【四】仙境の花宴 その一

 阿泰あたい、いい? 母は逃げます。あなたは喜花坊に居れば、命までは取られないでしょう。でも母と来れば、必ず追手がかかります。そうなれば二人ともが死ぬ。母があなたの側に残るのも、あまりよくない。

「おとうさまはたすけてくれないのですか」

 阿泰、あの方との縁は出来るだけ断ち切らねばいけないのですよ。あの方との繋がりは、あればあるだけあなたの身を危険に晒す。あの方に阿泰を会わせてこなかったのも、母があなたを置いて逃げるのもそのためです。阿泰を連れて行けば、あるいはあの方の助力を受ければ、周りはあなたを殺したがります。阿泰が大切な大切な子だと知れれば、命を取られてしまうのです。だから、これからあなたは誰からも助けてはもらえません。そっと隠れて、いつも聞き耳を立てていなさい。聞いたこと、見たことで、自分の身を守りなさい。わかりましたか?

「なんで、おとうさまとかあさんと、いっしょにいられないのですか。ふたりとも、おれがきらいなのですか?」

 ……阿泰。最後だから、今のあなたにはわからずとも、本当のことを言います。母とあの方は、情愛で結ばれた間柄あいだがらではありません。ですが、あの方は母の唯一の――でした。だから、母の誇りは、阿泰を産み、こうして育てられたこと。母の幸福は、阿泰が生きていること。あなたは自分の命を絶対に守り抜きなさい。目立たず、隠れて、意に添わぬことをしてでも、母は阿泰に生きていて欲しい。

 阿泰、これを持って。あの方から頂いたものです。弾き方はわかりますね? 安穏に、平穏に生きていて欲しいけれど、それだけでは辛いこともあるでしょう。これを弾きなさい。心を込めて弾き続けていれば、阿泰もいつか――に会えるでしょう。母があの方に会ったように。お別れです。阿泰……いいえ、泰波。


 さらりと頬を撫でた手は、白くてひんやりしていた気がする。

 あまり戻ってこない、埃っぽい自分の部屋で、泰波はしょうに寝そべっていた。牀と、わずかばかりの着替えと、琵琶しかない。部屋には出来るだけ物を置かないようにと言われた。

 ――母さんは、何に会えると言ったっけ。子供には、難しい言葉だった。

 変わった人だった。しっかりしていて、はっきりとものを言って、きれいだけど、美しさや女性らしさをあまり繕おうとしていなかった。賢しいと言われていたが、ただ単に、あの人は賢かったのだと思う。

 生きているのかどうか。まぁ、この世の中だ。楽しく生きているかもしれないし、もう死んでいるかもしれない。どちらもあり得る。

 泰波と呼ばれたのは、あの一度きりだったかもしれない。阿をつけるのは親しい者への呼び方だからおかしいことではないけれど、名で呼ばれた記憶に乏しいのは、それだけ幼い頃に別れたからだ。

 もう何年たっただろうか。そもそも、なんでそんなことを思い出す?

 最近は独り寝が続いたせいか、それとも

 ――あの子のせいかな。

 能力があるのに、何もしないのは辛くはないのか。嫌なところを衝く言葉だった。それなのに、別に彼女を嫌いにならない。不思議だ。

 親のせいにするわけではないが、安穏、平穏、とりあえず命があること、それは泰波の指針である。人に誇れるほどではないが、そう恥ずかしくもない指針だろう。だが、それならあの子に構うべきじゃない。

 面白い子だと思った。興味があるのは否定しない。あの子がここに来た理由は親の罪のせいだろう。そして王子の寵姫。人のことを言えた立場ではないが、ずいぶん激しい人生だ。

