第3話 虫の切れ間

  R44付近を過ぎたころ、ようやく小梅の調子が戻ると、ウメコはギアを切り替え早足歩行にして進んだ。コクピットのトランスヴィジョン・モニター上の合成景色は、デジタル描画で映し出された牧歌的風景が広がって、青々とした樹木の葉叢では、鳥たちがピーチクパーチク鳴きながら愉快に戯れている。放射道路が近づいてくると、遠景にパーキングエリアを指すアイコンが表示された。


『ネエ、コノ近クニガ出来テルヨ。』しばらく押し黙っていた小梅が唐突に言った。


 だって!?嘘だろ?と疑って、ウメコは虫群レーダーに目をやると、確かに少し南に逸れた位置にポッカリと穴が空いている。直径にすれば 最長 100mくらいだろう。虫群レーダーはバグモタのコンソールに内臓されているもので、たまにイタズラが起こるトランスヴィジョンの情報からは完全に独立している。まず間違いない。「ホントだ、信じられないな・・・」



 絶えず虫どもが猛威を振るって、地表の大気を独り占めしている(連合いわく浄化している)こんな土地で、一時たりとも、地表十数メートルのほんのわずかな空間が晴れることでさえ、稀なことだった。それが、これだけの規模でできている!


 連合が実施する計画殺虫も防虫剤散布の通告は受けていないし、これだけの切れ間を人工的に作るとしたら、それなりの数のバグモーティブを稼働させる必要があるはずだ。しかしどのレーダーにも、この付近でそれらしい点滅がまったく見当たらなかった。


 これは間違いなく天然自然にできたなんだとウメコは結論づけたら、開拓労民としての義務感や使命感は無論、捕虫圏居住民なら当然抱くだろう好奇心、それ以上に捕虫要員バグラーとしての興味と向学心、なにより点数稼ぎにはもってこいという個人的打算がムクムクとわき出した。これを見ないでやり過ごす手はない。――きっと貴重なデータが取れるはずだ、これはちょっとしたスクープだぞ――。ウメコはムシシと笑った。「行くぞ小梅!」


 はてしない虫霧が重く立ちふさがるはずの行手の先が、じょじょに神秘を隠すベールのように、いまやその先の空間を薄っすら透かして見せていた。モニターはとっくにトラビの合成景色のフィルターを外してある。そのモニターを見つめるウメコは間の抜けた口を開けて息をもらした。灰褐色の虫のベールが、繊細ではかなげな、美しいものに映った。ジャカスカ鳴っていたチャッターボックスをきって、普段は出さない外気の音をスピーカーに乗せてみる。虫どもの発する夥しい唸りの音が、前方でだんだん薄れていくのを敏感に感じながら、ウメコは奇跡的にできた虫の切れ間の中へ、小梅をゆっくり滑りこませていった。


 モニターから渦巻く虫の姿が消えてなくなると、地表から空まで吹き抜けて、見通し<1207・89㎡>の虫切れ空間、<バグモーティブ駆動不可能領域>が虫霧に囲まれる中、透明な岩山のようにそこにそびえたっていた。


 虫どもの盛大な羽音がやまびこのように聴こえてくるスピーカーの音を押しのけて、<自動捕虫不可状態>の警報がビーコビーコ鳴る。背中のバグパックの捕虫喇叭は自然、空吸いしている。虫はいないが、しかし有害物質の検出はまったくない。ここは清浄な大気のようだ。ついに小梅が騒ぎ立てる。『うめこサン、コノ機体ハ現在バグモーティブ駆動不可能領域二入ッテイマス!コノ状態デイマスト、約30分後ニ燃料ガナクナリマス。ゴ注意ヲ!』


 ウメコは小梅の警告にも応えず、アクセルを踏みこみ、小梅をずんずん歩かせていく。コクピット内の全モニターで警告の表示が点滅し始める。だって、こんな機会は滅多にお目に掛かれないのだ。うるさい警報音はとっくに切った。でもすぐにまた鳴り出すだろう。本当に危なくなったら、こんな音では済まされないはずだ。それでも構わず切れ間の中ほどまで行って、ウメコはトラメット(トランスヴィジョン内臓ヘルメット)のバイザーを下ろし、小梅のコクピットハッチを開けた。


 バイザーを下ろしたのは習慣だった。外気に触れるのにバイザー無しなんて捕虫圏に降りてきてこのかた、ただの一度だってないのだから。ウメコはシートベルトを外して中腰になったとき、ハッチの向こうにひらけた妙に静かな空間を感じてそれに気づき、バイザーを上げ、むき身の顔をあげて見た。つねにいたような大きな目が、めずらしくせばまった。まぶしいのは一瞬だった。すぐに目を見開き、ハッチの開口部に手をやって、モスグリーンの労民ツナギに包まれた身体をくぐらせると、小梅の胸のコクピットの中から、降ろしたハッチの上にスタッと立ちあがった。


