【三】鳥籠の琵琶弾き その三

 久しぶりの訪問だった。

 彩琳が慣れない準備に追われる間、央蓮も忙しく過ごしていたらしく、文のやり取りしかしていなかった。

「……でも、来るんなら先に連絡して。準備で家を空けてる事だってあるんだから」

 央蓮はずいぶんくたびれているのか、とうの上に足を投げ出し、高欄こうらんもたれてしどけなく座っている。

「私にも茶をくれ」

 央蓮が来る前に一人で飲んでいた茶碗を見て、そう声をかけられた。

「あ、新しく淹れるわね」

「少しくらい冷めていてもいい。その椀で飲みきったというわけでもないだろう」

 彩琳は少し悩んだが、首を振った。

「駄目」

 駄目と言われて央蓮が不機嫌そうに立ち上がる。

「淹れなおすのを待つより早く茶が飲みたい」

「これは駄目なの」

 央蓮は頑なな彩琳の様子に一度黙り込むと、つくえの上に置かれた彩琳の茶碗をとって飲んでしまった。

「あっ!」

 彩琳が叫んで碗を取り上げようとする。央蓮は茶碗を持ったまま、怪訝そうな顔をした。

「…………よくわからない味だな」

「だから駄目って言ったのに……!」

 彩琳を無視して、央蓮はもう一口飲む。

「でもうまい」

「央蓮、これ飲んだって、絶対誰にも言わないでね」

彩琳が眉尻を下げて頼んだ。

「何故だ?」

「何でもよ」

 ――王子にこんなの飲ませたって知られたら、怒られる。

 これは茶になつめや生姜、こうじの皮、茱萸ぐみなどを入れて煮だしたものだ。庶民の間ではよく飲まれ、彩琳の母はよくこのお茶を淹れてくれた。

「初めて飲んだが気に入った。新しい茶碗にこの茶をくれ」

 飲んだことがなくて当たり前だった。この飲み方は、偉い人が書いたお茶に関する長い本の中で「どぶ」と簡潔かつひどい言葉でくさされているのだ。茶の味と香りが消えるという理由だったが、そこまで言うことはないだろうと思う。

 新しい茶碗に茶を注いで央蓮に渡す。本当に気に入ったようで、おいしそうに飲んでいた。

「それで、今日はどうしたの?」

春雲殿しゅんうんどのの話だ。詳しく教えろと言ったのは彩琳だろう」

「待って、書き留めるわ」

 箱を開けて硯や墨を取り出し、薄い紙を白玉の文鎮ぶんちんで押さえる。

 央蓮は彩琳が準備をする間、硯をじっと見ていた。緑がかった黒い石で作られた硯で、山水の風景が彫り込まれている。調度や家財は、央蓮の家僕が準備してくれたものだ。

「央蓮?」

 疲れているのかぼうっとした央蓮に声をかけると、春雲王女のことを話し始めた。

 活発で聡明な性質で、両親想いで家族仲はいい。同母の弟と共に史書を読んだり、馬に乗ったりするのが趣味だが、小鳥や花を愛でるのも好きだという。

「あと、らくなどの牛の乳で作ったものが嫌いだそうだ。絶対に出すな」

 頷きながら書き留めていく。

「そして、父母から可愛がられている。……母親は斗幡の王族だが、煌の言葉をとても流暢に話し、公の場でも自身の立場を理解して振る舞う。とても聡い方だ。影響力は大きくないが、宴を成功させ、気に入られることに意味はある」

