【三】鳥籠の琵琶弾き その二

 泰波との勉強を進める傍ら、ようやく彩琳は準備に取り掛かり始めた。

 料理については勉強も進んでいたので、今までの宴席えんせきを参考に先に決めてしまおうと、槇槇に教坊きょうぼうの記録を数年分出してもらった。

 宴席で何を出し、いくらかかったかの記録だ。読んでしばらくして、彩琳は首を傾げる。

「槇槇……これわかる? 字は読めるんだけど、どういうものかわからなくて」

 槇槇は覗きこんで首をぶんぶん左右に振った。

「書かれてる内容についてなら、彩琳の方が詳しいよ。おれ煌人じゃないし」

「……異国の食べ物かしら?」

 記録に胡の字がつくものが多いので、胡風で統一した宴だったのかもしれない。

「ちょっと、友達に聞いてくるわ」

「あ、おれも聞きに行きたい。仕事の文書でわからない言葉があるのはよくないし」

 彩琳は少し悩んでから口を開く。

「多分大丈夫だと思うけど、人見知りな子だから気を付けてね」

 頷く槇槇と一緒に、いつもの教坊の裏手に向かった。


 令霞は誰も見る人のいない場所で、教坊から漏れ聞こえる楽と太鼓たいこの音を頼りに一人で踊っていた。

 その姿が目に入った時、槇槇が彩琳の肩のあたりの布地をぎゅっと掴んだ。

「槇槇、どうしたの?」

「彩琳……あの子、人間?」

 なんてことを言うのだと槇槇を見上げると、ほうけたように令霞に見入っていた。

女神めがみ様じゃないの?」

 彩琳は、自分も初めて令霞を見た時、天女てんにょかと思ったことは棚に上げて吹き出した。

「令霞!」

 呼びかけに気づいた令霞は笑顔で彩琳の方を向いたが、隣りに槇槇がいるのを見つけて、びっくりした猫のように一瞬ぴゃっと跳ねた。

 肩を掴む槇槇の手を外し、令霞の側に行くと、今度は令霞が彩琳の肩のあたりをぎゅっと掴む。両肩がくしゃくしゃになりそうだ。

「あの人だれ……?」

 令霞は小さな声で尋ねる。槇槇は先程いたところから一歩も動かず、こちらを見ながらソワソワしている。

「喜花坊の官吏かんりをしてる井槇根せいしんこん。その、私の宴席の仕事、手伝ってくれるの」

 令霞がちらっと槇槇の方を見ると、彼はびくっとした。令霞が頷くような礼をすると、槇槇も頭を下げる。

「それで、令霞に聞きたいことがあって……。槇槇」

 呼ぶと思い出したようにこっちに来て、もたつく手で書付を取り出した。

 槇槇は令霞をちらっと見て、顔を真っ赤にした。

「あの、これってどういう食べ物? おれたちよくわかんなくて」

 もごもごと俯きながら槇槇が言って、令霞は何度か瞬きした。

 令霞はちょっとだけ頷いたが、恥ずかしいのかそれ以上は喋らず、書付をじっと見る。

香辛料こうしんりょう。お肉に使うやつ」

 ぽそぽそと小さな声で彩琳に教えてくれる。

「ありがとう! わたしたち全然わからなかったの。あ、それと教えてほしい曲があって」

 泰波が「それは弾けない」と言った曲があったのだ。全ての曲をそらんじている楽宮などそうはいないので、令霞も知らなかったら師範しはんに聞きに行くつもりでいた。

「琵琶とか、阮咸げんかんの曲。前の皇帝が好きで、一杯演奏されたって師範が言ってた」

 ふんふんと頷く。弦楽器の曲らしい。泰波にも琵琶の曲で知らないものがあるのだと思うと、完璧に見えていた彼に少し親近感を覚えた。

「旋律はわかる?」

 令霞は一度頷いたが、口をきゅっと結んで俯いた。

「……知らない人の前で歌うの、恥ずかしい」

 それを聞いた槇槇が「ヴッ」と言って自分の胸のあたりをぎゅっと掴んでいた。

「どうしたの? 大丈夫?」

 彩琳が尋ねると、槇槇は胸を掴んだままふらふらと歩き出した。

「大丈夫。おれあっち行ってるね」

 槇槇が去ったあと、令霞が恥ずかしそうに口ずさんでどんな曲か教えてくれる。

 歌い終えると槇槇の去った方向を窺って、彩琳に視線を落とした。

「あの……、さっきの人に、あっち行かせてごめんねって伝えて?」

「うん、伝えるわ。令霞、教えてくれてありがとう」

 礼を言って、元来た道を戻ると、曲がり角の先に、胸を掴んだままの槇槇が立っていた。

「先に戻ったかと思ってたわ。……大丈夫?」

 槇槇はふらつきながら歩き出す。

「大丈夫じゃないけど、大丈夫」

