酷く現実的な

五味千里

酷く現実的な

 映画の「LEON」を観ると、僕はいつもあの女性ひとを思い出す。綺麗に通った鼻筋、滑らかな白肌、破滅を願うような強い瞳、全てがマチルダと被るような人だった。人の名前なんていつか忘れるものだけれど、あの女性ひとの名前だけはずっと覚えていられる気がする。坂田絢音さん。もしかしたら、あれが初恋だったのかもしれない。


 絢音さんとは小学生の時の同級生だった。といっても会話は数えるほどしかない。席が隣になったとき、少し話すくらいだったと思う。

 絢音さんは、物静かな子だった。マチルダと同じように大人びていて、話すのが苦手というより、どこか達観した静かさだった。しんとしていて、本を読むかぼんやりと外を眺めるばかりしていた。


 五年の頃に同じクラスになってから、僕は絢音さんに好意を持つようになった。いや、好意というよりも憧れに近かったかもしれない。

 特段の理由というのは覚えてないけれど、おそらく一番目に留まる女子だったからだと思う。周りの女子はどうも必死でやかましいか、怯えるように静かな子ばかりだったけれど、絢音さんはそのどちらでもなかったから、自然と目についたんだろう。

 それか、あの大人びた雰囲気が好きだったのかもしれない。他人に媚びない絢音さんの空気感は、僕の知っている大人達より大人に見えた。

 とにかく、僕は絢音さんにどうしようもなく惹かれた。自己とかアイデンティティとか分からなかったけれど、自分の目指すべき人間がそこにいる気がした。


 絢音さんはいつも、授業休みは教室で外を眺めていて、昼休みになると図書館で難しそうな本を読んでいた。本といっても小説で、宮沢賢治とか吉本ばななとかだった。それでも、児童文学しか読んだことのない僕からすれば充分に難しい本だった。

 一方の僕も、大体絢音さんと同じような過ごし方だったと思う。友達が少なかったから、図書館に逃げて大した興味もない偉人についての伝記を読んでいた。坂本龍馬、織田信長、野口英世、色んな人の伝記を読んだけれど、どの人にも特に憧れは持たなかった。僕の憧れは絢音さんだけだった。


 教室以外で絢音さんと話したのは一度きりだった。昼休みに図書館で僕が宮沢賢治の伝記を読んでいると絢音さんが、


「そんなのより、これ、読んだ方がいいよ」


と言って、僕に本を一冊、差し出してきた。「これ」は『春と修羅』だった。

 気が進まなかったけれど、僕は読んだ。だけど初っ端から「有機交流電燈」なんて言われたもんだから、頭に疑問符がこびりついてただページをめくる作業になった。

 顔をふと上げると目の前に絢音さんの軽く微笑んだ顔があって、僕はドキリとした。凛とした女性の微笑みが、こんなに美しいものだとは思わなかったから。

 僕はどこか恥ずかしく思ってその笑みから目を背けると、絢音さんは言った。


「意味、わかった? 」


 僕はぎこちなく首を傾ける。嘘をつけないような微笑みだった。


「そう? 実は、私もなんだ」


 そう言って、絢音さんは笑みを強くさせた。

 僕はたまらなく嬉しくなった。憧れの人になにかしら近づけた気がした。僕は少しオーバーな笑顔で返した後、絢音さんととりとめもない話をした。内容なんてあってないようなものだったけれど、暫くの間、僕にとっての一大ニュースになった。 


 その時以降、僕の彼女に対する憧れはより強いものになった。大人びた女性ひとの「びた」部分を感じられた気がして、一層好意を持ったのだと思う。

 

 絢音さんと図書館で話したのはそれきりだった。僕はまた話したかったけれど、その機会を自分から作ろうとはしなかった。僕の臆病な部分が出て、先の会話を彼女の気まぐれとか暇潰しとか言い訳しているうちに、小学校も中学校も終わった。それぞれの住む世界の溝は段々と大きくなって、高校も違ったところに通った。


     ◆◇◆◇◆◇◆◇


 絢音さんと再会したのは大学四年の夏休みだった。その頃僕は、近所にできた電気治療の体験会に通っていた。別に身体は悪くなかったけれど、なんとなく「ネタ」になると思ったからだ。

 当時の僕はweb小説をちまちま投稿してて、就活も大してせずに食べて寝て書いての繰り返しだった。体験会に誘ったのは父だったけど、僕のこの自堕落な生活にどこか嫌気があったのかもしれない。

 体験会は連日行われていて、どれほど行っても構わなかったから、僕は殆ど毎日通った。電気治療の成果はあまり感じられなかったけれど、体験会の独特の雰囲気が好きだった。

 体験会は、商店街の小さな空き部屋で催されていて、一度に受けられる人数が八人くらいだった。最初に受付をして、僕らが電気治療を受けている間、「会場責任者」という人が話をする。

