【三】鳥籠の琵琶弾き その一
彩琳は、唇が震え、口がぱくぱくした。やっとのことで口から出た言葉は
「無理!」
だった。
「難しく考えすぎだ、
彩琳は腹が立った。央蓮こそ、その仕事を簡単に考えすぎている。
「そもそも宴席の価値など、物や金と違って不確かなものだろう。ああやって人をもてなすことに多少の効果があることはわかっているが、ある程度こなしさえすれば、評価もされる。足りなければ私の財から
「そんなわけないでしょ! あなた楽宮の仕事舐めてるの!? そんな簡単な仕事じゃないからわざわざ
央蓮は彩琳が一人で騒いでいるのを呆れた顔で見ているが、呆れたいのはこっちである。
槇槇が、驚きに目を瞬かせて彩琳を見ていた。敬語を使わない仲なのは知られていたが、普段の気安い態度までは見せていない。余りのことにそうした気遣いが抜けていた。
まずいと思ったのは央蓮も同じだったらしい。央蓮と彩琳が窺うように槇槇を見ると、二つ数えるくらいの間を置いてから、槇槇が何かに気づいた顔をした。
「……まさか」
ドキッと身がすくむ。央蓮から、一時はなりを潜めた
「央蓮王子は、彩琳を
キラキラした目で槇槇が言って、彩琳は目だけ動かして央蓮を見る。初めて見る慌てたような視線とかち合った。
「なんだか思っていたよりもずっと親密な様子ですし、身を立てさせるというのは彩琳を出世させるのが目的なのでは? 内人であれば
色々と違うが、蘇司山を陥れるために手を組んでいるなどという本当のことも言えない。
――これ、話を合わせた方がいいの?
心の中でいくら尋ねても央蓮の返事などわかるわけもない。
きしむような動きで、央蓮の首が槇槇の方へ向けられる。
「…………そうだ」
央蓮が重々しく頷いた。
「いやー、おれ結構こういうの鋭くって……」
別に真実を言い当ててはいないが、槇槇は得意そうに頭を掻く。
「……こういったことに巻き込んで済まないが、彩琳を側で手伝ってくれる者がいると、私も安心だ」
無理に出したような声だったが、槇槇は何度も頷く。
「わかりました。……この井槇根、力を尽くします! ではその、おれは帰ります。逢瀬を邪魔しては、あれですからね!」
照れたように笑って、きっちりと礼をして槇槇は去って行った。
「ちょっと、いいの?」
「仕方ない」
「……ねえ、引っ込みがつかなくなって側室にしたりしないでね?」
「それはない」
即答されるとそれはそれで腹が立つ。こっちだってこんな
央蓮が目を開けてちらりと彩琳を見る。
「ただ、
確かに断る理由はない。しかし、本当に央蓮が思うほど簡単な仕事ではないのだ。ごまかしがきく、ある程度こなせば評価される、央蓮が
わざわざ席糾という役職を設ける以上、その仕事があるからこそできることをしなければならない。今までの宴席にはない何かは、央蓮が金を積んだって得られないのだ。
それと、央蓮は、彩琳にまだ隠していることがある。
なぜ彩琳を選んだのかだ。姫瑾秀の娘なら、蘇司山に恨みを持っている。使いやすく裏切られにくいだろう。寵姫の許に通っているだけという言い訳も立つので、
――きっと、もっとわたしのこと信用するまで、言わないつもりよね。
知りたいことも、
央蓮がこの仕事の難しさをわかっていないのは明白だが、すでにことは動き出してしまった。
自分を落ち着かせるために言い聞かせた。
――確かにわたしの腕じゃ、内人になれるかもわからない。これを好機にするしかないのよ。
彩琳は一度目をぎゅっとつむってから開く。
「……やるわ」
蘇司山を追いやるためなら、何でもすると誓った。
父のためだと一人頷くと、
◆
「すごいねぇ……!」
令霞は青い瞳をキラキラさせて彩琳を見た。
「そんなに簡単じゃないのよ」