 まだ身を起こさず、部屋の天井を眺める。今日は久々に坊を出る。外の退官した老人の家に、琵琶を教えに行くのだ。

 ――琵琶なんて、ほとんど弾かないけど。

 琵琶以外に目的があるのだから仕方がない。また、あの人が待っているのだろうか。

 ――喜花坊に帰って来たら、また教坊の裏手に行ってみようか。

 ぐっと目をつぶった。構うべきじゃないと思った先から、会おうとしている。

 泰波! と呼ぶあの子の声が、頭の中に蘇る。きれいな声をしている。澄んで、よく通り、柔らかくて明るい。あの子の声で呼ばれると、自分の名がまるで特別なものみたいに聞こえる。

 琵琶を弾いてやると、まるで宝物にでも触れているような顔で、泰波の音を聴く。

 ――あぁ、そうか。

 今まで、この暮らしを嫌だと思ったことはない。見目はいいから、無聊ぶりょうを慰めたいと思えば相手には事欠かないし、別に楽しくはないが今日のように外に出て色々とすることもある。琵琶を弾く時間はたっぷりある。

 でも、誰も聴いていなかった。耳に入り、巧いと噂に上っても、誰が弾いているのか確かめて、声をかけようとする人はいなかった。

 ――俺の音を聴くのも、俺の名を呼ぶのも彩琳だけだから、俺はあの子に会いたいんだ。



 彩琳は、いつもの教坊の裏手にある庭で頭を抱えていた。

 令霞は甘い餡の入った饅頭を、二つに割って彩琳にくれる。

「おいしいよ」

「あ、うん。ありがとう……」

 悩む彩琳を慰めようと渡してくれたのだろう。一口食べると、甘さにほっとした。

「彩琳、何に悩んでるの?」

「歌舞をどうしたらいいか、わからなくなっちゃって……」

 群舞や、踊り手が舞台上で人文字を作る字舞などは、わかりやすく賑やかで、祝っている感じが出せるが、あまりに人手を割くと、予算が足りない。央蓮の財を頼るのは避けたかった。あれは最後の手段だ。

「……衣装って、新調は無理よね? 槇槇?」

 二人からずいぶん離れた場所に座り込んでいる槇槇に声をかけると、顔を上げて頷いた。

「この予算なら、八人くらいが限界かなぁ? もっとたくさん人を出したいんだっけ?」

「えぇ。でもそうすると、衣装を全員お揃いで新調するのは難しそうなの。元々ある衣装だと数が足りないし……。槇槇、話しにくいから、もう少しこっちに来たら? 令霞は平気?」

 尋ねると令霞はコクンと頷く。何度か顔を見ているので、槇槇に慣れてきたらしい。しかし槇槇の方がもじもじしてこちらに来ない。

「ごめん、緊張する……」

 その言葉に令霞がしょんぼりして、槇槇が慌てた。

「そうじゃなくて! あの……あんまりきれいで」

 令霞の目元が濃い色に染まる。恥ずかしそうにぎゅっと目を閉じて俯いた。本人は気づいていないかもしれないが、饅頭をきつく握ってしまって、餡がはみ出ている。

「……むしろわたしが席外した方がいい?」

「「ここにいて!」」

 二人とも聞いたことの無いくらい大きな声を出した。

 令霞は槇槇のことを気に入っているようだった。

 槇槇はごく人の好い青年だし、好きすぎて令霞に近づけない状態になっているので、人見知りの令霞にはそこも良かったのかもしれない。

「令霞が踊れたら、たった一人でも見事でしょうね」

 きっと群舞よりも、一人で自由に踊る方がきれいかもしれない。今まで見た、それこそ大酺で見た内人よりも、令霞が秀でていると信じて疑わない。

 令霞は薄く口を開いて俯いた。

「……あたしね、まだ、ここだと体が自分のものにならないの」

 独り言のような小さな声だった。顔を上げて彩琳を見る。

「あたしの父様ね、とっても強いの。それで、踊りも武術も同じで、自分のことを自分のものに出来ないと駄目って言ってた。でも、相手が強かったり、周りのことを気にし過ぎると、簡単にそれが出来なくなっちゃうんだって」

