血が上る探偵
午後六時。ここ最近の生活より二時間ほど早い夕食は、額から汗を流すほどの緊張に包まれていた。いつも通りに作られた夕食――野菜を混ぜ込んだハンバーグと、バターロール数個――を、目を合わせることもなく頬張っていく。
「……」
「…………」
場に満ちるのは重苦しい沈黙。原因はどうあがいても俺だが、頬を膨らませているのはサーニャ嬢だ。俺にはわかる。この自称・俺の娘で探偵事務所の家政婦気取りは、俺が再び死地へ向かおうとしていることを察しているのだ。
「不満があるなら、口で言ってくれ」
「言ったって、聞かないですよね」
「聞かねえかもしれんが、俺の勘はそこまで鋭くはない。言われなくちゃわからないことのほうが、わかることよりも多いんだ」
ハンバーグを噛み締めながら、俺はサーニャ嬢に告げていく。野菜が混ぜ込まれているせいか、歯ですり潰すのにも手間がかかる。例えるのなら、俺たちがわかり合うことの難しさのようにだ。
「じゃあ言いますよ」
つっけんどんな声で、サーニャ嬢が言う。いつも以上に荒れていることは、鈍いと言われる俺の勘でも察せられた。いつかどこかで、埋め合わせをしよう。いつになるかが、本当に難しいのだが。
「今夜は、どこにも行かないでください」
ゴクリとハンバーグを飲み込み、添えてあった水を一息に飲み干した直後。彼女は真っ正面から踏み込んで来た。単刀直入。あまりにも素晴らしい踏み込みだった。俺の口も、思わずポカンと開いてしまう。
「……どこかへ向かう。その確証があるのか?」
俺はすっとぼけた。ちっとも男らしくない選択肢。だが、どこまで話しても平行線になるよりはマシだった。あの徒労感ほど、無為なものはない。
「ありません」
そんなふうに考えていたから、サーニャ嬢が首を縦に振るのは想定外だった。てっきり女の勘とでも言い張り、意地でも俺を引き止めると思ったのだが。雰囲気には出ていただろうし、そのくらいの自覚はあった。
「でも。死にに行く、死んでもなにかをやり遂げる。それができるのなら、生命を失っても良い。そういう風に、思っている。そんな予感だけは、ずっとしています」
「……っ」
俺が息を呑む音が、部屋全体に響いた気がした。一度は負けた相手に、また挑むという重圧。それによって起こる
「……行かなきゃ、また誰かが泣く」
逃げ口上だとは思いつつも、通り一遍の言葉を並べる。だが、嘘は言っていない。俺が行かなければ、また誰かがあの犬に泡を食う。最悪生命を貪られる。そうなる前に、刺し違えてでも。
「ダメです」
しかし、娘の反応はにべもなかった。彼女は首を縦に振った後、顔を下げて飯を噛み砕いている。あたかもこちらを、避けているかのようだ。いや、避けているのか。畜生。マスターといい、なんでどいつもこいつも。
「代わりがいないのはわかります。誰かが【ビースト】を葬らなければ、誰か――この街の人が泣くことも」
飯を噛み砕く合間に、サーニャ嬢が言葉を絞り出す。そうだ。その通りだ。よくわかってるじゃないか。じゃあ、なんで。
「でも、私は認めません」
そばかす面を、彼女は見せない。見せようとしない。俺の苛立ちは、いよいよ最高潮に達する。なんで誰も、俺の話を。
「はい、それまでよ」
いっそのこと、そばかす面を強制的に上げさせようか。半ば暴力じみた思考が脳裏をよぎったその時、第三の声が楽しげな口調で介入した。豊かな胸に、それを隠す薄汚れた白衣。目の下には濃ゆいクマ。一つ縛りの、金の長髪。
「サァラビィ」
「無警戒が過ぎるよ、ジョン。あ、それとボクにも夕食一つ」
「おい」
あんまりにもの傍若さに、俺は声を荒らげかける。苛立ちの対象が移っていく。だがそんな俺をものともせず、サワラビは俺に近付いてくる。そして、声を潜めて。