 肉眼で空を見たのはもう何年も前だった。しかも捕虫圏の真っ只中の、地表からわずか数メートルしかないところで空を仰ぎ見るなんて、ウメコは生まれて初めてのことだった。虫どものベールに囲まれて、吸い込むように口を開けている空は、飛びこめそうなほど間近に迫って、落ちればどこまでも沈んでいきそうなほど深く、突けばこぼれてきそうなほど、青く充溢していた。そして頭上で永遠に静止していながら、虫どもより以上に何か底知れぬ意思をもってウメコの五感を呼び覚ますようだった。


「絶景だなぁ、これは!」


 半日近い時間をバグモタの密閉されたコクピットの中に座り、骨の折れる労務に服していたしがない捕虫労のウメコでなくとも、こんな生の風景を目の当たりにすれば<捕虫圏居住民アンダーネッツ>の誰もが感嘆の声をあげるはずだし、こんな僥倖に巡り合えるなら、多少の配給ポイントの消費も厭わないかもしれない。精神衛生にはトランスヴィジョンの合成風景より余っ程いい。どうせ不自然な切れ間の発生理由なんて考えたってわかりはしないのだし、それを突きとめるのは<学術労>か<捕虫労研究要員>の労務タスクであって、<捕虫労前線捕虫要員>ウメコの労務タスクじゃない。データを取って帰ればバグラーとしての労責は充分だ。



 ウメコはハッチの上で空を仰ぎながら、大きく伸びをした。深く息を吸ったとき、雑甲虫の忌々しい悪臭が風にのって漂ってきて、ウメコの鼻をついた。「まったく敵わないよ、お虫様には」――これだけの空間ですら、我々アンダーネット民にとっては新鮮な空気の供給が補償されないんだ――。ウメコはバイザーに手を掛けかけたが思い留まって、コクピットの中へ首を突っ込んだ。


 全てのディスプレイが、燃料切れまでのアラートを騒ぎたて、残り時間のカウントダウンを始めていた。一気に消費して、すでに20分を切っていた。「心配するな小梅、それよりこんな空の下で聴くのにうってつけのホットなナンバー流しておくれ!外部スピーカーでさ」


 <小梅号>に搭載されたトランストロン・コンピューターのポケットの中にウメコがストックした音楽のライブラリーは、500曲くらいになっていた。その中から小梅がセレクトした飛びきりの曲をランダムに流してくれるはずだ。ウメコはあるときから曲を小梅にダビングする都度、いちいち、これはこう気分が上がる曲だとか、これは疲れたときに聴きたいだとか、索引インデックスをつけるように教えこんでいた。


 ウメコはハッチの上に胡坐をかいて、頭上の空をぼんやり見上げた。――だけどダウンワード・ハッチでよかったと思えるときが来るとはね――こんな切れ間の外気の中で一息つくにはもってこいだよ――。この機体<hoorah!!フラーイ―!>の初期型は、バグモタ・クラックウォーカーのベリー級(中型)では稀な、コクピットハッチが下に開く<ダウンワード・ハッチ>だった。このハッチだと、機体が降着した状態で乗り降りするには問題ないが、立たせた状態で地表に降りることが困難なのだった。<アップワード・ハッチ>ならば、ハッチが上に開いたとき、ワイアーの巻き上げ機がついてあって、それに足と手をかけスムーズに乗り降りできるところが、ダウンワード・ハッチではそれができなかった。面倒なのは、捕虫した虫を納める際に立ち寄る組合ガレージだ。そこで一時駐機させるときに多くのバグモタがひしめく組合ガレージでは、場所をとる降着姿勢ではいられない。それでウメコは仕方なく、縄梯子なわばしごを取りつけて乗り降りすることにしているが、これが他のセグ8捕虫労たちの、いい笑いものとなっていた。しかしそんなことをいちいち気に掛けるウメコではない。ハッチの開閉方式がカッコ悪く不人気の<フラーイー!!>だったが、おかげで引き取り手もなく、配給ポイントが格安になっていたので儲けものだったと大満足していた。それがウメコがこの機体を選んだ大きな理由ではあったが、もちろん性能と、なによりデザインと好みの緑色ベースの配色が一番の決め手だった。


 小梅の外部スピーカーはウメコの気分にうってつけのご機嫌なナンバーを流している。これは以前チャッターボックスからダビングしたものだった。「なかなかの学習能力だな、小梅」ウメコの言葉はスピーカーからの大音量の中に紛れて小梅には届かない。


――けどワタシの周りに虫をまったく寄せ付けないこんな状況は、虫運が悪いってことだけど、これでさっきまでの虫運の良さと合わせれば差し引きトントンってわけだ――。ウメコはコクピットの開口部にもたれ両手を頭の後ろで組んだ――虫運は悪いかもしれないけど気分は最高――逆虫運とも言ったっけ――。そうして頭上の空に思考が吸い込まれそうになるのを心地良く味わいながら、稀に起こるこんな現象を、虫の切れ間と呼ぶほかにナントカって別の例えがあったはずだけど、あれは何と言ったっけ?と空に溶けそうな思考を取り戻すように追いかけてみた。


――『虫掃むしはきの魔女』の気まぐれ、とかお通り、とか言うんじゃなかったっけ?

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