 親のことを思い出したせいか、寂しそうな目をしていた。きゅっと眉を寄せて、彩琳を見る。

「でも、下働きでもなんでも手伝うから、言ってね」

「ありがとう。令霞と槇槇がいてくれて、本当に助かってる」

 彩琳の言葉で、二人は視線を合わせて照れたように逸らした。

 自分を挟んでもじもじしている二人は一度意識の外にやり、宴について考え始める。

 設えは、人並みには出来るだろう。食事は好みに合わせればよいのでたやすい。歌舞も好みに合わせればよいのだろうが、やはり、少しは新しい趣向を入れたい。

 席糾せききゅうとして立つからには、その意味があったという仕事をしなくては。

 急に自覚が芽生えたわけではない。ただ、央蓮に切り捨てられるようなことがあれば、彩琳は自分の手で蘇司山を追いやることは出来なくなる。

 それでも、もし彩琳がたった一人になったとしても、蓮花楽人れんかがくじんを目指すことは出来るのだ。この仕事をやり遂げられれば、その可能性を、自分の中に残せる。

 ただ、どうしたら王女を完璧に喜ばせられるのか、目新しさを出せるのか、そんなことを考え始めたら、どうしたらいいのかわからなくなってしまった。

 ため息をつくと、向こうから近づいてくる人影が見えた。見慣れた明るい茶色の髪に、彩琳は頬を緩ませる。

「泰波」

「何か悩んでる顔だね」

 槇槇は泰波を見て、会釈するように頭を下げた。令霞はすっかり泰波に慣れたようで、彩琳といる時と変わらない態度になっている。

「歌舞で悩んでるんだって」

 令霞の言葉に「へえ」と頷き、槇槇と彩琳の間に腰を下ろした。教坊の壁にもたれると、膝の上に袋に入れたままの琵琶を載せる。

「今日は姿を見なかったけど」

「あぁ、琵琶を教えに行ってたんだ。……それで、ごめん」

 泰波は銅銭をいくつか出して令霞を見る。

「令霞、お遣いを頼んでいいかな? 久々に外に出たら疲れてね。お釣りで好きなもの買っていいから。今日は飴を売ってる人もいたよ」

「行く」

 令霞は食べることが好きなので、喜び勇んで立ち上がる。泰波は槇槇に視線を移した。

「令霞一人じゃ、若い楽宮にからまれるかもしれないし、一緒に行ってもらえませんか」

「それなら、おれが一人で買ってくるよ。令霞には飴を買えばいい?」

 泰波は困ったような顔をして槇槇の腕を引いた。耳元に何かコソコソ話している。

「楽宮が官吏にお遣いなんて頼めませんよ。それに…………と仲良く……」

 槇槇の顔がみるみる赤くなり、泰波が離れると、わざとらしい咳ばらいをしてから令霞に声をかけた。

「……令霞、おれと一緒でもいい?」

 令霞は恥ずかしそうに頷いて、二人は坊門の方へ向かって歩き出した。

「令霞と槇槇を、二人きりにしてあげたの?」

 泰波は「はは」と笑った。

「あの二人、見ててもどかしいからね。それに、俺も二人きりがよかったし」

「……誰かがいると困る話?」

 何か内密な話があるのかと彩琳は声を潜める。

「人が来たら困るようなことしてもいいけど、あの王子様は怖そうだからね」

 独り言のような言葉が聞き取れずに彩琳が目だけで尋ねるが、泰波はにこっと笑うだけでもう一度言うことはしなかった。

「それで、彩琳は何に悩んでるの?」

「歌舞の見せ方を、どうしたらいいのかと思って……。やっぱり、席糾としてやるなら、新しいことというか、席糾がいた意味のあることをしたいじゃない?」

 泰波は「ちょっとごめん」と言って、一度目を伏せて深い溜息をつく。本当に疲れているらしい。泰波は膝に乗せていた琵琶を抱えると、目を伏せた。

「琵琶を教えに行くのって、疲れるの?」

「うん、まぁ、琵琶だけならこんなに疲れないんだけど、苦手な人に会ってきたから……。それより宴のことだけど、王女の母親は、厳しい方みたいだ。人にきつく当たるわけじゃなくて、厳正な人だね。家族仲は本当にいいみたいで、王女の父親も、斗幡から来た母親を丁重ていちょうに扱ってるらしい。王女は、一緒にいる時間が長いからか、母親の方が好きみたいだ」

