも場の雰囲気がそれを許してくれそうにない。
異変が起きたのは、いざ鍋を食べようと和装のうちの一人が土鍋のフタを持ち上げた時だった。
「ぽん」
「ぽん」
見物している人たちの数名。あちらこちらで、まばらに声が挙がった。なんだっけ、確か仕草が見事だったら言うセリフだったかしら。そう三鍋が言っていたのを思い出す。
ん? いや、待て待て。鍋のフタを持ち上げただけではないのかしら。素人目には分からない優雅さというものがあるのかも知れない。いやあ、よく分からん。
その後も、何だかよく分からないタイミングでぽんぽんと声がした。私は混乱していたのだろう。訳もわからず締めの雑炊を作っている最中にただ一人「ぽーん」と妙に間延びした声で呟いてしまった。はたと我に返ると三鍋がこちらを見て目を丸くしていて、周りの面々も声にこそ出さなかったが 、なんだ今のはとでも言いたげな雰囲気がありありと分かってしまった。
○ ○ ○
会の後、三鍋の腕を引いてさっさと会場を出ようとする私達を止めたのは、先ほどまで皆の前で鍋を囲んでいた人物の一人だった。華やかな和装がとてもよく似合う女性。彼女は柔らかい態度でお辞儀をして三鍋に話しかけた。
「帰って来られたとは聞いておりました。瀬戸翁が顔を出せと」
「あの人も気まぐれだ。前は挨拶になど来るなと言ったのに」
「瀬戸翁ですから。さ、参りましょう」
二人のやりとりを聞いていると、なんとなく三鍋が緊張しているのが分かった。女性に弱いというわけでもなく、いつも泰然とした態度だった三鍋がこうなるのは珍しいことだ。
あ、もしかしてあれかな。私が変なところで声を出したからお咎め的なあれかな。それはかなり気まずい。気まずいが、何も知らない初心者を無理やり連れてきた三鍋にこそ責任はあろう。うん、責任転嫁、責任転嫁。
「先に断っておきますが、彼女は初めての会合参加なのです。お試しで来た外部の人間だと思っていただければ」
お、なんだなんだ三鍋。言い訳か?言い訳は見苦しいぞ。そして私は知らぬふりを決め込ませてもらうことにする。許せ、三鍋。あんたの流派のことは良く知らないけれど、きっと知ることもないだろう。もちろん、知るつもりもない。
「そうなのですか? 佐久間でも、裏若淡でもなく」
「まさか。彼らが来ていたら鍋が舞うでしょう」
「ふふ、それもそうですね」
そういって彼女はくすりと笑った。え、今どこか笑いのポイントあった? 知らぬふりを決め込もうと思ったが甘かった。知らなさ過ぎて何にも言えないわこりゃあ。
別の部屋の前まで案内され、そこでその女性は礼をして去っていった。
三鍋は目を閉じて深呼吸をしてから、なんだか重たそうなドアをノックした。
「罷り越しましたるは元土流鍋奉行抱えが与力、三鍋に御座います」
「入れ」
静かに低い声がする。重たそうな見た目とは裏腹に、扉は音もなく開いた。
部屋の中には、初老の男性が一人。床の上に板と
「若淡流家元、九代目瀬戸様におかれましては――」
「よいよい、堅苦しい。元土のは作法にうるさいのう」
「言わせてくれてもいいでしょう。作法を実践できる場が少ないのだから」
おや? おやおや? いきなり三鍋がくだけた感じになったぞ? いったいこれはどういうことだ。別に怒られる訳ではなさそうね。うん、ちょっと安心。
「作法なんぞ喰えるものではないわ。まあよい。お主、修行中の身であったな」
「いかにも。与力でございます」
「修行が明ければで構わん。瀬戸の名を継ぐ気はないか。もちろん、鍋奉行にもしてやれる」
んん? どういう話になってきたんだろう。継ぐとか言ってるけど、確かここは他の流派だと三鍋が言っていた気がする。引き抜き的なあれかしら。
「名家からのお誘いとあらば身に余る光栄ですが、私には元土流が性に合っております」
「駄目か。頑固な所は師に似ておるの」
「それはもう、師弟でありますゆえ」
「もう少しくらい、迷ってくれても良いというのに」
口を尖らせながら初老の男性が一つ手を打つと、後ろの扉が静かに開き、先ほどの和装の女性が入ってきた。
「送って差し上げい。だが、儂は諦めておらんからな」
「鍋師というものは誰しも頑固なものです」
「その通りじゃの」
「故に折り合わぬこともあるものです。これはもう、しょうがない」
一礼して、三鍋は部屋を後にしようとした。待て待て、私を置いていこうとするな。慌てて私も一礼して三鍋の後を追った。
会館から出るまで、先ほどの和装の女性が見送りをしてくれるようだった。
「瀬戸翁も困ったものだ。跡継ぎならあなたがいるでしょうに」
「あら、その私が御師匠様に頼みましたの。私、貴方をお慕い申し上げておりますのよ」
三鍋の方がピクリと動いた。お、どうしたどうした。いきなりの告白に緊張したか。だけどなんだかモヤッとした気分になるのはどうしてだろう。
「これは面白い冗談です。傍流も持たない流派の、しかも見習い風情の俺であるのに」
「流派やしきたりなんて、食べられませんもの。私が食べたいのは、貴方様でございますのよ。ところで三鍋様、こちらの女性とはどのようなご関係?」
作法をあまりご存じないようですけれど、と私の方は一切見ずにそう付け加えた。仕方ないでしょう、私は鍋師でもなんでもないのだから。その辺りは三鍋に責任があるのですよ。
