【二】形のない才 その二


 彩琳の出した茶を飲んで、槇槇しんしんは長い息をついた。

「いやー、おれあの時は本当に死んだと思った。毎日上から呼び出されて退官させられるんじゃないかってビクビクしてたよ」

 槇槇、以前彩琳と央蓮のいた部屋に突入してきた、井槇根という官吏だ。

 部屋に踏み込んだときは、あれでも頑張ってとりすましていたらしい。普段はこのくらい言葉が砕けている。

 喜花坊きかぼうに配属されてからというもの、他の官吏と違って楽宮とも親しく口を利き、多少の無礼があっても怒らないためか、気づけば付き合いのある楽宮の間では槇槇というあだ名が定着していた。

「あの時は本当にごめんね、おれが官吏ですってごり押ししたから入れちゃったけど、ちゃんとあのお婆さんと話せばよかった」

 官吏の槇槇にぺこっと頭を下げられて、彩琳は驚いた。楽宮になってから、官吏に頭を下げられたのは初めてだった。槇槇は彩琳の反応には気づかなかった様子でお茶を一口飲む。

 槇槇は、一度茶碗の中の茶に視線を落としてから、彩琳をちらりと見た。

「でさ、今日っておれ、なんで呼ばれたのかな? やっぱりまだ怒ってる……?」

「そんな根に持つ人じゃないから、大丈夫だと思うわ」

 急な文での呼び出しで槇槇はこの家に来ていたのだが、文に用件は書かれていなかった。

 その時「ようこそいらっしゃいました」と老女の声がした。彩琳と槇槇も部屋を出て、央蓮を出迎でむかえ礼をする。

「お待ちしておりました」

「ああ」

 央蓮は機嫌が悪い様子だった。元々機嫌のよい顔をしていることなど少ないが、それにしても、今日はいつもの倍は剣呑けんのんな空気を全身から発散している。

 隣の槇槇が、ほとんど聞こえない声で「あ、おれ死んだ……」と呟いた。


 いつも通りの彩琳の部屋で、刺々とげとげしい央蓮と、灰のように白い顔をした槇槇が、何も言わずに座っている。確かに不機嫌だが、槇槇がそこまで怯えるほどだとは思わない。

 彩琳はそっとお茶を飲んでから央蓮を見た。

「今日は、どうしたの?」

 聞こえているはずなのに、央蓮は何も言わずに茶を飲んでいる。

 槇槇がプルプルと震えながら、がばっと頭を下げた。

「本当に申し訳ありませんでした!」

 央蓮は何のことだと言うような顔をした。顔を上げた槇槇は流れるように話し始める。

「あれですよね? 先日のことをまだお怒りだから呼び出したんですよね? あの、おれ実は和国わこくではそこそこの貴族の息子でしてできれば命だけはお助け頂けると……」

「別に、お前に怒ってはいない」

「えっ、だって、その肩……いやあの、違うんですか?」

 央蓮は一度目を逸らして「嫌なことがあっただけだ」と言うと、槇槇に向き直った。

「井槇根、お前のことは少し調べさせてもらった。和からの留学生るがくしょうで間違いないな」

「え? はい。科挙かきょに通り、今ではこのこうに仕える身となりました」

 官吏なので通過していて当然なのだが、改めて言われると、槇槇が科挙に通ったのは、失礼ながら意外だ。

「まだ若いだろう。優秀なのだな」

 おそらく二十過ぎだろう槇槇は「あー……」と言って視線を逸らし、頬を掻く。

「あのおれ、科挙っていってもあれです、明算科で……」

 科挙にはいくつか科があり、高官を目指す者が受けるのは明経科や進士科が多い。槇槇が受けたのは、いわゆる実務向きの科であった。槇槇の視線が更に泳ぐ。

「しかもあのー………………席次は、殿傍でんぼうです」

 科挙は一位を状元と呼ぶように、順位に呼び名がついている。殿傍は、最下位だ。

「……及第きゅうだいとなるだけでも優秀だ」

 央蓮が慰めるように口にして、槇槇は何とも言い難い笑顔を作って「どうも」と頷く。

「なんで、その、おれのことなんかお調べになったんでしょう?」

「最初、私と彩琳が二人でいた所に踏み込んで来ただろう。私は立場上、敵になる者も多くいる。お前が、私や彩琳を探る目的で来たのかと思ったのだ。私たちに気づかれたのを察し、官吏の仕事で来たと装うため、敢えて逃げずに部屋に踏み込んだのかもしれんと」

