【四】仙境の花宴 その二

 ――雨が降らなくて良かった。

 雨でもできる代案は整えていたが、晴れの方が似つかわしい。

 彩琳は少し濃いめの化粧をしていた。表に出ることはほとんどないが、もしも呼び出された時に、無礼があってはいけない。濃くしたかったわけではないが、隈を隠そうとしたら、そうなってしまった。不安から肩の被帛ひはく、襟元やくんの裾を何度も直す。

 ろくに寝ていない。何もかも、新しく作り直した。宮殿から外に、揃いの衣装からバラバラの衣装に、何もかも、当初の予定から変えてしまった。槇槇には迷惑をかけた。令霞は緊張していないだろうか。踊るわけではないから、きっとやってくれるはずだ。

 不安がないわけではないどころか、もはや不安しかない。今からでももし怒られないのなら、今まで通りの無難な宴に戻してしまいたい。

 ――でも、わたしはこれが見たい。



 央蓮は苛立っていた。

 ――なぜ、わざわざあんな狭い庭園を選んで、野外の宴を開くのだ。

 彩琳の文での説明は要領を得ず、詳しい内容はわからなかった。しかし、衣装は揃えず、塀に仕切られた小さな庭園で行うこと、踊りのための舞台は立てないことなどが書かれていた。

 予算が足りないのならば出すと言っても彩琳は聞かなかった。

 その結果が、狭い庭園で、楽宮の衣装一つ揃いに出来ない宴だというのか。

 ――買い被ってしまったのか。

 宮中の庭園へと輿こしで移動する間、央蓮の頭の中を疑念と不安が巡っていた。

 ――王女の立場を軽んじていると思われても仕方がないぞ。

 宴が終わり次第春雲の両親に央蓮から謝罪を入れ、彩琳とは距離を置かねばならないかもしれない。楽宮としてだけでなく役に立つ娘だったが、足手まといになるようなら論外だ。失敗した後も彩琳を側に抱えておけるほど、央蓮は余裕のある立場ではない。

 見誤ったかもしれない。その後悔ばかりが胸を衝く。

 そんな風に感じる自分がわからなくもあった。元より険しい道を往こうとしている。駄目ならばそれまでと、そう思って来たではないか。

 叔父である義宵に、この宴席の失敗を知られたくないせいだろうか。正体のわからない苦しい思いを噛みしめながら、央蓮は輿を降りる。

 庭園の入り口を見つめ、ぎり、と歯を噛む。白い塀にぽっかりと開いた、円形の入り口を、重い足取りで潜り抜けた。


 潜り抜けた瞬間、央蓮は一度目を瞠り、そして振り返った。思わず、今通ったばかりの入り口を確かめた。当たり前だが、まだそこにある。そして、ゆっくりと庭の中に視線を戻す。

 別天地。浮かんだ言葉に、大げさすぎると首を振ろうとしたが、目が離せない。

 塀の中の小さな庭園は、一面淡紅たんこうの花で満ちていた。海棠かいどうは盛りを迎え、こずえを見上げれば花弁の先端から紅色が滲んだような花が満開だった。小ぶりな薔薇は、見た目には派手ではないが、庭園の中に良い香りを漂わせる。盛りを過ぎ始めているはずの牡丹は今日開き切ったという艶やかさで、白に近い桃色、淡紅、粉紅ふんこうと、濃淡を変えあちこちに大輪の花を咲かせていた。小ぶりなのは芍薬しゃくやくだろうか。

 中央には一段高くし、びょうを立てた主賓の席と、賓客ひんきゃくたちの席が作られている。その周りには、どこから手に入れたか桃花とうかが活けられていた。

 ――なるほど。

 同じ庭で、全ての花を満開にするのは不可能だ。元より庭は、一つの季節に見ごろを作るものではなく、いつの季節も楽しめるように作るものだ。牡丹や芍薬は、鉢植えだった。下草で鉢を見せないように飾っている。

 この小さな庭の中で、散り始めるはずの花も、これから蕾を綻ばせるはずの花も、きれいに咲き切っている。

 春の美しさを全て集めて、時を止めたようだった。

「央蓮さま!」

 利発そうな少女の声に、央蓮はわずかに表情を緩める。幼子には怖がられることの多い央蓮だが、春雲は央蓮に怖じることなくものを言うので、央蓮も気に入っていた。

 春雲はこの庭が気に入ったらしい。興奮した様子で主賓の席から駆けてきた。頬は庭の花と同じように薄赤く染まっている。

 祝いの席ということで、いつもより豪奢ごうしゃな装いだ。さい歩揺ほようを幾本も髪に飾り、鈴のような軽い音がする。

 慌てて春雲の後を追いかけてきた侍女が、央蓮に礼をする。見れば庭の中では、春雲の弟の他に、彼女と年の近い、親交のある貴族の娘たちが花を眺めたりしている。

「春雲殿、祝いに来ました。おめでとうございます」

「ありがとうございます」

 春雲は一度きっちりと礼の姿勢をとると、こらえきれなさそうにまた顔を上げた。

「央蓮さまの大切な方が、お庭をこうしてくれたのでしょう⁉ お話を聞かせてください!」

「春雲殿、主賓であれば、席につかねば」

 促しても春雲は央蓮の側を去らない。

「でも、まだ座らなくてもいいと思います」

 どういうことかと眉を寄せると、春雲は輝くばかりの笑顔を見せた。

「宴の前に、百闘草ひゃくとうそうをするんですって」

 百闘草、市井しせいの子供のする遊びではなかったか、聞いたことしかないが、摘んだ花の数や珍しさを競うものだったと思う。

 ――宮城の花を摘むだと?

