第2話‐2 日々の生活に鍋師がいるということ


 鍋師の存在をネットで検索してみても、影も形も見えない。

 寝る前に検索してみたが、出てきた情報と言えば日本の希少名字の一つで、京都府北部を中心におよそ100名ほどの人口数の名字である、とか、鍋を扱う職業が転じた名字であるとかいったものだった。


 なるほど、鍛冶田や刑部のような職業姓か、と一瞬納得しかけたが、あいつの言っているそれは名字ではなく職業そのもののようだ。けれど、三鍋と再会してからこちら、鍋を扱うどころかその姿も形も見ていない。


「鍋師って、鍋ものを上手に作る作法とかそういう感じなの? 聞いた感じ、茶道や華道に近いイメージなんだけど」

「そのようなものだな」


 今朝の朝食はトーストとサラダだった。

 鍋どころか和食ですらない。ないくせに、コーヒーが妙に美味しい。


「……おいしいわね、このコーヒー」

「そうだろう。先ほど挽いたばかりだ。鍋師たるもの、コーヒーをうまく淹れられんようではいかん」

「何もかも理解できない。ただ、このコーヒーはおいしい」

「それだけで事は足りる」

「へえ。豆の種類とか、淹れ方とかの蘊蓄を語ったりしないの?」

「専門店ではそれも好かろうな」


 三鍋曰く、所かまわず知識をひけらかすのは、三流のやること。朝食は一日の始まりを気持ちよく彩るものであり、コミュニケーションの域を越える言葉は不要である。うまいと思えたならば、それより先は不要のものである、とのことだそうだ。


「俺は、カタコの食生活を、ひいては健康を賄うためにここにいるのだ。それを損なうような真似はせん」

「んまあ、そういう契約だしね。じゃ、鍋師さん、晩御飯のリクエスト。ムニエルが食べたい」

「ああ、昔から好きだったな。任せておけ。俺は鍋師だ。造作もない。魚に希望はあるか?」

「別に……、ああ、じゃせっかく春だし鰆なんかいいかも」

「良案だ」


 食器を流しに運び、ぱたぱたと出社の支度をする。玄関先で「弁当だ」と言って包みを渡された。


 ちゃんと弁当箱に入っているらしい。昨日のうちに、あれこれ買ってきたのだろう。笹に包まれた握り飯を持っていかなくていいのは有難い。




   〇   〇   〇




 私の日課は、誰もいないオフィスで全員が抱えている仕事を暗唱することだ。昔からの習慣で、これをやると一日の流れがスムーズに頭に入ってくる。だから誰よりも早く出社するようにしている。


 けど、今日は私よりも早く出社した人間がいるらしい。少し悔しい。

 オフィスに入ると、カタカタとキーボードを打つ音が聞こえてくる。そして、私は理解した。


 徹夜明け特有のオフィスの感覚。私より早く出社した訳ではない。誰かが昨日から帰っていないのだ。

 部屋に漂う、どんよりとした感じは間違いなく徹夜明けの人間が発する負のオーラだ。


「あ、白井さーん、おはようございまっす」


 妙にハイなテンションで大和田くんが挨拶をくれる。私はおはようと返してからこの事件の犯人を捜した。


 徹夜するような、ラインぎりぎりの仕事は無かった。

 大和田くんはまだデザイン決めに掛かった段階だったし、後藤さんももうすぐ手が空く程だったはずだ。


 オフィスを見回して、私は原因となるであろう人物を発見した。その彼は後藤さんの隣に立ってあれこれ指示を出している。

 二人の話を遮るように、私は声をかけた。


琴科ことしなさん!これはどういうことですか」


 男の名は琴科。自分を天狗の末裔だと言って憚らない変人である。そんなことだから三十代後半にもなって浮いた話の一つもないのだ。しかし私にもそんな話は無いのでこれは口にしないことに決めている。

 そして困ったことに、うちの会社で最も営業成績の良い人物でもある。


「おお、白井君。昨日の営業先の方と気が合ってね。一つ追加で案件を任された。どうだい。見直したかい」


 くうう、へし折ってやりたい。自称、天狗の末裔とやらのその鼻を。鼻高々と言った態度なのがまた癪に触る。非凡な才能を持つ人間はどこかネジが外れていると良く言うが、この人も例に漏れない。

