第8話
「それでさ、あいつったら今日も仕事だからって一人で帰るって言いだしてさ、迎えに来たなら普通あたしと一緒に帰るってもんでしょうよ…!」
春子がまくし立てる、前と違うのはこの話をしている春子が笑顔でいるということだ。優も笑顔で春子の話を聞いている。
「それにしても、千代ちゃんよかったね」
「うん、なんだか親の私の方が弱気でさ…知らない間に大人になってきてるんだなぁってしみじみしちゃったよ」
「子育てってすごいね、あたしが優の立場だったらそんな風に子供と接することができたか…」
「春子だったら先に学校に乗り込んでるんじゃない?」
「いくらあたしだってそれは…するかもしれないっ」
「あははは」
二人は笑いあっている。敏治は仕事のために先に帰り春子は優に事の顛末を説明しにいった、お互いの問題が解決しており楽しくお茶を飲んでいる。友達というのは何でも話せる人と楽しく笑いあえる人の2種類があると良いと言う。
「玉ちゃんだっけ?いい友達だね」
「そうね、おはよぉぉぉぉぉぉ!ってスゴい声だったよ」
「きっと、玉ちゃんなりに色々悩んでたんだろうね。それで千代ちゃんみたときに気持ちが高まってきたんだろうね」
「玉ちゃんのおはよう。は千代の心にきっと届いたと思うの、大人になると色んな言い方や表現の仕方があって、もちろんそれはいい事だと思うのよ。でも、小手先の伝え方ってあんまり響かないのよね。」
「ふむふむ」
「マナーとか礼節ってとっても大事、それは当たり前なんだけど本当に伝わる言葉ってのは真っ直ぐで相手のことをみつめてるっていうか…」
「うんうん」
「同じ言葉でも伝え方によって全然違うのよね」
「そうそう」
「春子、ちゃんと聞いてる?」
「えぇ!ちゃんと聞いてるよ、いまのはあたしにとって最大限の相槌だったんだけどなぁ…聞き役って難しいよね」
午後の陽射しが緩やかに二人の時間を暖めていた。
言葉はときにその力を失ってしまうときがある、大きな悲しみの前では無力と感じてしまうことさえある。言葉はときに間違った伝わり方をすることがある、愛しさが憎さとなり、喜びが悲しみになることがある。忘れられない言葉は良い言葉だけではない、心をえぐる刃物のような悪い言葉の方が記憶に残ってしまう。しかし、辛いときに立ち直るきっかけをくれるのもまた、言葉である。
元来、言語というものは物を識別したり分類する役割がある。「紫・黄色・白」「大きい・小さい」「四角い・丸い」「あなた・私」などもそうだ。学問というのは体系的に知識をまとめており専門用語で様々な事象を分類している。言語によって交流を深めようと試みるが、皮肉にも言語は分断という役割を持っているため話し合いをするうちにお互いの溝が深まってしまうこともある。
おはよう。とgood morningは同じ意味であるが言われた方の印象は異なる。同じおはよう。でもその時の表情や声のトーン、仕草、シチュエーションによって印象が変わる。言葉というのはこんなにも不確かなものなのだ。
「それでは、今日のおはようエール…」
「はい、オッケー。カヨちゃん今日もよかったよ!」
彼女のデスクの引き出しには多くの書類が入っている、その書類の中には「辞表」と書かれたものが眠っている。SNSでは「お天気キャスターが出しゃばりすぎ」「顔だけで売れている」など誹謗中傷が散見されている。新型ウイルスの流行に伴いそういった書き込みが増えていき、彼女は精神的に苦しい時期が続いていた。しかし、悪いことだけではない。茶色の封筒の古風な便箋、彼女は自分のエールが全国の視聴者に届いていたことに自信を持つことができたのだ。
「便箋の女の子、ありがとう。」
彼女は今日もおはようエールを続けている、きっと不安はいつも胸の中にあるだろう。だけど、それと同じくらい届けたい、届いて欲しい気持ちがあるのだ。言葉は不確かだ、でもだからといってあきらめる理由にはならない。一度伝わらなくても、次に同じ言葉が相手の胸に響くことだってある。そういう思いを抱きながらカメラの前に立ち続けているからこそ、プロと呼ばれるのだ。
風が吹いた。
大川晴は口を堅く結び歩いている、昨日は大学入試共通テスト本番だった。彼は自己採点をしたが、テスト前から竹やりを持って戦車と戦うような心境であったため、惨憺たる結果について何も落ち込みはしなかった。むしろ彼にとっては、今日こそが本番だという思いがあるのだ。
「姉ちゃんも敏くんも仲直りして、なんだか夫婦ってとってもいい関係だって思った。次は俺の番だ、男を見せてやる…!」
根は良い男なのだが、どこかずれているというか、鈍感でタイミングを外しやすいのが彼の最大の特徴である。
「おはよう。榛名」
「…おはよう。」
「昨日のテストどうだった?」
「いまいちかな、思ってた傾向と違って上手く対応できなかった…」
晴にとってはいつも通りではあるが、恵の無愛想な態度が今日はやけに気になってしまう。恵は時間に律儀な性格のため、決まった時間に決まった道を通って通学している、彼はそれを熟知しており今日は偶然を装って待ち伏せしていた。
「なぁ榛名」
「…?」
「好きだぁー!付き合って下さい!」
彼にとっては渾身の告白だった。通学路で人気のない通りになったタイミングで思いを伝えた、そう彼は恵の話を聞いていなかったのである。
「いや無理」
「えぇ!どうして!?」
「聞いてた?私は昨日の共通テストで落ち込んでるの、次の試験に向けて勉強に集中しなきゃいけないから付き合ってるとかそういう暇はないわけ。わかる?」
「…。」
「大体、どうしてこんなタイミングで言うかな~もうちょっとタイミングとかシチュエーションとかさ、考えて言ってくれればいいのに…」
「…ごめんなさい。」
「…試験終わってからならいいよ」
「え?」
「本当?嘘じゃない?」
「そんな冗談言わないわよ」
「やったー!」
晴の「おはよう。」は毎日積み重なっていた、恵の心に届いていたのだ。恵の「おはよう。」はカヨちゃんへ、カヨちゃんの「おはよう。」は千代と優、春子へ。春子から晴にまた暖かい気持ちをつないでいた。
いま、この世界は新型ウイルスにより大きな悲しみが蔓延している。強力な感染力であっという間に世界に広がり、多くの人を苦しめている。ウイルスに関連して他人を傷つけたり、不必要に遠ざけたりすることで人間同士のつながりは希薄なものになろうとしている。どうしようもない大きな問題に対して、私達はどのように立ち向かえばいいだろうか?
とても些細な「おはよう。」はなんてことのない、意味のない言葉かもしれない。けれども回り回り世界を巡って、目の前の人や大切な人の笑顔につながっている。希望はつながっているのだ。
日常の一つ一つの言葉、丁寧に気持ちを伝えること、自分の周りの人を大切にすること。それが自分の周りの人の周りの人、ひいては世界を大切にすることにつながっている。
「おはよう。」
晴と恵は今日も笑顔に包まれている。
ハローストーリー @maruco07428
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