 彩琳が用意した牡丹や芍薬であればいくら摘んでも構わないが、庭園の木や花を勝手に毟られては困る。一つ不安が去れば、また一つ不安になる。これで宴が始まったらどうなるのか、そう思った時、春雲の両親が到着した。

 春雲の父は、異国から妻を迎えた。国内の貴族を妻とした王族と違い、央蓮の外戚がいせきとの利害関係がない。関係の悪くない親類だったからこそ、こんな無理を頼んでしまった。

 名は赫揚安かくようあん。小太りな体型の、穏やかな男だ。義宵や皇帝とは従兄弟だが、あまり似たところはない。

 互いに拱手きょうしゅすると、揚安の後ろから、彼の妻の多紫妃たしひが姿を現し、微かに笑んで礼をした。

 この場にいるべき者が全て揃った。央蓮の胸に不安がよぎる。

 ――失敗すれば、私はお前を切り捨てなければならなくなるのだぞ、彩琳。

 それを何故自分が恐れるのかは言葉にならないまま、央蓮は、この宴の成功を願った。



 駆けまわりたくてうずうずしていた。そこら中に咲く花に目を奪われて、視線が定まらない。たくさんつけた髪飾りが耳元で音を立てる。きれいな髪飾りは嬉しいけれど、可愛いと邪魔がせめぎ合う。いつもなら動きやすさが勝ってしまうけれど、今日は誕生日だから、素敵な髪飾りをしてきれいにしたい気持ちが、ほんの少し勝った。

「春雲」

 母に窘められて落ち着こうとするが、それもうまくいかない。元々きれいな庭だが、こんなに花で埋め尽くされているのは見たことがない。薔薇の甘い香りがした。

 ――あの薔薇を摘もう。お母さまに差し上げよう。よい香りのするものがお好きだから。淡い芍薬は、きっとお母さまにお似合いになる。お父さまには、なんだろう。あんまり差し上げては点数が低くなってしまうから、我慢していただこう。

 そんな風に考えているとまた視線が彷徨って、母は目だけで春雲を叱った。庭の中には春が充ち、青空には柔らかそうな雲が浮かんでいる。それを見るだけでも、顔中笑顔になってしまう。

 ――私のための日だ。

 給仕や手伝いの仕事をする人だろう、平凡な見た目の楽宮が礼をした。きれいな声で春雲の誕生を言祝ぐと、後は形式ばった挨拶をした。済ました顔を作って頷いて見せたりしたが、よく聞いていなかった。今日は聞きたいことだけ聞いていたい。したいことだけをしたい。早く百闘草を始めてほしい。

「では、これより百闘草を楽しんでいただきたく思います」

 パッと顔を上げる。

「ですが、摘み取るのはこの庭の草花ではありません。これから花が参ります」

 ――花が、参る?

 どん、と太鼓たいこの音がして、次は篳篥ひちりき、明るいそう箜篌くごの音。笛と弦が奏でる賑やかな曲と共に、色とりどりの花が現れた。

 花そのものが出てきたのではない。一人一人、別々の衣装をまとい、髪に花を挿している。黄色は木香薔薇もっこうばら、眩しい淡紅は玫瑰はまなすさんくんも花や葉の色をして、花の刺繍が施されている。きれいな楽宮たちが踊るように歩む姿は花の精のようだ。

 春雲はこらえきれずに少し笑った。

 宮城の中の、狭い庭だ。白い壁の向こう側からは、こんなことが起きてるなんてわからないだろう。それがなんだか可笑しかった。

 座って歌舞を見て、食事をとるのがいつもの祝いだ。それも楽しい。

 でも、今日は舞台の上の歌舞を見るのと違い、春雲の周りが丸ごと、別の世界のようだった。

 ――仙境せんきょうの中に迷い込んだみたい。

 春雲は木香薔薇に扮した楽宮を追いかけた。母と似た肌の色をしたその人は、顔立ちはもっとはっきりして、青い瞳のとてもきれいな人だった。はにかんだような笑みを浮かべて、甘やかな香りのする黄色い花を手のひらに授けてくれた。

 百闘草は、春雲は二番だった。普段はどちらかといえば負けず嫌いなのだけれど、今日は構わないと思った。一位だった侍女は春雲に勝ちを譲ろうとしたが、笑顔で首を横に振った。

「こういうのはきっと、勝ったり負けたりするから面白いの。またしましょう」

「よく言いました、春雲。……こちらへ来なさい」

 母に呼ばれて、傍らに座る。母に渡した木香薔薇は、膝の上にそっと乗せられていた。

「健やかに育ってくれたこと、嬉しく思います。母からの贈り物です」

 春雲は母に礼をしてから、布にくるまれたものを受け取る、問うように母の目を見つめると、柔らかい視線を返されたので、そっと薄布を広げた。

「わぁ……」

 それは、桃色と白が混じった玉で出来た美しい数珠じゅずだった。母を見つめ、礼をする。

「お母さま、ありがとうございます」

 母は信心深い。母の名は煌の字をあてているが、斗幡では吉祥きっしょうを意味する名だという。

「あなたがこれからも健やかであるよう願いを込めました」

 嬉しくて、何度も礼を言った。

 幸せな気持ちのまま食事が始まった。庭の周りで、先程とは違う楽宮たちが、遊ぶように踊るのが目に入ってくる。並んだ料理は春雲の好物に縁起物、桃の形の饅頭が可愛らしい。

 どれを食べようか迷っていると、ふわりと、春雲の苦手な香りがした。

 母が、持っていた杯を置く、高い音がした。

席糾せききゅうはどこか!」

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