 どう見ても大丈夫ではないが、確かに具合が悪いわけではないのだろう。おそらく槇槇は令霞に一目ぼれしたのだ。

「あの、令霞があっちに行かせてごめんって言ってたわ」

「そんなこと言ってくれたの? おれあの子のお願いならどこへなりと去るよ」

 そう言って令霞の言葉を噛みしめていた槇槇が、しばらくして申し訳なさそうに口を開いた。

「彩琳、お願いがあるんだけど……」

 令霞と仲良くなるために協力してほしいのだろうかと、少し眉を寄せた。人見知りの激しい令霞にとって、知らない人といきなり親しくしろと言われても困るばかりだろう。協力できないと告げようと槇槇を見ると、真剣な顔をしていた。

「……あの子に、おれが変なもの見えるって言わないで。怖いって、思われたくない」

 その目の奥には、確かな怯えがあって、彩琳はしっかりと頷いた。

「わかったわ。絶対に言わない」

 誰にでも、知られたくないことや傷がある。喜花坊の中では特に、そうなのかもしれない。



 何もかも自由というのは、それはそれで大変だ。全て自分の好きに出来るということは、全てに責任を負うということでもある。

「だから決まりに則ってやる方がいいのよね……。失敗もしにくいし」

 調度の、特にたく椅子いす類の保管庫の中で、彩琳はため息をついた。調度品が傷まないよう日の入らない部屋は、ほこりっぽいにおいがした。

「その分同じ形式になるから、成功したっていう明確な違いも目に見えにくいけどね。……王子様のお金で解決したら?」

 つまらなそうな声に振り返ると、泰波が宴席用の大きな卓に腰を下ろしていた。物を動かすのに小柄な彩琳では心もとないので、泰波に手伝いを頼んだのだ。

「駄目よそんなところ座ったら!」

 彩琳が眉を吊り上げ大きな声で怒るが、泰波は微動だにしない。

「高いだけあって丈夫だよ?」

「傷でもつけたら罪に問われちゃうのよ? 泰波がそんなことになったらどうするの」

 調度品は国の財産なので、破損や紛失は罪になる。泰波の腕を引っ張ると、意外と素直に立ち上がる。

「堅いなぁ、彩琳は」

 彩琳は調度品を見ながら「うーん」と唸る。

「歌舞の演目に合わせて設えを決めた方がいいかしら。それとも、設えや料理を決めた方が早い? それよりもまずこうしたいっていう主題があった方がいいの?」

 泰波は首を捻った。

「誰の誕生祝だったっけ?」

 彩琳は調度品を眺めたまま返事をする。

春雲しゅんうん王女。王族としては傍系ぼうけいにあたるわ。春雲王女の父上と今の皇帝陛下が従兄弟いとこ同士ね。今年で十一歳」

 公主と呼ばれるのは皇帝の息女だけだ。王族は実務のない官位を持ち、春雲も位を与えられているが、皇太子や公主でない限り、年若い王族は王子、王女と呼ばれていた。

 泰波は背もたれにひじ掛けの付いた椅子を見つけて腰を下ろす。もしものことがあると困るので、触れない方がいいと思うのだが、彩琳の表情を見て先回りするように口を開いた。

「椅子に腰かけるのも駄目? 座って壊れるなら、罪とかそういう問題じゃないと思うけど」

 彩琳は何も言えず、視線をついと戻して、椅子や卓子を眺める。その視線をまた引き戻すように、泰波が「ねぇ」と声をかけた。

「春雲王女って、母親が斗幡とはんの王族だよね」

 彩琳は目をみはった。

「そうだけど……詳しいのね」

 央蓮に教えてもらうまで、彩琳は知らなかったことだ。彩琳の顔に疑問が浮かんでいたのを見て取って、泰波は説明した。

「噂話が好きな女の子たちがね、訊かなくても色々教えてくれるんだ」

 泰波が誰かと二人でいたところを見たことはないが、この容姿で物腰も柔らかい。女性が放っておかない手合いの青年だ。

「泰波ってもしかして、いつも女の子から逃げ回ってるから、変なところから出てくるの?」

 頬杖をついて彩琳を眺めていた泰波は、しばらく呆気にとられた顔で彩琳を見つめた後、ふっと吹き出し、こらえきれないように笑いだした。

「な、なぁに? わたしそんなに変なこと言った?」

 央蓮の寵姫の振りをする上で、何か間違えただろうかと彩琳は慌てる。

「あはは、だって……君って、王子様の寵姫ちょうきだろう? もっと物慣れてるかと思ったのに、ふふっ、意外と子供っぽいこと言うんだね。女の子から逃げてるんじゃなくて……」