詳しいところをよく分かっていない令霞に、ため息交じりにこぼす。
また
あの日初めて会ってからというもの、泰波は彩琳の行く先々に現れる。教坊の空き部屋の中から出てきたり、坊内の小さな庭、時には屋根の上から現れることもあった。何でちょっかいをかけるのか尋ねてはみたが、「興味が出たから」としか言わない。会っても挨拶するだけなので、特に迷惑ではないけれど、いきなり変なところから出てこられるとびっくりする。
今日は、近くから琵琶の音が聴こえたので泰波を呼んでみたら、どこかの空き部屋で稽古をしていたらしく、少し間を置いてここにやってきた。
「ねぇねぇ、何の
令霞はキラキラした目で彩琳に尋ねる。泰波にも慣れてきたらしい。
「
「何するの?」
令霞に問われて言葉に詰まる。
「それを考えなきゃいけないんだけどね」
ため息をつくと、暗い表情の彩琳に令霞が不安そうな声を出す。
「大変なの……?」
「普段の宴は、前例に
「そっかぁ。じゃあ、何か新しいことしないといけないの?」
彩琳が重々しく頷くと、泰波は気の毒そうな視線を向ける。
「……君の王子様は、もう少し考えてから仕事を振るべきだよね。先に彩琳と相談したほうがよかったんじゃないかな」
「そうなの……!」
そうなのである。いきなり仕事を振る前に、相談してくれれば彩琳だって難しさを説くなり、覚悟を決めるなり出来たのだ。急に「席級をやれ、成功させろ」と言われても困る。
「席糾か、王子様も面白いこと考えるね。
彩琳は眉尻を下げ肩を落とす。
「そうなの……!」
「まだ
その言葉に泰波を見ると、泰波は首を傾げる。
「…………わたし、十七よ?」
「……それじゃ、俺と二つしか変わらないの? ごめん、てっきり十四、五かと思ってた」
失礼な泰波の言葉に言い返そうとして、彩琳はあることに思い当たる。
「泰波って十九なの? 二十は
泰波はちょっと笑いながら、きれいな織りの
「よく言われる。片親が胡人だからかな、昔から上に見られやすいんだ」
「あたし、二人とも同じくらいの年だって、最初から思ってたよ」
令霞がにこにこしながら胸を張る。見た目はともかく、令霞も言動は少し幼く見えるのだが、それは黙っておいた。
泰波は琵琶を膝に乗せ、
「まぁ、権限は大きいけど、先例通りの普通の
芸に秀でた泰波が、宴席の出来を軽視するようなことを言うのが、彩琳には意外だった。
「そもそも貴族たちは、芸術の良しあしを解す奴らじゃないんだよ。どれだけの
「そうじゃない人もいるわ」
彩琳の父は、芸術をこよなく愛し、書画を集め、
「そうじゃない人もいるかもしれないけど、お金や豪華さでしか量れない人は、貴族王族には多いんじゃない? 君の王子様が、その筆頭だろう?」
そう言われると、彩琳は言い返せない。確かに央蓮は形のないものの価値は不確かだから、ごまかせると言っていた。そして、豪華さで心が動くのもわかる。価値があるものを相手に渡す行為は、やはりもてなしの一つの形だからだ。
泰波が、最後の弦の張りを調整しながら、撥で弾いていく。ある一点で、音が整う。調弦の具合を確かめるように、全ての弦を弾いた。一音一音が完璧だからだろう。重なった音には嫌な響きがみじんもない。
彩琳がその音の
「でも、彩琳がどういう宴を作るかは見てみたいな」
泰波は指を慣らすように琵琶を弾く。のんびりとした曲だった。
「最初は自由に考えてみて、それでも駄目だったら王子様に頼れば?」
「あたし、なんでも手伝う。どれだけ難しいのかわかんないけど、彩琳ならできるよ」
彩琳の袖をつまんで令霞がニコッと笑う。
目的の第一歩だ。失敗はしたくない。でも、ここで悩み続けても成功するわけではない。
「俺も、君ならできると思う」