 斗幡は煌の西側と一部を接する隣国だ。煌とは幾度か姻戚が結ばれている。

 彩琳にとって一番重要だったのは、春雲王女が家族に可愛がられているということだった。それなら、春雲王女を喜ばせる宴を作ることが、両親の望みでもあるはずだ。

 話し終えた央蓮は、茶を飲みながら、まだ硯を眺めていた。

「……央蓮、あなた、硯好きなの?」

「別に好きではない」

 そう言いながらも硯から目を逸らさない。

「いいじゃない、文房ぶんぼう四宝っていうし、好きな人多いでしょう?」

 墨、紙は消耗品だが、筆硯ひつけんにこだわる人は多い。仕事上使うことから、やはり男性の方が蒐集しゅうしゅうに熱心だ。彩琳の父も、筆や硯を集めていた。

「……別に好きではない。集めてはいるが」

 そんな言い訳にもならないことを言って、央蓮はしれっとした顔で茶を口に含む。

「それってつまり、好きなんじゃない」

「硯は、煌をよく表す」

 央蓮の言葉の意味を取りあぐねて首を傾げると、説明するでもなく央蓮は言葉を続ける。

「硯は、各地の石を人が彫って作る。煌の自然と人の技術、その両方が詰まっている。王都久寧と副都以外を私は知らないが、煌は良い国だ。豊かな自然と、それを元に作物や工芸、様々なものを作りだす民が暮らし、知や物を運ぶ人が行き交う。そんな煌が、私は欲しい」

 几の前に立って筆を走らせていた彩琳は、すとんと椅子に腰を下ろして央蓮を見た。

 利益や権力を求めているのだと、それを蘇司山よりは汚れていない方法で手にしようとしているのだと思っていた。復讐や謀略ぼうりゃく自体は厭う様子ではなかったから。

 ――でも、この人って思ってたよりずっと、子どもっぽいのね。

 まるで拾ったきれいな石を、ずっと握って放さない幼子のようだ。好きだという自覚もなく、この人はこの国が好きで、好きなら自分のものにしてしまいたいのだろう。

 人や物との距離が、おそらく少し独特なのだ。身近なものと自分とを、うまく分かつのが下手なのかもしれない。

「……しばらくは、次の宴にかかりきりで他の宴を手伝うことはないだろうが、陛下のきさきを出している家の貴族が宴席に出ていたら、何を話しているか気にかけておいてくれるか」

 彩琳は表情を引き締めて頷いた。

「わかったわ。妃を出している家系ね」

 蘇司山に関わることは、文でやり取りするには不安があるから、直接話しに来たのだろう。

「でも、央蓮が言うように、わたししばらく他の宴席には出られないから、疲れてるなら今日は無理に来なくてもよかったのに」

 央蓮はまた茶を一口飲んだ。

「何でだろうな……、ここに来ると気楽だ」

 髪の乱れを直すようにかきあげて、疲れた顔で笑った。

「最初は臣下が欲しいと思った。だが、今はお前が臣でなくて良かったと思っている。上下があれば、互いに取り繕わなければならないことも多いだろう。主として、臣に対し距離と立場が保てているか、……少なくとも、お前が臣下だったら、茶を取り上げて飲んだりはしない」

「じゃあ、臣下の方が良かったわ」

 彩琳が笑うと、央蓮も笑った。央蓮が本心から笑う時は、表情があまり変わらない。つんと澄ましているが、こらえきれず目元と口元が緩んだような笑みだった。

「でも、わたしも楽よ。あなたの前で、へりくだったりする必要もないし、蘇司山が憎い気持ちも、隠さなくって済むから」

 これは、槇槇にも泰波にも、令霞の前でも、出すことは出来ない気持ちだ。

「皇帝になったら必ず、蓮花楽人れんかがくじんへと取り立てる。私は、この国をただ手中に入れて専横を振るいたいわけではない。この良い国を手の中で守りながら、どう育つのか見定めたい。皇帝になれば、近しい者たちもこの手のうちで守れる。……無論、まつりごとを蔑ろにして親しい者にむやみに利益や権を与えたいわけではないが」

「うん、わかってるわ」

 権力というものが、彩琳は好きではない。だが、それにどれだけのものを守る力があるかは知っている。父に疑いがかかった時、姫家の親類はこぞって父を責めた。だから身分の低い母ではなく、家の決めた許嫁と結婚しろと言ったのだと。貴族同士が縁を結ぶのは、何かの時に便宜を図り合うためだ。親戚がなんと言おうと、彩琳は、聡く明るい母をたった一人の妻として選んだ父を誇りに思っている。