 泰波が、いつもより低く、甘い声を出した。

「変なところに、俺が女の子を連れ込んでるとは思わないんだ?」

 彩琳の頬が、ぼっと火がついたように赤くなる。そうか、経験があったらそういう考えに至るのかと思いつつも、気恥ずかしくて言い訳が浮かばない。

 赤くなって黙る彩琳の表情をどう思ったのか、泰波が弁明するように口を開く。

「いつも女の子と一緒にいるわけじゃないよ? それ以外にも、ああいう場所は便利なんだ」

 確かに、最初に会った時は木の上で琵琶を弾きながら一人でいた。一人になれる場所が単純に好きだというのもあるのだろうと結論付けて、彩琳は倉庫の奥の、螺鈿らでんの卓に目を付けた。薄暗い部屋の中でも、黒漆こくしつの木地に埋め込まれた夜光貝やこうがいが柔らかい虹色の光を発している。細工も華やかで、祝いの席にはよさそうだ。

 ――ちょっとあでやか過ぎるかしら……。

「でも意外だな。あの王子様って、才色兼備さいしょくけんびのつんとした女性が好きそうだと思ってた」

「泰波、今あなた、わたしに才も色もないって言った?」

 眉を寄せて言い返し、奥の棚に視線を移す。酒器の保管庫は上階だが、入りきらなかったのか棚一つ分、胡風の瓶子へいしが並んでいた。

「そういう意味じゃないよ。でも、あの王子が目を付けたなら、会話とか、詩とかに秀でてるのかなって思ってたんだ。でも彩琳はそういうのに長けてる様子でもないし」

 結局、才色に劣ると言われている気がする。

 壁際の棚に並ぶ、金属や玻璃はりで出来た瓶子を眺めていると、泰波が近づいてきた。彩琳の隣に立って、並んだ瓶子を興味なさそうに見つめている。

「むしろ物慣れてないところが良かったのかな? 王子様って見た目より純情? それとも」

 泰波は彩琳を見下ろした。

「もしかして、彩琳と王子様って世間が言う寵姫と、少し違ったりするのかな」

 泰波は普段通りの世間話でもするような気楽な表情で、過剰に反応してはいけないと思いつつ、背中がひやっとした。央蓮との本当の関係が知れてしまえば、蘇司山の手がこちらに伸びてくるかもしれない。

 ――隠し通さなきゃ。

「ふ、普通の……通うだけの寵姫とはちょっと違うかもしれないわね」

「どう違うの?」

 泰波は、鳥の頭の形をした瓶子の蓋を開けて中を覗いている。手持無沙汰な中での、暇つぶしの会話に過ぎないのかもしれない。泰波が、同じ言葉をもう一度繰り返した。

「ねぇ、どう違うの? ……例えば、君に目的とか野心が」

 その言葉を聞いた時、彩琳はもう深く考えられずに一番手っ取り早い言い訳を口にした。

「央蓮様はね、わたしを正妃せいひにするつもりなの!」

 ――央蓮ごめんなさい!

 彩琳は心の中で謝った。正直、いつも偉そうな央蓮に、謝られるならまだしも、自分から謝る日が来るとは思わなかった。しかしもう口は止まらない。とにかく今を切り抜けることしか考えていなかった。

「その、さすがにただの楽宮じゃ格好つかないじゃない? だから、わたしにこうして実績を積ませて、内人にしたら、少しはお互いの間の障害も低くなるっていうか……」

「……彩琳は、王子様が好きなの?」

 全然好きではない。央蓮は対等に扱うといいながらあの態度だ。そして普段から不愛想で、不機嫌で、居丈高いたけだかで、あんな男を好きになる人などいるだろうかと思う。人の肩書や容姿を内面と切り離して愛せる人もいるのかもしれないが、彩琳には無理だ。央蓮と夫婦になるなど、妻という立場を本当に務めとして割り切れる女性でなければ無理だろう。