 電気治療の効用、人間の構造、最近の流行り病、色んな話を訊いた。その多くが科学とスピリチュアルをごちゃ混ぜにした説明を付け加えられていて、僕はそのヘンテコな話が好きだった。


 体験会に通って一ヶ月もした頃、僕は受付の女性に何か既視感を持った。受付の人は毎日変わって、大体は女性だったけれど、あそこまでの気が惹かれる感じはなかった。

 僕は電気治療の間、うんうんと考えて、その女性が絢音さんだということに気づいた。そして十年ぶりの再会に喜びを感じ、終わると真っ先に受付へ向かった。

 受付に行くとその女性ひとは、「また来てくださいねー」と満面の笑顔で応対する。そして僕はそれに言い知れない違和感を持った。

 えくぼを深めて、白い歯をありありと見せつけるその表情は、僕の知っている絢音さんのものではなかった。しかし、胸についているプレートにはしっかりと「坂田」の文字がある。ただの同性なのか、絢音さんが変わっただけなのか、僕にはわからなかった。

 結局、僕はそっけなく受付を過ぎた。大して話さず、会釈だけで普通の客みたいな素振りをした。


 受付を過ぎた後、僕は何だかもやのかかった心持ちで、近くの喫煙所で煙草を吸った。セブンスターに火をつけて、空気に漂う紫煙を見つめていると、心にかかったもやに少し踏ん切りがついた。

 あの女性ひとが絢音さんであろうがなかろうが、僕が気にすることではない。たとえあの人が絢音さんで、何かしらああいう笑顔をする女性ひとになったとしても、「そういうものだ」と思うようにした。だけど、僕の心の隅っこには何か変なシミがこびりついていた。


     ◆◇◆◇◆◇◆◇


 体験会の最終日、「坂田さん」は二度目の受付をしていた。僕はそれに気づいていたけれど、前のように素っ気なく過ごして、前のようにまた近くの喫煙所で煙草を吸った。

 この時も僕の心には、どこか染み付いたシミがあった。あったけど、僕は気にせぬよう努めたお陰で、その感覚は大したものじゃなくなっていた。


 暫く煙草を吸っていると、毛並みの良さそうな、凛とした感じの猫がこちらを見つめていた。僕は飼い猫だと思って、ただ眺めていたら、猫は「ニャー」と媚びるように鳴いた。猫は餌を欲しているようで、僕はポッケに忍ばせていたお菓子を一つあげた。

 猫はそれを凄い勢いで食べた。時折顔を上げ、周りを警戒し、再び餌を貪る。僕はその仕草を見て、その猫がノラだとわかった。ノラらしくない風貌だけど、その仕草はノラそのものだった。

 捨てられたのか、何なのか、経緯はわからないけれど、そのノラは人に媚びて餌を貰い、その餌を他所に取られないよう貪っている。僕はそれを見て、「坂田さん」の時と同じように、「そういうものだ」と思った。多分、このノラも、「坂田さん」も社会に揉まれて、色んなことを知ったのだと思う。そしてそれが堪らなく僕を哀しくさせた。


「その猫、引越しの時に置いていかれたんだって」


 僕が煙草を片手にノラを眺めていると、右から声がした。声の主は「坂田さん」だった。僕は戸惑って、返しに窮していると、「坂田さん」は「久しぶり」と言った。「坂田さん」は絢音さんだった。


「久しぶり、絢音さん」


 僕がそう返すと、絢音さんは近づいてきて、ポケットからピースライトを出した。そうして口に煙草を咥え、火をつけて、一服する。その姿はかっこよくて、美しくて、マチルダが煙草を吸ったらこんな感じなんだろうと僕は思った。


「仕事は? 」と絢音さんは訊いた。


「いや、浪人したから、まだ、大学生」


「じゃあ、就活? 」


「いや、あまり、していない」


 僕の後ろめた回答と裏腹に、絢音さんは「ふーん」と言って興味は無さそうだった。


「じゃあ、何してるの? 」


 絢音さんは煙を宙に吹き出して、尋ねた。相変わらず、惹きつけられる瞳をしている。


「いや、えーと、うん。web小説を、書いてる」


 僕は何となく恥ずかしくなって、答える。でも、僕の心のどこかでは、この告白が絢音さんだけには受け入れられる気がした。あの黒々とした瞳には、どこか逃避を受け入れてくれる優しさがあると思った。

 しかし、彼女は険しい顔をした。彼女は言う。


「小説なんて、やめた方がいいよ」


 唐突だった。僕はその発言の意図が分からず、戸惑う。

 彼女は続けた。


「小説って、読んでいる時が一番いいの。何となく好きなものを読んで、気に入らなかったら評論家気取りで批判して、それが一番、楽しい」


 絢音さんは哀しい目をした。昔見たものとは、また別の、酷く朧げな目だった。そしてその瞳の奥に、僕に対する怒りのようなものが垣間見えた気がした。


「大概の人は、『誰か』になりたくて、小説を書くと思うんだよね。私の持論だけど。好きな小説読んで、好きな映画見て、そこに強く共感して、救われた気がして、そしてほんの少し、自分は特別なんじゃないかって、思う。でも、そんな感情は、読者の時だけ。実際に書いて、競争に揉まれると、自分の作ったものが誰かの焼き直しだってことに気づく。自分の代わりなんて腐るほどいるって、気づく」