 いや、私の基準を超えるというだけで変人と言うのはいささか失礼かも知れない。時代を切り拓いてきたのはいつだってそのような先駆者たちだ。

 うん、少し取り乱してしまった。想定外のことが起こると周りのせいにするのは私の悪いクセだ。


「行動力は素晴らしいといつも思います。しかし、他人を巻き込むのは感心しません」

「それは済まない。私も一度は断ろうと思ったのだよ。しかしどうやら急ぎの案件だったらしくてね」


 そう穏やかに話し出す琴科さんは隣で一心不乱に作業をする後藤さんを見て、それから何かの資料を高速で仕分けている大和田くんを見た。


「社に電話した時に彼らが残っていてくれた。二人の力があれば、業績に繋がると判断した。もちろん、無理強いはしていないよ」


 琴科さんに頼まれたのならば、彼らは二つ返事で引き受けたに違いない。この人は本当に人たらしなのだ。社の内外を問わずその能力を発揮するものだから手に負えない。


「そうだぜ、白井。ちょうど手が空く所だったんだからよ。一徹くらいどうってことねえ。ご心配、感謝するぜ」


 後藤さんがモニターから眼を離さずに私を労ってくれる。


 ああ、しまった。これは私が悪い。

 後藤さんや大和田君にしてみれば、徹夜とはいえ自分が納得してやっている仕事なのだ。それに水を差すような真似をしているのは私だった。


「ごめんなさい、出しゃばるような真似をして。それで琴科さん、仕事の内容と納期は?」


 頭を下げる。

 琴科さんはどうという事もないといったように手をひらひらとさせた。


「ウェブページのレイアウト修正だよ。主力の商品が変わるからということらしい」


 私はなるほどと頷いた。片手間にもらってくる仕事としてはよくあるものだ。


「そして納期は今日の夕方」


 にこやかに言い放たれたその台詞に私は再度硬直する。

 ありえない。いや、琴科さんが出来ると判断したのなら出来るんだろうけど。間違いなく他の仕事のスケジュールに影響が出る。


「……分かりました。仕事のスケジュールを見直してみます」


 少し考えてから私は自分が出来る最善手を考えた。何よりもそれが優先だ。


「ありがとう。まさに白井君にそれを頼もうと思っていたんだ。ウチで全体像を把握しているの主に僕と君だからね」

「まったく、琴科さんは本当にもう」

「頼りにしているよ。後藤君と大和田君を14時までこちらに欲しい」

「分かりました、考えます。少し、外しますね」


 ここでいつもの習慣を行っては、きっと三人の邪魔になる。

 私は自分の手帳を持って資料室へと急いだ。兵は迅速を尊ぶのだから。私はこの小さな会社の一兵卒だ。そこに誇りは持っている。




   ○   ○   ○




 資料室の小さな扉を開け、狭い空間に籠り、眼を閉じてそれぞれの予定を声に出していく。誰がどの仕事を抱えていて、それぞれの納期がいつで、現在の進捗状況はどうか。各人が一番パフォーマンスを発揮できるようにするにはどうすれば良いか。

 ニュースの原稿を読み上げるように、淡々と。


 スケジュールの調整は思っていたより簡単だった。

 後藤さんがいつもよりハイペースで仕事をしていてくれたことが功を奏した形になる。


「困るのは一件、後藤さんがアポ取ってた所か」


 わが社はしがない零細広告代理店。全員が技術者でもあり、営業マンでもある。社長の言葉を借りるならば、自分の仕事は自分で見つけろ。それに会社の仕事を上乗せして取ってこれる奴がホンモノだ、というやつだ。

 それゆえに困る。ビジネスの基本は人だ。面と向かって人と人が繋いだ仕事に信頼は乗ってくるものだ。代理が来ましたと軽く言えるような大企業の方針はウチにはない。前時代的な考え方かも知れないが、情があって私は好きだ。