 そんな思いを今だけはと叩き潰して粉々にして押し殺し、彩琳はぎこちない笑顔を浮かべた。

「…………す、好きよ?」

 それを聞いて、泰波はそっと視線を逸らす。

「……嫌いでも、王子と楽宮じゃ、断れないだろ? それに、大変なことの方が多いよね」

 泰波の言葉を、彩琳は慌てて否定する。

「そんなことないわよ、わたしの意思だし。央蓮様は、意外と……や、優しい? 優しいところもあったりなかったりするし。……あっ、さっきの正妃の話は内緒よ? あなたの他は槇槇しか知らないんだから」

 槇槇について言い添えたのは、むしろこれが本当だという証人がいると伝えたかったからだが、信じてくれただろうか。槇槇の前でその場しのぎに央蓮がついた嘘を、改めて補強してしまっているのが、自分でも嫌だ。でも彩琳にできる言い訳の中ではこれが一番最善だった。

 ――泰波は、何か目的や野心があるのかって言おうとしてた。気づかれてないわよね?

 楽宮は、人前で姓を名乗ることも、出自が明かされることもない。彩琳が姫家の娘だと、泰波は知らないはずだ。蘇司山への復讐のために央蓮と手を組んでいることは感づかれていない。そう自分に言い聞かせ、平静を装った顔で泰波を見上げる。彼はいつもの柔らかな笑顔だったが、彩琳はどこか拒絶されているように感じた。

「そっか、じゃあ頑張らないとね。俺は暇だから、いつでも手伝うよ」

「……ありがとう」

 俯いて礼を言うと、「でも」と泰波が呟いた。

「男をかわすのに慣れてるから平然としてるのかと思ってたけど、そうじゃないなら、こういうのはやめた方がいいな」

 泰波が、彩琳の背後に立った。彩琳を閉じ込めるように両手を棚にかけ、つむじのあたりに声をかけた。

「男と二人きりで、こんな暗い部屋を閉め切って長い間出てこないなんてこと、もうしない方がいい。俺が相手じゃなくても」

 彩琳が振り返って見上げると、泰波は心配そうな表情で首を傾げた。茶色だと思っていた泰波の瞳は、中に緑が散っている。束の間、何もかも忘れてその色に見入ってしまう。

 彩琳は我に返ってごまかすように笑った。

「大丈夫よ。だってわたし、別に美人じゃないもの。周りからもなんで寵を得てるかわからないって言われてるんだから」

 実際、本当は央蓮の寵など得ていないのだから、周囲の人が訝しむのも当然だが、泰波は困ったように眉を寄せた。

「君が自分を大事にするのに、他の人の評価は関係ないだろ?」

 その声が思いのほか真剣で、彩琳は言葉が出なくなる。

「それに、他の人の評価は俺にとっても関係ない」

 泰波の指の背が彩琳の髪に近づいて、歩揺ほようにそっと触れる。玉が擦れ合って静かに鳴った。

「……俺は、俺にとってきれいなものが好きだから」

「そ、それなら結局大丈夫じゃない!」

 そう言って泰波の胸をドンと押して、彼の側から離れた。

「えーと、螺鈿のたくに玻璃の瓶子ね!」

 などと不必要に大きい声を出して、目を付けた品物を書付に記す。

「……伝わらないかな」

 呟かれた泰波の声は、彩琳には届いていなかった。彩琳は平静を装っていたが、筆の字が震えていた。心臓がばくばくしている。

 ――何だったの⁉ 気を付けさせるために実演してみせたってことなの⁇

 びっくりした。とてもびっくりした。

 泰波が彩琳の後ろに立つ。先程のような雰囲気はすでに消えていた。

「とにかく、彩琳はもっと気を付けた方がいい」

「わかったわよ、気を付ければいいんでしょ。でも、あんなことしなくってもちゃんと言ってくれれば伝わるんだから、からかわなくたっていいじゃない!」

 まだ胸がドキドキしているのをごまかすように言い返すと、泰波は少し笑った。

「趣味が似てるのかな」

「え? 泰波も玻璃製のもの好きなの?」

 書付の字と泰波と見比べると、首を横に振られた。

「いいや、王子様と」

「央蓮……様は、別に玻璃も螺鈿らでんも好きじゃないけど」

 泰波を見上げて、別に央蓮と彩琳の調度品の趣味は似ていないと言うと、泰波は「鈍いなぁ」と、なぜかとても嬉しそうに笑った。

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