笑みを浮かべている女性の雰囲気がなんだか怖い。うすら寒いものを感じる気がする。ゆえに私は何も言えなかった。代わりに三鍋が答える。
「妻です」
「んなあッ!?」
しまった、つい変な声が漏れた。おい、三鍋、一体どういうつもりだ。私はこっそりと三鍋にテレパシーを送ってみたが、当然のように返事は返ってこなかった。鍋師なんだったらテレパシーの一つや二つ使えたっていいだろうに。
「あら、面白いことを申されますのね。三鍋様も冗談がお上手ですこと。私、てっきり
「それこそ冗談でしょう。ばれるかも知れないと分かって連れてくる阿呆がおりますか」
「ふふ、それもそうですねえ。では、今は奥方様ということにしておきましょう」
私は息が詰まる思いだった。お互い、柔和に話してはいるけれど、目が笑ってないぞ。結局、会館を出るまで、私は一言も話すことができなかった。
○ ○ ○
会館の出口までが妙に長く感じられたものの、ようやく外に出て大きく息を吸い込めば、五月の風は爽やかに私の肺を満たしてくれた。ああ、生き返る。
駅に向かうバス停まで歩き、三鍋がようやく深く息を吐いた。
「想定外の出来事であった。すまなかった、カタコ」
「いやまあ、そりゃあ構わないけど。大丈夫なの? その、あんたの立場的に」
「問題あるまい。《瀬戸の蛇姫》とはよく言ったものだ。まさか自分が狙われるとは思ってもみなんだ」
瀬戸の一族は、そうやって外から取り入れた人間を後継者として様々な流派に影響力を及ぼし、鍋師の中でも一際大きな権力を持っている一大流派なのだという。
「結構怖い人だったわね。瀬戸って、あのおじいさんも瀬戸じゃなかった?親戚か何か?」
「瀬戸は鍋師としての名前のようなものだ。屋号のようなものだと思ってくれてかまわん」
ああ、歌舞伎の芸名みたいなものか。
だから名前を継がないかなんて話になってた訳だ。
「他に大きな所では有田、信楽、古伊万里などだな」
「陶芸じゃあるまいし」
「いや、そこから来ているのだ。鍋と言えば土鍋、土鍋と言えば焼き物であるからな」
「相変わらずよく分からん世界ねえ」
「しかし、実在はした。これで信じる気になったか」
確かに、鍋会なるものがあって、鍋の作法あれこれがあった。認めよう。そして流派があって、何やら跡継ぎ争いのようなものもあるらしい。
「――そうね、信じるわ」
世の中はいつでも理不尽八割だ。見たものは信じなければならない。全員がぐるになって私を担ごうとしている可能性はゼロではないが、そこまでする理由も利点もないので、その可能性は除外しても良いだろう。
そこで私はふと気がついたことがあったので三鍋に聞いてみた。
「あれ、じゃああんたは鍋師になったら三鍋じゃなくなるの? そのままの苗字の方が断然、鍋師らしいのに」
「そう言ってくれるな。確かにそれは俺も思っている事なのだ」
「で、何て名前になるのかしら」
「それは言えん。鍋師とそれに連なる者にしか伝えてはいかんのだ」
「なんでよ。瀬戸の名前は教えてくれたじゃない」
「あれは向こうが名乗ったのだ。それに、割合に危ない橋だったのだぞ」
鍋師としての名前(鍋号と言うらしいが)は、鍋師と、それに連なるものにしか伝えてはいけない。これは古来より続く決まりごとらしく、破ったものは鍋師としての一切を捨てなければならなくなるほどのものらしい。
それ故に、私が鍋師の名前を知ってしまうことは鍋師連中にとっては大層危険なことであるそうなのだ。
「カタコが妻でないことなど、向こうにしてみれば先刻承知の事だ。しかし、そういうことにしておかねば、一般人第三者に名前が知られたことになる」
つまり三鍋は言外にこう言っていたのだ。「見て見ぬ振りをしてくれなければ、第三者に名前が知られたことを暴露する」と。
「結果的に、カタコがいてくれて助かった。カタコが素人であることは、誰しも分かることだからな。瀬戸蛇姫もさぞ取り扱いに困っただろう」
「私は指定危険物か。……まあ、素人であることは否定しないけど」
会の途中で、変なタイミングで声をあげてしまったことを思い出した。分からんのだから仕方ないだろう。それに、結果としてそれで助かったのだから感謝してもらいたい。そして明確に感謝の意を目に見える形で私に提供寸べきではなかろうか。具体的には、美味しいお酒や料理を、だ。
今日の夕飯を外食で済ませることを提案し、三鍋の財布からそれを賄うことを約束させた。
案外、こうしてその場で清算してしまった方が後腐れもなく良い関係が続けられるものだ。できれば、三鍋には気後れなどせずにいて欲しい。いや、ほっといても気に病んだりなんかしないだろうけどさ、こいつは。いわばこれは私なりの気遣いだ。
今日は好きなだけ飲めと言う三鍋。三鍋もどうやら、私の提案の真意に気がついているらしい。もちろん、分かった上で何も言わないのだろう。私と三鍋の間にさらりとある、先刻承知の関係。今はそれが心地よかった。
初夏の風が一筋、私と三鍋の間を吹き抜けていった。
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