 彩琳は、疑問に思っていたことを尋ねた。

「どうして、わたしを選んだの?」

 央蓮が空の茶碗を持ち上げる。彩琳は受け取ってお代わりを注いだ。手渡すとき、彩琳の指先は微かに震えていた。

「わたし、たまに不安になるの。復讐することにじゃないわ。自分の力が足りなかったらって思うと怖いの。例えば、蘇司山を追い詰めてあと一歩っていう時に、もしわたしの力が足りないせいで、蘇司山を取り逃がすようなことになったらって思うと、怖くなる」

「……自信がないのか」

 彩琳はこくんと頷く。

「だって、わたし、得意なことなんて何にもないもの」

 央蓮は、温かさを確かめる様に碗を持ったまま、関係のなさそうなことを話し始めた。

「私は、あの大酺たいほで、蘇司山よりも席次が悪かった。……誕生祝と言いながら、蘇司山が主賓ゆえ仕方がないが。それに、労いのため位には囚われずというもったいぶった理由で、蘇司山の厭う者は不当に席次が下げられたらしい」

 皇帝の息子とはいえ、赫義宵が皇太子である今、央蓮は煌の一王子でしかない。今はまだ、蘇司山に抗うだけの力がないのだ。

「それゆえ、私の席からは、中央の内人の舞だけでなく、喜花坊の楽人がよく見えた。途中で白い衣装を素早く脱いで、紅梅の衣装にかわるところがあっただろう」

 彩琳は頷く。あれは、あの群舞の一番の見せ場だ。

「他の位置にいた楽宮は、もたついているものもいたが、私の席から見えた一団は、同時に変わった。それだけではない。よく見ると、皆髪に飾ったさいの位置も角度も、その一団だけ寸分たがわない。……誰かが、それをやったのだと思った。その場にいる者か、裏で働く者かはわからなかったが、誰かの手で、整えられているのがわかった」

 央蓮は、疲れから崩れた姿勢で座っていたが、目だけはまっすぐ、彩琳を見つめていた。

「あれはお前のしたことだろう」

「……でも、ただ裏で手伝っただけよ」

 目を逸らそうとすると、央蓮は「彩琳」と呼んでその視線を引き留めた。

「お前は、物事の意図がわかっている。ああいった群舞は、一糸乱れぬからこそ意味があるのだろう? 釵の位置や角度の違う者は、やはり悪目立ちしたし、衣装の変わる時は言うまでもない。宴の後に楽宮を捕まえ、お前がしたことだと知った。目的のために組むのなら、ただ聡いだけの者より、そういう根幹を掴める者の方がよいと思ったのだ」

 とても真剣に央蓮は説いた。彩琳は、根幹を掴むような力が自分にあるとは思わなかった。ごく単純に「こうしたいのだな」と感じ、「それはきれいだろうな」と思ったのだ。

 ――でも、央蓮が、わたしを認めて選んでくれたのはわかる。

 きっと、それは本当に彩琳を選んだ理由の一つなのだろう。

 でも、これは、姫家の娘を選ぼうとした理由にはならない。

 央蓮はまだ、彩琳に隠していることがある。それが気にならないわけではなかったが、彼が今、自分に真剣に歩み寄ろうとしていることも、彩琳には伝わっていた。

「いいか彩琳。私は確かに、歌舞の出来ないお前が実績を積むにはこれしか道がないと言った。しかし、席糾を専門とする楽宮になれと言ったのは、からではない。お前ならと思ったからだ」

 碗を置いた央蓮は、座っている自分の目の前に立つ彩琳の手に触れ、力づけるように握った。

「絶対にやれる。お前は得意なことがないのではない。人の目に見えにくいことが得意なだけだ」

 初めてだった。自分の力を、信じている人がいるのは。

 今まで、自分に出来ることがないと言って、きっとそこに甘えてもいた。

 ――わたし、席糾をやれるかもしれない。

彩琳は、体温の高い央蓮の手を強く、握り返した。

今まで本人にすら意識されていなかった小さな種のような力に、央蓮の言葉で初めて日が差した。そして、その言葉で彩琳の中に生まれた気持ちは、温かな水のように、その力に向かって注がれていく。

彩琳の持っていたとても小さなものは、この喜花坊でこそ、花開く才だった。


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