 槇槇はぶんぶんと手と首を振って否定する。

「そのような者でないのは、調べてわかった。ただ、わからぬ点がある。部署をしばし点々とした末、ここに配属されているな。教坊きょうぼうは出世の当てがなく、年を取った者や左遷させんされた者ばかりだろう。和の者は、文化の受容のために煌に来ると聞く。いずれ帰る身として遊学して過ごす者が多い中、閑職かんしょくに飛ばされながらも退官せず、わざわざ末端の官吏の立場に留まるのが不思議なのだ」

 央蓮が、重そうに肩をさすった。それを見て、槇槇は非常に困った顔をした後で、なぜか気合いを入れるように自分の膝を掴んで口を開いた。

「……央蓮王子、ここに来る前、何人も人を殺してきたような人と会いましたか? その、央蓮王子を嫌っているか、憎んでいるような人だと思うんですけど」

 央蓮が驚いた顔をした。彩琳も急な言葉にびっくりする。槇槇が眉尻まゆじりを下げた。

「最初は王子はおれにむけてるのかと思って死ぬ覚悟決めたんですけど、誰かからもらってきたやつみたいですね。呪いとか、憎悪ぞうおの欠片みたいなものです」

「確かに会った。……道士なのか」

 幾分掠れた声で央蓮が尋ねると、槇槇が首を振って否定した。

「修行したわけじゃないんで、そういうのとは違います。でも、おれがここにいる理由の全部はこれのせいです。俺の家、和じゃ結構位が高くって。中枢ちゅうすうにいて、こういうのが見えると厄介だっていうのは、わかってもらえますか」

 央蓮は頷く。槇槇の膝の上の指先は、かすかに震えていた。

「だから、国を出たくて留学生として煌に来て、帰らなくて済むように官吏になりました。……この国って、継承争いのころ、官吏の間にもかなり血が流れたんですね。まだ新しい、なんていうか、真っ黒いものがあちこちべったりくっついてて、おれ仕事中に吐いちゃったり倒れたりして、左遷されたんです。喜花坊は宮中よりずっと少ないので、今は働けています」

 言いたくないことだったのだろう。槇槇の声は力なく、視線はうつむきがちになる。隠したままでもよかったはずなのにと彩琳が思っていると、槇槇は心配そうに央蓮を見る。

「こんな話、あんまり人にするべきではないと思ったんですけど……、それ、結構強そうなので、道士の方にでも、なんとかしてもらってください」

「そうか」

「……あんまり口外しないでいただけると助かります。同郷の者たちにも、言ってないので」

 道士も方術士も当たり前にいて、広く信じられている。ただ、父が呪殺じゅさつという嫌疑けんぎで捕まった彩琳にとって、それらは不確かなものとしか思えない。

 ――でも、槇槇が、善意で言っているのはわかる。

 人に打ち明けたくないことを、顔色を悪くして、不安で指先を震わせながらも口にしたのは、央蓮を案じてのことだ。

 央蓮が、槇槇を見つめた。

「今日呼び出したのは、もし信用にたるものなら、頼みたいことがあったのだ」

 頼みたいこととは何なのだろうと、彩琳も央蓮の言葉の続きを待った。

「彩琳の仕事を、手伝ってほしい」

 予想していなかった言葉に、彩琳と槇槇が目を見合わせた。

「わたしの仕事なんて、誰かに手伝ってもらうようなことないわよ?」

 仕事といえば宴席えんせきでの下働きや準備の手伝いだ。官吏に手伝ってもらうことなどない。

「彩琳に、うたげの差配の仕事を任せることにした。手伝いをしてくれるものが欲しい」

 決まりきったことを言うような口調だが、彩琳にとっては何もかもが初耳だ。

「待って、どういうこと⁉」

 立ち上がって尋ねると、央蓮は彩琳をじっと見る。槇槇はよく分かっていないようだった。

「彩琳に楽宮として身を立てさせたい。歌舞音曲かぶおんぎょく、全て駄目であれば、これしか道がない」

 宴席の差配、つまり、食事や設え、歌舞の決定、演出までを、彩琳に任せるつもりなのか。

「彩琳、お前は、席糾せききゅうを専門とする楽宮になれ」

 席糾。それは、宴席を糾督きゅうとくする者、宴全ての監督を担うということだった。

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