過去とぶつかる探偵

 夜半。俺は眠れぬ夜を過ごしていた。装甲を纏ったわけでもないのに、怯えているわけでもないのに、異常なまでに目が冴えていた。たしかに、今日を思えば然るべき反応だ。しかし、非常に不本意だった。


「どうしてああなった」


 暗い部屋の中、俺は終わりつつある今日を思う。片付けられてしまったせいか、部屋が妙に広く感じる。深淵のように、どこまでも引きずり込まれてしまいそうな気分だった。


 ***


 四番街に立つ先方の屋敷は、決して無駄に広くも大きくもなかった。だが、構造や調度品に気を配られた、別の意味で圧倒されそうなシロモノだった。


「気取ってないだけに、かえって気が滅入るな」


「品の良いお屋敷ですからね。あとソワソワしてるとナメられますよ」


 事務所の倍近くは広い居間。くつろぐ助手に対し、俺は居心地の悪さを抑え切れなかった。目は気もそぞろにあちこちへと動き、足は細かく貧乏ゆすり。たしかに、見られるとバツの悪い姿だった。


「悪かったな。下層育ちの探偵稼業だから、不慣れなんだよ」


「シッ、どこで聞かれてるかわかりませんよ」


「くっ」


 俺は思わず顔をしかめる。助手という体のサワラビは、どうもこういう場に手慣れているらしい。先程からやられっぱなしだ。


「だいたい、なんで俺まで連れて来た。お前で全部済ませればよかったじゃないか」


「いつもなら電話連絡で済ませますけど、さすがに二番街のお方が相手では失礼が過ぎますよ。堂々としないと、かえって怪しまれます」


 サワラビの指摘に、俺は唸ってしまった。声には出さないが、敗北感を得た。気苦労は極まりないが、理にかなっていた。負けを認めた俺は、『ごく一般的な探偵』の姿勢を取る。


「サワラビくん。口が過ぎるぞ、静かにしたまえ」


 少々気取り過ぎかもしれない。だが俺の知っている探偵は、そういうものだった。気取った口調で、いつでも紳士で。そして時としてクールに敵と戦うのだ。そう、彼の名は――


「大変お待たせしましたね、ジョナサン様。先方がお越しになられました」


 思考は打ち切られた。一人の老人が、茶と菓子を手に現れた。『品の良い』という言葉が、よく似合う老婦人だった。主人、またはそれに近い人物であろうというのに、ご苦労なことだ。


「先代の細君だ。そして、依頼人でもある」


 サワラビが小声で補足を入れる。小声だからか、いつもどおりの口調に戻っていた。俺はうなずき、夫人に挨拶を返した。夫人も小さく返礼し、茶と菓子を置いていく。いい香りのする、紅茶だった。


「流石、とでも言うんですかね」


「ですね。素晴らしい方ですよ、先生」


 紅茶をすすりながら言葉を交わし、使者とやらを待ち受ける。やがてノック音が響き、俺たちは立ち上がった。いくら使いといえども、お偉方のそれともなれば失礼は避けたい。これもまた、ガッデムな気苦労……


「っ!?」


 とか考えてたのが、一瞬で吹き飛ぶ。思わず変装を解いて、抱きしめたい衝動にさえ駆られた。なぜなら。


「どうも。大佐の名代として参上しました、秘書官のエリック・ガイナーです。大佐は多忙につき、このような形で申し訳ありません」


 帽子を取って恭しく一礼する長身の男。その髪色は金。瞳も金。まばゆいばかりの輝きを緑色の軍警服に押し込め、ヒゲも陰りもくすみもない顔をしていた。まごうことはない。同姓同名でもない。コイツは。