「頭を冷やせと、言っているんだ」
常よりも、少しだけトーンが低い。常よりも、少しだけ口調が重い。俺には、その意味がわかってしまう。だから無言で、彼女に背を向けた。
「よろしくー」
最大限の威圧からの素早い変わり身に、俺は脳内で最大級の侮蔑語をぶちまける。キッチンへ向かい、ハンバーグとバターロールを……って、なんで予備がある。まるで、来客があるかのように……。
「すぐできますからね。来客用の予備が、残ってますので」
「……」
ブルシット。サーニャ嬢の声に、俺は血の上り具合を実感させられた。畜生。たしかに俺は、彼女にいつも予備を作らせていた。サワラビが現れてもいいように。依頼人が来てもいいように。それを忘れているなんて。とんだ道化だ。
「待っとけ」
こみ上げた自虐を握り潰すように、俺は二人へ声をかけた。ハンバーグはちょいと温め、バターロールはそのまま出せば良い。水を入れるコップは、その辺のでいい。俺は手短に準備を済ませる。嬢が来る前には、ずっとやっていたことだった。
「待たせた」
ものの五分かそこらで、俺はテーブルに品を置いた。同時に自分のブツを回収し、所長席へと持っていく。
「なんで離れるんだよぉ」
「手狭だろうが」
サワラビの甘ったれた抗議に、俺はすかさず言い返す。応接用のテーブルは一対一ならともかく、二対一での食事には少々狭い。だから、ちょうどいい。
「ちぇー」
「言ってろ」
サワラビが口を尖らせるが、俺はそいつをスルーする。いちいち構っていたら、飯を食い終わる前に夜が明けちまう。
「……どうして、ですか」
だが張り詰めた声が、俺に逃避を許さない。いや、逃げていたのではない。話に戻るタイミングを……
「どうして……」
ガッデム。続いた声とようやく向けられた顔に、俺は頭をかきむしりたい衝動に駆られた。なぜか。サーニャ嬢の頬に、伝うものがあったからだ。
「どうして」
三度。嗚咽混じりに問われる。俺は答えをためらった。俺が想像するに、今サーニャ嬢が聞きたいことは二つだ。二つだがそいつが、複雑にこんがらがっている。
一つが、俺はなぜ命を賭けても動き続けるのか。
一つが、自分のことは拒絶するのに、なぜサワラビの提言には応じるのか。
「……はい、それまでよ」
さっきとは異なる調子で、第三の声が割って入った。声の主もまた、俺から視線をそらしていた。
「おい」
「見ていられないから顔を背ける。そこに非はないだろう?」
「……ちっ」
情け容赦のない反論に、俺は舌を打った。自分を痛めつけたい衝動。最悪の言葉をぶち撒けたい衝動。この場から出ていってしまいたい衝動。マイナスの感情ばかりが、俺の中を駆け巡っていた。
「ま、安心したまえ。ボクだって、ジョンに死なれちゃ色々と上がったりだからね。少なくとも、生命の面だけは保証できるように考えた」
「!」
正面を向いたサワラビが、俺に救いの手を差し伸べる。だが俺より先に、サーニャ嬢のほうが喜色を浮かべた。応接椅子から立ち上がらんばかりの勢いで、サワラビに食って掛かる。
「本当ですか?」
「本当だよ。これでも科学者の端くれだ。かねてから準備してある」
「おい、まさか」
胸を張らんばかりのサワラビの言葉に、俺は固まった。おいおい。いくらなんでもそいつは。
「嬢を泣かせた罰として、今夜のメンテナンスはしこたまやられてもらう。第二段階、解禁だ」
サワラビは大きく胸を張り、そこへサーニャ嬢が抱きついていく。女性陣が歓喜に包まれる一方で、俺の気分は最底辺まで急降下していた。
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