第42話 甘い香りと雰囲気と

「はい。拭かれたら、一度、手を洗われるといいですわ。このジュースは普通の物よりも糖分が多いんです。なおのことべとつきますから」

 白いタオルを秋山に渡しながら、コンパニオンは化粧室の位置を説明した。

「あ、本当だ。甘い」

 手に付いたジュースを少しなめて、秋山は苦笑いを浮かべた。


 秋山と連れ立って、公子も化粧室に向かった。髪に多少、ジュースがかかったこともあって、洗いたかったからだ。

「ごめんなさい」

 蛇口の前に来て、また謝ってしまった。すまない気持ちがこみ上げてきて、仕方がない。

「気にしなくていいよ」

 勢いよく水を出して、手を洗う秋山。

「それよりも、公子ちゃんこそ大丈夫?」

「大丈夫、だと思う……」

 お下げの内、右のゴム紐を外すと、束ねられていた髪が広がった。ジュースがかかったと思われる辺りを前に持ってくる。しゃがんでから、出し過ぎにならないよう、水道のカランをそろそろとひねり、必要最低限の水で洗う。

 左側に立っている秋山に、顔を向ける格好になった。

「あ、先、行ってて」

「別にいい。向こうでも、待つのに変わりないから」

 手を拭きながら、公子の様子を見やってくる秋山。

(何だか恥ずかしい……)

 公子は洗うのを急いだ。

「それにしても、甘くて渋かったな。こういうのだったら、フランスとかで子供まで日常的にワインを飲んでるって聞いても、何となく素直にうなずける」

「水で薄めているんでしょう、確か?」

「そうだったね。学校にまで持って行くって、何かで読んだことあるよ。感覚が違うよなあ」

 ようやく洗い落とせたような気がしたので、公子は水を止めた。

 髪を鼻先に持っていき、匂いを嗅いでみるが、よく分からない。髪の先端は確かに匂わないが、他がどうなのかまでははっきりしないのだ。

「あの、秋山君」

 ためらった挙げ句、公子は秋山に頼むことにした。

「何?」

「落ちたかどうか、髪の匂いを嗅いでみてくれないかなと思って……」

「おやすいご用」

 秋山は公子の右に回ると、ばらけたままの髪を手ですくった。彼がそこへ顔を近づける様が洗面台の鏡に映って、公子からもよく見えた。

(う、うわ。と、とっても、いけないこと、してる感じ。は、早く終わらせようっと)

 赤面しながら、慌てて公子は口を開いた。

「ど、どうかしら? 取れてる?」

「うーん……」

 鏡の中の秋山は、首を傾げている。まじめな顔のまま、答える秋山。

「鼻が慣れちゃったのかな、ほとんど分からないよ」

「そ、そう。それならいい。もう、行きましょ。カナちゃん達に悪い」

 と、公子が出口のある右手を向いた。すると当然、まだ髪を持ったままの秋山と、相当に接近して顔を見合わせることになる。

 これには秋山も気恥ずかしくなったらしく、急に顔が赤くなった。

「わ、分かった」

 と秋山が言ったとき、不意に出口のところに一成が姿を見せた。

「何やってんのさ! みんな、待ってるよ!」

 状況も知らず、いきなり大声を出した一成に、一瞬、公子達の動作が止まる。おかげで、一成にも状況を認識する余裕ができた。

「……何やってんの……まじに」

「か、勘違いするなよっ」

 ぱっと髪から手を離す秋山。

「髪の毛に付いたジュースが取れたかどうか、確かめてくれって言われてだな……。ね、公子ちゃん?」

「え、ええ、そうよ。一成君、さ、早く行こう」

 取りなすように二人で笑って、さっさと化粧室を出ようとする。

「公子おねえちゃん」

 一成が、公子の顔の付近を指さしてきた。

「な、何?」

 正直に話したのに、何故かどぎまぎしてしまう。しかも、小学生相手に。

「髪、片方がばらばらだよ」

 言われて初めて気が付いた。

(あ! まだゴム紐でくくり直していなかったんだわ)

 指に引っかけたままのゴムを取り、髪をくくり直しながら、公子はまた顔が赤くなるのを感じた。

 ようやく試飲コーナーに戻ってくると、コンパニオンの皆口が心配げな顔を見せた。

「どうですか? 匂い、取れました?」

「はい、だいたいは」

 答えてから床を見ると、すでにきれいに拭かれていた。

「本当に、すみませんでした」

「いいえ、いいんですよ。よくあることなんです。さっきも言いましたように、栓を抜くときにこぼすのって。ただ、あのタイプの栓抜きでは初めてですよ」

 がくっと来る公子。

(あーん、そんなにどじなのかな、私って?)

 みんなの笑い声を耳にしながら、真剣に悩んでしまいそうになる。

「キミちゃん」

 要に呼びかけられた。見れば、要はあまり笑っていない。どちらかと言えば、沈んだ顔をしている。

「これ」

 さっき渡したチョッキを返された。しみがわずかに残っているが、よく拭いてある。

「ありがとう」

「うん……」

 声に元気がない。いつも明るい要にしては、珍しいことだ。

(どうしたんだろ? ジュースをこぼして雰囲気を台無しにしたせいじゃないよね。あ、そうか、私が秋山君と化粧室に行って、長いこと帰ってこなかったからね)

 そう判断し、公子は冗談めかして、小さくささやいた。

「ごめんねー、長い間、秋山君を借りちゃって。髪を洗うのに手間取っちゃって。匂い、取れたかどうか分からないんだから」

「そうだろうね。ジュースの匂いばっかりだったもんね」

 調子を合わせるかのように、要もようやく笑みを見せた。

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