「お」


 思わず席を立ちかける俺。しかしその背中に手。下に引かれて、座り直す。


「失礼。ジョナサン先生は軍人を見ると思わず駆け寄りたくなる癖があるのです」


 サワラビがいかにもそれっぽい理由を作る。ナイスリカバー。だが俺にそんな癖はない。覚えてろ。


「いや、申し訳ありません。困った癖でして。ええ、これでも昔は、はい」


「なるほど。男子たるの夢、ですか」


「そんなものです」


 なんとか誤魔化すことに成功し、サワラビとともにエリック氏と言葉、挨拶を交わす。だがそのさなかにも、俺の感情は渦を巻いていた。こんな出会いでなければ、再会喜ぶことができたのだ。三十年の流れが、運命を分けてしまった。


 しかし俺の思いをよそに、会談は続いていく。エリック氏は、躊躇の素振りさえなく話題を切り替えていった。沈痛な面持ちで、彼は語る。


「早速ですが、本題に参りましょう。実は極めてお恥ずかしい話なのですが、大佐が大変に可愛がっておられた犬が、お屋敷からいなくなってしまいまして」


「ほう。それはさぞかしお嘆きのことでしょう。しかし、なにも場末の探偵に頼まずとも」


 俺は率直に切り返した。これはいわば宣戦布告とも言える行為だ。怪しいところや隠し事でもあれば、探偵のプライドにかけて拒否を叩きつける。たとえ相手が幼馴染だとしても、そこだけはブレちゃいけない。ブレてはならない。


「ええ。怪しまれるのはわかります。私が同じ立場だったとしても、そうするでしょう。ですが、大佐は軍警の幹部であり、非常に多忙なお方です。ましてや軍警を動かすわけには参りません。威信に関わります。あと」


 帰ってくるのは淀みのない答え。表情にも、言葉の端々にも、一切不審が感じられない。俺は確信した。コイツは、昔とまったく変わっていない。俺がかつて焦がれた黄金に、かげりはなかった。


「犬は犬ですが、ええ。大佐に可愛がられたせいか、少々凶暴かつ、奔放でして。万に一つですが下層に向かった場合、なんらかの被害をもたらす恐れさえあるのです。そうなれば」


「殺処分ならまだいいほうです。最悪の場合、組織に袋叩きにされ、犬鍋や饅頭マントウの具にされますね。彼らに容赦はありませんから」


 はっきり言えば俺としても後味の悪い話だ。だが九番街や十番街の連中は手段を選ばない。俺がよく買う饅頭にしても、実のところはなにが入っているかわかったもんじゃない。美味いから気にしない。それだけだ。


「結局の所、そうなる前に見つけていただきたいのです。無論、当方でも手は打ちます。打ちますが、限界があります。なにとぞ、お引き受けいただきたく」


 エリック氏が立ち上がり、頭を下げた。軍警の人間が、市井の探偵にそこまでしていいのか? 疑問が浮かぶが、すぐに消えた。彼の礼はそれほどまでに気高く、礼儀にかなっていた。輝きを打ち消さぬままに、彼は俺を頼っていた。


 ここで俺は黙考に入った。もう一度ここまでに聞いた要素を並べ立てる。依頼人は軍警の大佐。逃げたのは犬。犬は凶暴かつ奔放で、最悪取り返しのつかない事態を起こす恐れがある。


「横から失礼します。ジョナサン先生。助手として提言します。この件は私たちの生活圏にも影響します。引き受け、速やかに解決するべきかと」


 サワラビが突如、口を開いた。その通りだ。その通りなのに、なにかが引っかかっていた。今日の不運か、あるいは探偵のシックスセンスか。自分でもわからない。だが、エリック氏に嘘はないとも、俺は直感していた。ならば。


「わかりました。お引き受けいたしましょう」


「おお!」


 引き受けるしかない。俺は内心歯噛みをしつつも、決断した。男は改めて頭を下げ、俺はそれをなだめた。あとは細部の打ち合わせをして俺たちは別れた。


 帰り道、サワラビとは当たり障りのない会話に終始した。空気を読んでくれたのだと、思うことにした。帰って来てからも隣に声をかけず、ずっと椅子で考え込んでいた。食事をとる気にすらなれなかった。


 そうして見る部屋は、やはり引きずり込まれそうな空間だった。

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