 そのあたりを考慮に入れるならば、やはり相手先に後藤さん本人が行くべきだ。

 そのために必要なのは、琴科さんから後藤さんを奪い返すことだ。さて、行動に移そう。


 オフィスフロアに戻った私は、ちらほら出社してきている他の社員の人たちに挨拶をしながら琴科さんと後藤さんの元へと急いだ。


「すみません、琴科さん。後藤さんには13時から営業のアポがあります。これが優先されるべきだと思います」

「あっ!えんとつフーズさん、今日か!」


 後藤さんが画面から目を離さずに言う。琴科さんの表情も少し曇った。


「後藤君。営業は大切だよ。忘れていたのはいただけないなあ」

「すんません。こっちの案件、今から誰かに引き継ぎます」


 そう言って立ち上がろうとする後藤さんだが、その必要はない。


「いいえ。後藤さんが倍速で働けばいいのです。えんとつフーズの資料と前回までの営業日報は私がまとめておきます。無理をお願いする形になりますが、12時までに後藤さんの担当箇所は終わりますか、琴科さん」

「ふむ。後藤君が倍速を出すのなら、間に合うね」

「やらせてください、琴科さん。かっちり仕上げますから」


 後藤さんが言いながらすでに仕事に戻っている。

 彼が自分の仕事を全うすることを大切にしている事は良く知っている。それでも社の方向性を理解して営業を優先し、誰かに業務を引き継ごうとしたのだ。

 その辺りの判断力は私に無いものだ。バランス感覚が良い。


「じゃあ、お願いしよう。大和田君にも少し無理を願おうかな」

「私から言ってきます」

「いや、いい。仕事を頼んだのは僕だよ。僕からお願いするのが筋だ」


 自分のデスクで高速資料分けを行っている大和田くんを二人して見やってから、私は「分かりました、お願いします」と言って離れた。


 私は私のできることをやろう。

 もちろん、通常通りの業務も忘れない。出社してきた人それぞれに挨拶をし、今日の仕事を確認していく。その作業の途中で社長と竹内ちゃんも来たので、業務申し送りに途中から同席してもらった。




   ○   ○   ○




 竹内ちゃんに指示を出し、私はえんとつフーズの資料と今までの営業日報を確認した。

 相手の会社も、決して大企業という訳ではない。私も何度か顔を合わせたことがあり、人当たりのいい社長がいつも直々に話を聞いてくれるのだ。

 だからこそという訳でもないが、こちらとしても適当な提案でお茶を濁すようなことをしたくない。


「今回は卸業者を増やすための案が欲しいのか……」


 自社の農場や、大手卸売業者からの買い付けを行い、それを卸す。また、製品の生産請負等も行っている会社ではあるが、今回はいわば顧客を増やしたいとのことらしい。

 その為の広告案が欲しいのだと、営業日報には書いてあった。


「香奈子センパイ、終わりました! 次は……大和田さんを手伝いましょうか?」


 彼女も、朝一からずっとせわしなく動いている琴科チームが気になっているのだろう。何か出来ないかと思ってはいるようだが、高回転で噛み合っている歯車は見守る方が良い時もある。


「ううん、集中してるみたいだからあのままで。ありがとう。代わりに、ちょっと頼まれてくれないかしら」

「はいっ、なんなりと!」


 ああ、癒されるわあ。私の仕事効率も竹内ちゃんのおかげで上がっている気がする。おっと、今はそれは置いといて。


「コンビニでおにぎり買ってきてくれないかしら。あと緑茶。できれば、鮭と昆布をひとつずつ。無ければなんでも」


 先方との約束は13時。会社から向こうの事務所までは30分ほどで到着できる。

 つまり、ぎりぎりなのだ。軽食くらいは用意しておかなければ。不思議そうな顔をする竹内ちゃんの頭を撫でて、私は事のあらましをかいつまんで説明した。


「ちゃんと理由を考えるのはえらいぞ。竹内ちゃん。私も説明不足でごめんね」


 知らずのうちに焦っているのかも知れない。いかんいかん。


「いえっ! 行ってきます!」


 一転にこやかになった彼女は、跳ねるようにオフィスを飛び出していった。どうしてああもかわゆいのだろうか。

 さて、私も一肌、いや、一肌で済むかなこれ。二肌くらい脱ぎましょうか。

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