二人の励ましに根拠はないだろうが、応援してくれる人がいると心持ちが違った。
そして、どんなに難しくとも、これは央蓮が無理を押して作ってくれた好機だ。
――そうよ、蘇司山に復讐して、その
そう自分を
「わたし、頑張る。絶対に成功させるわ!」
それでもだめなら、央蓮の財力で解決しようとこっそり思いつつ、彩琳は開き直った。
♦
しかしながら、初めての仕事というのは、そうやすやすと進められるものではない。
まずはどうしても、勉強が必要だった。どの曲がどんな時に演奏されるのか、料理や調度の裏に込められる意味、貴族同士の歴史的な関係、こういうものを知らずに誤ったものを選んでしまうと、もてなすつもりが無礼になってしまうこともある。
急に、明るい曲が聞こえてきた。曲調は明るいが、このどこか寂しげな音を、彩琳はもう聴き間違えない。勉強のために借りていた教坊の一室の窓を開ける。
「どこにいるの?」
音はすぐに止んで、泰波が隣の窓から顔を出した。
「最近頑張ってるみたいだし、明るい曲を聞いたら、元気になるかなと思って」
すぐ窓は閉じられ、廊下側から彩琳のいた部屋へと移動してきた。
「
「……することがないんだ。俺、宴席には出られないから」
書類を広げていた
「…………そうなの?」
これだけの腕を持ちながら、披露する機会が一度もなかったということか。
「たまに、人に琵琶を教えに行くくらいしか、俺の仕事はないからね」
泰波が琵琶の表面をそっとなでた。明るい色の
楽宮は、国に仕えるのが仕事だが、富裕層は自分たちの宴席に喜花坊の楽宮を呼び出すことも出来る。格式を気にする貴族や
「……宴席に出たことがないの?」
「令霞って、呼ばれて来た子だろう? 最初見た時もすごかったけど、普段歩いてるだけでも、身のこなしが人と違う」
質問には答えず、泰波はそう言った。
「えぇ、そうね……招かれたって聞いたわ」
「俺は違う。ただ、閉じ込めるためだけにここに置かれてるんだ。出来るだけ、俺の顔も見せたくないみたい。だから、人が沢山いる宴には出られない。琵琶を教えてるのも、退官したよぼよぼの老人だけ」
こともなげな言葉に、彩琳は何も返事が出来なかった。
泰波は、彩琳と同じで、監視下に置くために楽宮とされたのだろう。しかし、彩琳でさえ楽宮の仕事で坊を出て、宴に出ている。ここまで拘束されなければいけない理由は何なのだ。
――それよりも、ずっと、ただ一人で、この腕を磨き続けてきたの?
聴く人もなく、することもない喜花坊の中で、ずっと。
「……俺のこと怖くなった?」
彩琳を試すような、柔らかいのに危うい笑顔に「いいえ」とはっきり答えた。その笑顔以上に、彼の声の中に微かに響く寂しさが、彩琳の胸に届いた。
「わたしも、多分、あなたと似た
「そう。……俺も、彩琳とは似てるんじゃないかって思ってた」
泰波はいつもの人なつこい笑みを浮かべて、彩琳が広げていた曲目を見た。
「何か調べてるの?」
「今は、とにかくどういう由来があるかを覚えてるの」
泰波は、曲目の一つを指でなぞってから、琵琶をつま弾いた。
「煌が出来る前、戦乱が多かった時代に、ある武将が仮面を被って戦っていたんだ。顔が優しくて士気が下がるからって。それから、これを元にした仮面の舞踏が出来て、それに合わせた曲。……こっちは、水が豊かで、農業が盛んな土地の曲だね。収穫の祭なんかでも音楽がよく使われるから、合奏が多い」
彩琳は、目を瞬かせて泰波を見た。泰波は首を傾げて、ちょっとほほ笑む。
「邪魔だった?」
「いいえ! すごいわ! 泰波、わたしに色々教えてくれない? 曲目を学んでも、すぐにどんな曲かはわからないから、こうして弾いてくれると助かるの」