 彩琳は目を閉じた泰波の顔を覗きこんだ。

「……そんなこと、どこで聞いたの?」

 泰波が薄く目を開き、ちょっと口角を上げる。

「内緒。……でも、君をたばかったりはしないよ。母親が気に入る宴を考えた方が、成功するかもね。十一歳の女の子より、親の評価の方が重みがある」

「できれば、王女が喜ぶ宴にしたかったんだけど……」

 王女にとって母の存在は大きいようだ。色々と考え直すべきだろうか。焦った表情の彩琳を見てから、泰波は空に視線を移す。高い空の上から、笛のようなとびの声がした。

「……たとえば、この仕事に失敗したら、王子様の寵が去ったりするの?」

「それもあるかもしれないわね」

 央蓮との関係が切れれば、やはり彩琳に出来ることは狭まる。不安はあった。

「もし王子様に振られたら、俺が慰めてあげる」

「失敗する前提で話さないでよ」

 あははと笑って、泰波は少し俯いた。言いにくそうに、どこか照れたように下を見て呟く。

「失敗してほしくないから色々言ったけど、本当は君が見たいものを作ってほしい」

「……わたしの見たいもの?」

「王女やその親の好みに合わせれば、成功すると思うよ。でも、いくら考えたって、人の気持ちなんて、わからないだろ」

 ずっと地面を見たまま、泰波は訥々とつとつと話す。

「君が、俺と初めて会った……って言うのはおかしいか、俺に『弾いて』って言った時、令霞の踊りを、途中で止めたよね。というか止まるっていう踊りをさせた」

 下を見たままの彼の視界に入ったかはわからないが、彩琳は頷く。

「俺、あれがとても好きだった。……妃や王女の好きなものって、今まで見てきたものの中で、好きだったものだろう? でも、俺だったらあんな風に、見たことのないものが見たい」

 彩琳は、泰波の隣で膝を抱えて、空の上を見た、青い空の下は、気持ちがいい。

 ――誰も見たことのない、わたしが、見たいもの。

 春雲王女は、この国の王族の父、異国の王家から嫁いだ母、違う世界を生きてきた二人の間に生まれ、睦まじく暮らす両親に愛されて育まれた。

 彩琳は、自分の父母を思い出した。貴族の父と、身分の低かった母。父は彩琳に、母の出自を隠さなかった。体によさそうなものを何でも混ぜて淹れたお茶をみんなで飲み、母は彩琳に字を教えて詩を朗読し、父のきんで歌を歌った。彩琳に花を持たせて、踊らせたこともあった。裾が絡んで転んだ記憶があるから、想えばあの頃から、彩琳は踊りにも才が無かった。

 ふふ、と笑いが漏れた。

 ――わたしの見たいもの。

 思い出したい風景が、頭の中を流れていく。春の野で、父母と共に過ごした日。

 それが、作れるのだろうか。作れるかもしれない。

 宴席えんせきを仕事だと思っていた。予算と睨み合い、主賓の情報と照らし合わせて積み上げていくものだと思っていた。でも、そうだ、これは宴だ。きれいなものを、作ればいいのだ。

 何か熱いものが、胸から湧き上がってきた。ほんのわずかな熱が、少しずつ膨らんで、体に満ちていく。

 踊りでは作れない。楽器でも作れない。歌でも作れない。

 でも、それを組み合わせることで「宴」という場、何かを見せるその場と時間の中に、その風景を作れる。席糾という立場だからこそ、出来ることがある。

「泰波!」

 立ち上がった彩琳を、泰波の不思議な色の瞳が見上げる。

「わたし、見たいものがあるの」

 秘密を打ち明けるように、そっと囁く。泰波は、人なつこい笑顔で頷いた。

「いいね。とてもいい」

 その言葉は彩琳に力をくれた。

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