閑話移りゆく日々
我が道を行く敵手
私は上官――過日、実験体の犬を下層に放した大佐だ――への報告を終えると、やや急ぎ足で自身の安全地帯へと向かっていた。無論、表向きは一切急いでいない風に見せる。そういう姿は、『軍人らしくない』からだ。
「アレでおそらくリミットは引き延ばせた。だがその程度で諦めるほど、あの男はヤワじゃない」
口の中でつぶやき、思考を巡らせ、それでいて敬礼への答礼も欠かさぬように気を配りつつ、私は軍警本部、ひいては
「三番街。例の場所へ向かってくれ」
「承知しました」
水素と電気のハイブリッドカーの中。旧知にして付き合いの長い運転手にすら言葉短く接し、私はひたすらに思考を巡らせる。この街では、誰がどこで聞き耳を立てているかわからない。信の置ける者を運転手に据えたところで、ややもすればどこかで儚くされ、顔をすり替えた何者かが成り代わっている可能性は否定できない。己の言動に関して、私はどこまでも注意を払っているつもりでいた。
「到着しました」
「ありがとう。君も、これで」
「……感謝します」
三番街の裏通りにて、車が停まる。下層ほどではないが、決して陽の当たる場所ではないことは明白だった。私は運転手に多めの手付金を渡す。彼は一瞬迷いの顔を見せた後、渋々といった体で受け取ってくれた。
ここで金を渡すという行為が、彼の矜持に触れることはわかっている。だが私には、保険に保険をかけておく必要があった。信用という言葉だけで済むほど、私の行く道は容易くはない。
「……」
私は言葉少なに、裏通りへと踏み込む。ここは有り体に言えば【そういう用途の街】だった。偉大なる
「
私は複雑な思いを抱えつつ、飾り窓を横目に歩いていく。客引きなんてものはない。そういった無粋は、この街では禁じられていた。ただただきらびやかで、それでいて静かな奇妙な街。そのアンバランスさが、より一層『造られた街』であることを実感させた。
「……」
誘惑を繰り広げる女体、店先で足を止めた者に声をかける従業員。そういった光景を見る度に、この街が変わってしまったことを思い知らされる。雑多混沌としつつも、笑顔と快活にあふれていた小さな町。しかし我が愛すべき
「……っ」
絶対に声にできない呪詛を口の中で吐きつつ、私は更に奥へと進んだ。いくら整った、法によって支配されている繁華街であろうと、潜まった場所まで来れば空気は淀む。私の目的地は、そこにあった。
「いらっしゃい……」
裏通りの奥、さらに一本入った裏路地。小さな、数人しか入らない程度の店がそこにある。扉を開けると黒髪の、いかにも陰気な店主が口を開いた。目には光がなく、周囲には陰めいてクマが浮かび、歯の色は黒ずんでいる。典型的な
「いつものを頼む」
「あい」
短いやり取りだけで、彼女は動く。ついでに店内に猥雑な音楽が流れ出した。念には念を入れた、『いつもの』セッティングだった。
「どうなのさ、最近は」
「J・Dと再会したよ。覚えているかい? あの向こう見ずの、俠気の男さ」
「……ジョーンズ、だね」
「そうだ」
私は人差し指を一本立てた。しかし、彼女の陰気な顔は揺るがない。揺らぎようもない。歳月と苦労、そして
「……アイツは、どうだった?」
「変わっていないね。歳月を経て、何度も折れて、それでも立ち上がる。そういう気概が、変装越しでも良くわかったよ」
「へえ」
私の言葉に、珍しく彼女が驚いた顔を見せた。やはりあの男は、彼女の心にも爪痕を残していたのか。そうわかると、少しだけ心の底がチリリと燃えた。
「まだしっかりと顔を合わせたわけじゃないけど、おそらくあっちも私には気付いているはずだ。それもわからずに探偵を名乗れるほど、この街は甘くはない」
「……そうね」
彼女が、わずかに残っていた酒をあおる。無論、
「今月分の中和剤だ。これで急性症状は抑えられる」
「いつも、済まないね」
私は懐から内服薬の入った袋を取り出し、彼女へと手渡した。薬物が抜けることによる禁断症状を和らげ、最低限の生活に戻すためのものだ。悲しいことではあるが、我々の送り出した薬剤の副作用――簡潔に言えば麻薬じみた薬効――については、人生に根差すほどの効き目を持つものが多い。それゆえに、他の薬剤……時には薬物で中和しなければならぬのだ。
「ふぐ、ふぐ」
彼女は声を上げながら、数錠分の薬剤を一息に平らげていく。とても尋常の振る舞いではない。それもそのはず。私が渡している中和剤は、薬物――とはいっても、効き目はさしたるものではない――にあたるからだ。正直に言えば非道ではある。だが、彼女の輝きを取り戻させるには、これが一番の手段だった。
「ふう……スッキリした。やっぱり効くわね」
「どういたしまして。そういう調合にしてもらっているからね」
しばし――十分ほど経ってから顔を上げた彼女からは、陰の気が全くと言っていいほど抜け落ちていた。瞳は輝いているし、肌にはツヤが出ている。かつて私を照らした、太陽そのものだった。
「で? 聞く限りではまだ正面切って顔を突き合わせたわけじゃなさそうだけど、彼――ジョーンズ・デラホーヤとは……ああ、ぶつかるのね」
「ぶつかるね。これはもはや運命だ。私は私のすべてを晒し、それをもって、彼を説き伏せにかかるのだ。この身体と、この心でね」
表情だけで結末を悟った彼女に代わり、私は冷たく今後の展開を述べる。そう。いかに苦しくとも、悲しくとも。私は彼を説き伏せねばならなかった。他ならぬ、自分のために。
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