曲目を見てすぐ弾けて、しかも曲の背景まで詳しいなんてと彩琳は興奮した。泰波は頷くと冗談ぽく肩をすくめた。
「いいよ。暇だからね」
助けてほしい気持ちももちろんあったが、彩琳は少しでも、泰波の気がまぎれればいいと思った。
数日後、泰波は教坊の一室で、彩琳を待っていた。椅子にくつろいで座っているが、近くの几には書類が重なっている。
約束通り、彩琳の教師をしてくれていた。
泰波は、非常に高い教養を持っていた。音楽という専門分野に詳しいのだと思っていたが、曲の時代背景や、
槇槇のように、異国人の
「泰波、この曲を弾いて」
令霞が生まれた西域の曲だ。泰波は軽く眉を上げて笑った。
「これは昨日も教えただろう?」
「違うの。この曲が好きだから、聴きたくて」
「貴族のことと、その関係性は覚えた?」
彩琳は「うっ」と詰まる。昨日出された宿題だ。元は貴族の生まれだが、父はそういうことを彩琳に教えたがらなかった。
「えっと、親の位で子どもを任官できる
何とか系とごまかした彩琳を泰波はじとっとした目で見た。貴族の関係まで
「……一曲だけだよ」
ため息をついて泰波は折れてくれた。なんだかんだ甘いのは、人に琵琶を聴かせるのが好きだからなのだろう。弾いてくれとせがんだときは、いつもより音が優しくなる。
指を慣らすために、泰波は目を伏せ、象牙の撥で一弦、一弦と、音を確かめ、しばし曲にならない音をかき鳴らす。
「泰波は、どうして手伝ってくれるの?」
最初は、喜花坊からほとんど出ることもなく、琵琶を弾いて過ごしている泰波の気晴らしになればいいと思っていたが、今は気晴らしどころか、毎日大変なことに付き合ってくれている。
「……泰波?」
彼はまだ目を伏せたままで口を開いた。
「彩琳は、どうしてあの日声をかけたの?」
初めて会った日のことを問われていた。
「だって、琵琶を弾いてくれたから」
音が止まってしまいそうな彩琳の代わりに、その先を弾いて、彩琳の頼み通りに、そのまま弾き続けてくれた。何よりその音が、素晴らしかった。
「…………皆、俺の琵琶の音は聞こえてた。たまに独り言みたいに巧いって感想を言ってる人もいた。けど、琵琶を弾いてる俺に、直接声をかけてきたのは、君が初めてだった」
薄く目を開けて、泰波は彩琳を見た。
「それだけだったら、こっちから声はかけなかったけどね」
そう言って泰波は琵琶を弾き始める。
「もったいない」
胸の中がぎゅうっとくやしさのようなもので縮んで、気がついたらそう言っていた。
「何が?」
「あなたが。何でも出来て、こんなに、こんなにすごいのに、誰も知らないなんて」
泰波の能力を、本当に惜しいと思った。どうして、彼が
泰波は琵琶を弾く手を止めず、窓の外を眺めて笑った。
「責任が無くて楽だよ」
そうなのだろうか。彩琳には、もちろん泰波の気持ちはわからないけれど、自分の気持ちを口にした。
「……わたし、色々あって喜花坊に来たんだけど、色々あった時も、喜花坊に来てからも、自分には何にも出来ないって思うことばっかりだったの」
だから、最初は、蘇司山のことも考えないようにしていた。
「何にもできないって思うの、苦しかったわ」
央蓮と出会い、諦めていた父の無念を晴らす道を見つけ、
「泰波はすごい人だと思う。わたし、本当にあなたの力が惜しいと思う。何かする力があるのに、それを出す場がないことは、……苦しくない?」
琵琶の音が途切れた。でも泰波は、彩琳に笑顔を向ける。
「俺は、毎日ここで何の心配もなく暮らせたら、それでいいんだ」
それはきっと嘘だ。彼の琵琶はいつも、子どもが親を呼んで泣いているような寂しさが、音の底に響いている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます