金字塔の夏

阿波野治

第1話

 脱力系のチャイムが鳴って、担任教師がさようならの挨拶をして、長かった一学期が終わった。

 笹沢カイリは待っていましたとばかりに、自らのグループの女子たちを自席に呼び寄せ、七月に入って以来定番となった自慢話を始めた。盆から夏休み最終日までにかけての日程で、家族三人でヨーロッパを旅行する、という話を。

 あいつ、何回同じ話をしてるの。なんとかの一つ覚えみたいに。バカじゃないの。

 教室中央の席に座る相内ナツキは、カイリのよく響く声にいらいらしながら、帰り支度を整える。

 明るい茶色に染めたさらさらの長髪。意志の強さと端麗さを兼ね備えた目鼻立ち。中学一年生とは思えない、メリハリがついたボディライン。クラスどころか、学年一といっても過言ではない華やかさの持ち主である、笹沢カイリ。

 カイリがなにか喋っていると、それだけでナツキはいら立ってしまう。自慢話をされると、ますますいらいらする。どこか遠くへ出かける話を嬉々としてされると、憤然と起立して怒鳴りつけてやりたくなる。

 相内家では毎年、夏休みに家族旅行に出かけるのが恒例だ。

 というよりも、恒例だった。

 昨夕、リビングでだらだらとテレビを観ている最中、ナツキは今夏の家族旅行の予定について、母親の真樹に尋ねてみた。

 真樹からの返答は、ナツキを失望させるには充分すぎた。

『旅行? 今年は無理。お母さんもお父さんも仕事が忙しいから。どうしても行きたいんだったら、ナツキはもう中学生なんだから、友だちといっしょに行ってくれば。そんなことよりもナツキ、ぼーっとテレビを観てる暇があるなら――』

「なにぼーっと座ってるの?」

 我に返って顔を上げると、机の脇に木島チグサが立っていた。スクールバッグの肩紐をかけ直し、肩にかかる長さの黒髪を軽く撫でる。艶のある黒目がじっとナツキを見つめる。

「ナツキのことだから、チャイムが鳴った瞬間、わーって歓声を上げながら教室から出て行くと思ったんだけど」

「そんなことしないよ。いくらわたしでも」

 ナツキは教科書類をバッグに詰めるペースを上げた。机の中が空っぽになったのをたしかめ、音を立ててバッグの掛け金をとめる。

「別に深い意味はないよ。外に出ると暑いから、嫌だなーと思って。それだけ」

「どうせ出なきゃいけないんだから、さっさと出たほうがいいよ。ほら、行こう」

 チグサに他意はなかったのだろうが、カイリの話し声が不愉快だから早く出よう、という意味にも受けとれたので、ナツキはにんまりした。スクールバッグを肩にかけ、親友とともに教室を出る。

 もう中学生なんだから。

 中学生になった今春以降、両親から頻繁に投げかけられるその言葉を、ナツキは快く思っていない。


 廊下は帰途に就く生徒でごった返している。普段と比べて、話し声のボリュームが全体的に高い。今後の予定について友人と話し合うなどしながら、ゆっくりと移動している生徒が目立つ。

 昇降口へと向かう人の流れに乗って歩きながら、真樹に家族旅行に難色を示された件について、ナツキは話した。

 チグサは親友に同情を寄せつつも、仕事が忙しいと言っているのだから仕方ない、という趣旨の意見を述べ、積極的に味方にはなってくれない。肩透かしを食らった格好のナツキは、不満の矛先を転じた。

「うちのお母さん、夏休み前なのにそうめんばかり出すんだよ。七月に入ってから、一週間に二回のペース。信じられる?」

「三日か四日に一回なら、許容範囲内だと思うけど」

「でもお母さん、薬味を切るのでさえ怠けるもん。スーパーとかで売っているカット済みのネギ、あるでしょ。あれを平気で出してくるの。それから、レパートリーが少なすぎ。そうめんチャンプルーとか、そういうものも食べたいのに、茹でたやつをめんつゆで食べるのばかりで」

「ナツキ、文句多くない? 毎日食事を作るのって大変なんだよ。お気楽なナツキには想像もつかないくらいに」

 毎日食事を作っているわけでもないのに、なんで気持ちが分かるの? そう反論しようとすると、

「家の食事にそんなに不満があるなら、外食すれば。ナツキのわがままを聞かなくていいぶん、おばさんも助かるんじゃない」

「うちのお母さんみたいなこと言うね、チグサは。あんまり好きじゃない料理が出たときに、わたしがちょっとでもえーっていう顔をすると、文句があるなら自分で作れとか、外で食べてこいとか、すぐにそういうことを言うんだよね」

 ナツキは眉間にしわを寄せる。

「料理なんて作れないし、お小遣いだって限られてるのに、無茶言わないでよって感じ。中学生になってから、もう子どもじゃないんだから、文句があるなら自分でやれ、みたいなことを親が言ってくる回数、すごく増えたよね。大人になれっていう意見は、まあそのとおりなんだろうけど、なんかさ、なんでもその一言で片づけようとするのは違うんじゃない、っていう気がしない? なにが違うのって訊かれても、上手く説明できないんだけど」

 チグサは首を横にも縦にも振らずに、黙って親友の言葉を耳を傾けている。ナツキとは違い、常に話し相手の顔を見てはいない。話をちゃんと聞いていないわけではないのは分かるが、温度差を感じてしまう。

 カイリのこと。家族旅行のこと。その他の様々なこまごまとしたこと。自分がたくさんの問題を抱えていることに、今さらながらに気がつき、ナツキは気が滅入った。

 因縁があるカイリはともかく、旅行に連れていってもらえない問題が、ここまで重苦しくのしかかってくるなんて。

 わたしはそんなにも、旅行が好きだったのだろうか? たしかに、知らない土地へ行くのはわくわくするけど、一年で一番の楽しみだとか、そういうレベルの好きではない。じゃあ、どうして、こんなにもショックを?

 ふと我に返り、ナツキは足を止める。

 いつの間にか昇降口に到着していた。視線の先では、チグサが靴を履き替えている。

 さらにその先には、クラスメイトの後藤くんがいる。たった今、スニーカーの靴紐を結び終えた。

 ナツキは普段、後藤くんと接する機会は少なく、下の名前も知らない。ただ、何度か席替えがあったが、後藤くんの席はチグサの近くになることが多く、入学当初と現在に至っては、彼の席はチグサの席の真後ろだ。顔だけは毎日のように見ているからだろう、ナツキは彼に対して漠然と好感を抱いていた。

 後藤くんは折り曲げていた上体を元に戻し、下駄箱の扉を閉めた。表情と挙動は気怠そうだ。彼は普段からそんな表情をして、そんなふうに振る舞う人だから、暑さのせいで体調がすぐれないわけではないはずだ。

 視線を感じたらしく、後藤くんが振り向いた。

 目が合った瞬間、なにかがナツキを突き動かした。つかつかと後藤くんに歩み寄る。

「後藤くん! ちょっと訊きたいんだけどね」

 首を突き出してぐっと顔を近づけ、真っ直ぐに目を見つめる。

「ずっとクーラーがきいた部屋でだらだらして、たまにプールに泳ぎに行って、食事はそうめんばかり。そういう夏休みの過ごしかた、後藤くんはどう思う? 異常じゃない? そうだよね?」

 沈黙が三人を包んだ。後藤くんは小首を傾げ、指でこめかみをかく。

「それ、たぶん、普通なんじゃないかな。少なくとも、異常ではないと思うけど」

「普通……」

「だいたいみんな、そんな感じだと思うよ。俺だって似たようなものだし」

 後藤くんはチグサを一瞥し、二人に背を向けて校舎から出て行った。

「どうしたの? いきなりそんなこと訊いて」

 チグサがローファーを手にしたまま尋ねる。

「ナツキが言ったような過ごしかた、普通中の普通だと思うけど」


「羨ましいなー、海外旅行」

 ナツキは周囲を憚らない声で、率直な願望を口にした。人の声や車の走行音で賑やかな市道から、ひっそりとした脇道へと曲がった直後のことだ。

 純白のハンカチで首の汗を押さえていたチグサは、それを制服の胸ポケットに仕舞い、親友の横顔を見つめた。今までまったく別の話題について話をしていたのに、いきなりどうしたのだろう、というふうに。

 街路樹が等間隔に植わっているのと、交通量が減ったのとが重なって、セミの鳴き声の存在感が強い。木陰になった領域をチグサが歩き、日向の領域をナツキが歩いている。

「せっかくの夏休みなんだから、カイリみたいに海外は無理にしても、とにかく一回くらいは旅行に行きたいでしょ。それなのに、今年に限って『仕事が忙しいから無理』って……。最悪だよ、もう」

 チグサはこれという反応を示さない。ナツキは少し声を強めた。

「旅行、チグサは行きたくないの?」

「別に。暑いし、面倒くさいし。きれいな景色を見るのは好きだけど、ネットとか本とかでも見られるから、わざわざ現地まで行かなくても、って感じ」

「冷めてるなぁ。夏休みだから特別なことをしようとか、そういう気持ちにならないわけ?」

「家でのんびり読書ができれば、それで満足だけど」

「わたしは満足じゃないよ。ねーねー、なにか面白いことはない? 夏休みじゃないと体験できないような、なにか特別なこと」

「いきなり言われても……」

 チグサは眉根を寄せた。無理はないな、とナツキは思う。ナツキだって、「特別なこと」なんてなに一つ思いつかなかったからこそ、親友に意見を求めたのだから。

 突然、携帯電話が震えた。震源は、ナツキのスカートのポケット。電話だ。

 根拠のない期待にナツキの胸は高鳴った。しかし、発信者が母親だと分かった瞬間、テンションは急降下した。夏の献立にそうめんを重用し、多忙を理由に家族旅行を拒絶する真樹が、心を震わせるような話を持ってくるはずがない。

「もしもし。お母さん、どうしたの」

「訊くの忘れてたけど、今日はお昼ごはんはどうするの?」

「えっと、チグサといっしょに食べるつもり。もう作っちゃってる?」

「ううん、作る前に確認をとろうと思って」

 いつもの手抜き料理で済ませるつもりだったんだな、と思ったが、口には出さない。真樹のみならず、チグサにまで怒られそうな気がしたから。

「じゃあ、昼食は別々ね。熱中症と、夜遅くならないようにするのと、その二つだけ注意して」

「はーい」

 通話を切ると、すかさずチグサが、

「食事の約束、したっけ」

「今決めたの。あ、でも、チグサのお母さんの許可が」

「うちはたぶん大丈夫。一応確認してみるね」

 チグサはアプリを通じて母親にメッセージを送った。一分も待たずに返信が届いた。

『了解です』

 全文はそれだけだった。急にセミが鳴きやみ、落とし穴に落ちたように一帯は静かになった。チグサは携帯電話をスクールバッグに仕舞い、他愛もない話を自ら切り出した。

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