第20話 底がバカの泥沼

 班事務室のある旧規格ユニットエリアから駐機場へ戻る通廊で、ウメコはしょげかえり、そのままへたり込みそうだった。建物間をつなぐ通廊は、配置に融通のきく蛇腹構造の、スカラボウルでは見慣れた様式だったが、この中は薄明るい照明が間隔を置いて灯され、影と組み合って無機質なジグザグ模様作り出し、通るたび気味悪く感じた。普段なら眩暈めまいもよおさせるこの通路を、ウメコはとっとと通り過ぎるところだけれど、いまはこのままこの蛇腹に飲み込まれて、ふさぎの虫ごと溶け込ませてしまいたかった。


 なにも考えたくなかった。いま、昼間の反省などすれば、底なしの深みにはまってしまうだけだから。けれど考えれば考えるほどわからない。こんな理不尽な泥沼に突き落とされて、組合はおろか、班長でさえ、助けの手を差し伸べるつもりはないのだ。


 ウメコは通路の壁のめ殺しの丸窓を覗いた。窓の外はすでに漆黒の闇、虫霧は、窓から洩れた薄い光の手前にしか見れない。けれどその様相は昼間の雑甲虫ザコムシは全盛を退いて、すでに夜甲虫ヤコウムシがとって代わっている。


 つまるところ、自分がバカだったのだ。理不尽な底なし沼でもなんでもない、いまバカなしくじりを認めてしまえば、そこが底だった。――ただ底がバカの泥沼にはまっただけのことなんだ――ウメコは己の浅はかさにあきれ、自嘲の笑みに口をゆがめた。「どうせバングラ―しくじり者さ」



 バグラー仲間は当然、炊事要員さえとうに帰ったあとの明かりのほとんど消えた地下の食堂で、ウメコは残っていた簡易配給弁当をわびしく食べてから、ガレージへとあがる階段で、整備要員の男と鉢合わせてしまった。モリゾ・ヒッツマーブッシュだった。まだ帰らず残っていたモリゾは、ついいま小梅の状態をチェックしたところだった。整備要員の男たちの中で、ウメコが最も出会いたくない部類のやつだ。ウメコは心の中で、いたのかよ!と舌打ちした。


 モリゾは物思いにうつむいていた顔をあげウメコを見ると、ぶしつけに言った。「ったく、ひでえな、ありゃ。どう操縦したらあんなになるんだ、え?あの虫カゴ、もう使い物にならねーぞ」


「フン、それがどうしたよ」ウメコはモリゾが嫌いだった。いまも、さも自分の自信のあるらしい容貌を、どこか意識して気取ったような仕草に、まったく嫌悪感しか覚えなかった。権利労身分として何年先輩だろうとお構いなしなのだ。


「どうもしねえよ、査定するのもこっちの労務なんでな」


「誰が頼んだよ」


「おまえの私物じゃねえんだよ」


「はいはい、虫カゴバグパックのことね。自腹切ればいいんでしょ」ウメコは脇へのいて、とっとと歩きはじめた。「どうせ旧型中の旧型だろ。網の交換面倒だもんな、あれ。整備そっちとしてはよかっただろよ、オシャカにしてやってさ」


「フン、あと機体な、あれはもうメーカー出さなきゃな。こっちじゃ追っつかねえよ」


「だから、お前に頼んでねーよ」ウメコは振り返りもしなかった。


「オマエに頼まれて、整備なんかするか!」


「フン、不適合ノンコ野郎!」


「なんか言ったか!」


「いや、なにも。じゃお先に」


 モリゾの評判はウメコらの周りでは悪かった。以前はエクスクラムの技術労だったモリゾは、出向で捕虫労組合配属となったことで、技術労から捕虫労の整備要員となり、技術労人種としては面白くない配置に、その鬱憤うっぷんをしばしば捕虫要員に向ける、とささやかれていた。


 狭い世界でのそんな噂が自分の耳にも入ってくると、モリゾは優しくするのもしゃくだと、かえって鬱憤うっぷんを遠慮せずに整備査定にかこつけて、捕虫要員にぶつけていた。特にウメコらのような生意気な後輩捕虫労などは、モリゾにとって憂さ晴らしには恰好の的で、ちょっとやそっと強くあたったところで、てんでへこまないから、気づかい無用、モリゾからしてみれば、やり返してくるサンドバッグのようなものだった。


 けれど一方では、モリゾのいっけん乱暴にみえる振る舞いの中に、時折みせる憂いをおびた表情と柔和な笑顔は、セグメント8区の捕虫労女子たちの中の一部の穏健おんけん派から人気があった。それにモリゾが機体をチューニングすると、バグモタの性能が飛躍的に向上するという評価も彼女らの間では聞かれた。しかし過去に何度か小梅もいじられているはずだったが、ウメコにはその実感はまるでなかった。そうして、どうせ対応を変えているのにきまっている、と聞こえよがしに言い合った。


 だから、ウメコの周りのモリゾの評判は、そのような対応の違いにやっかんだ女子たちの、うがった見方も多分に織り込まれていた。


 ただモリゾと関わると虫運が落ちる、などとも噂され、真相はともかく、実際に何人かが、その噂とともに捕虫労をやめていた。


 駐機場に残った居残り捕虫労のバグモタは、もう<小梅>だけだった。


 ウメコは小梅に乗り込む前に、念のためトラメットを被り、小梅のトランストロンと同期させ、燃料計をチェックしてみた。数値は95%強と出た。――なんで?――エンジンを切っていたとはいえ、あれだけの時間放っておいてこの数値であるわけはなかった。だいいちバグパックが壊れ、自動捕虫もできず、手持ちの捕虫喇叭ビューグルでの補給のやり繰りで、こんな満タン近い数値まで、虫は入れなかったし、降着させただけでもあの低クラック値では10%はかかるはずだ。


 虫の補給をするべく天井から降りた補給ノズルが近くに下がっている。さっきはここまで間近になかったはずだ。――モリゾが入れた?――でなければ、他の整備要員しかいないが、周囲に誰も見当たらないところをみると、やはりモリゾが補給したのだろう。ウメコはムシっとした。いまは優しさを受け入れるには、心にその余裕がなかった。優しくされるより、さっきみたいな憎まれ口を叩かれ、叩き返すほうが、心の中の悪いしこりがほぐれそうでずっと楽だった。だから素直にならないウメコは「虫運が落ちる!」とあえて自分に無理強いして思い込み、「こんな虫はさっさと使ってしまわねば!」とコクピットに乗り込み、ガレージを出ると、虫を多く費やすようスピードをなるだけ上げて班の前線ガレージへと向かった。

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