 絢音さんは淡々と語る。僕はその言葉の端々が癪に触って、反抗した。憧れの人が、そんな寂れたことを言ったことが途方もなく辛かった。


「僕がそうとは限らないじゃないか」


「いや、そうなるよ、大概。自分の特別さなんて信じられなくなって、途中で惨めに投げ出すか、過程で取った少しの栄光に縋って食えてない癖に『作家』と名乗り出すか、どっちか」


「……何でそんなこと言うのさ。僕は、楽しく書いているよ、今。そんなこと言われる筋合いなんて……」


 僕は段々絢音さんが怖くなった。僕が昔憧れていた彼女は、僕が一番嫌っていた「現実」になっていた。


「どうせ後になったら知ることなんだから。書いているのもつまらない純文学もどきでしょ。そんな顔してる。まあ、ライトノベルでもいいけど……」


 絢音さんはそう言って、ケラケラ笑った。図書館で見た微笑みとは全く違った表情だった。美しさとはかけ離れた、酷くみっともない笑みだった。けれども僕は、その表情に隠れた哀しみみたいなのがある気がした。そして苛立ちからか、その哀しみを少し弄りたくなった。


「小説、書いてたの? 」


 僕は苛立ちに負けて、つい、口走った。しまったと思った時には、絢音さんは、その目に薄らと涙を纏わせていた。深い黒が徐々に淡くなっていく。


「そう……。そうだよ。小説、書いてたの。それこそ、純文学もどきみたいなの。最初は鳴かず飛ばずだったけど、楽しかった。自分が『誰か』になれた気がして。でも、ある日読み返したら、私は、私でも読まない小説を書いてた。ただただ地味で、中途半端な技術をひけらかすだけの小説。それで嫌になって、私は、書くのをやめた」


 そう言って絢音さんは、吸い切ったピースライトを灰皿へぐしゃぐしゃに押し潰して、逃げるように立ち去った。

 悪いことをしたかもしれない。そう思って僕は彼女を追ったけど、その姿はもうなかった。

 最後に見た彼女の背中は、切なく咲く一輪の花のようにも、ありきたりな雑踏の中の一部のようにも見えた。

 

     ◆◇◆◇◆◇◆◇


 その一ヶ月後、絢音さんは亡くなった。母曰く、飲酒運転のトラックにはねられて、呆気ない即死だったらしい。

 僕は特に何の感慨も浮かばなかった。大した哀しみも、驚きも疎らに僕はその報を聞いた。

 

 そのさらに半年後、色んな土地を転々とした電気治療体験会が近所から少し離れたところに来た。

 行ってみると、当然だけど、受付には絢音さんとは別の人がいた。そしてその人は、絢音さんのそれと遜色のない笑顔で僕に応対する。「また来てくださいねー」と明るい声で、深いえくぼとともに。


 僕はその時ようやく一人の女性が亡くなった実感を持った。その感覚は、哀しいや切ないというよりも、怖かった。ただただ怖かった。


 逃げ出すように喫煙所に向かった。すると、あの時と同じ猫がいた。そいつはまた僕に媚びたような声で餌をせびる。

 僕は近くのコンビニに行って、猫にやるお菓子とピースライトを買った。喫煙所に戻り、お菓子を猫にあげ、僕はピースライトを吸う。

 

 煙を吹いてふと考えると、『LEON』のマチルダを思い出した。マチルダは劇中の最後、孤児院へ戻る。あの後、彼女はどうなったのだろう。あの黒々とした強い瞳は、どうなったのだろう。

 絢音さんは、僕にとって確かに『誰か』だった。昔の僕に鮮烈な印象を残した人だった。でも、彼女は死んだ。呆気なく、背景のように死んだ。そして、彼女の代わりに別の人がすんなり入って、世界は淡々と進む。

 多分、彼女は偶然、読まれなかった。そして偶然、スーツを着て、偶然死んだ。

 僕は彼女が「現実」に殺された気がしてならなかった。「現実」に筆を折られ、「現実」を纏って、「現実」に殺された。そして、「現実」から逃げた僕は、のうのうと生きている。


 それが良いことか悪いことか、僕にはわからない。ただそういう「現実」が目の前にやってきたようで、酷く、怖い。

 

 久しぶりに吸ったピースライトは、仄かなバニラの香りとともに、舌先の痺れを与えてくる。吹いた紫煙は、限りなく透明に、というより、酷く現実的でつまらない、白々とした灰色だった。


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